2017年7月6日更新

沢田研二の息子って誰なの?

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沢田研二

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現在も活動を続ける伝説のスーパーアイドル・ジュリーこと沢田研二

沢田研二は、1948年生まれの京都市出身。グループサウンズ全盛期の1960年代後半から現在に至るまで歌手として活躍し続けています。 1967年にザ・タイガースでデビューすると、「ジュリー」の愛称で一躍国民的スターとなります。文字通りのスーパースターで、数多くの曲が驚異的なヒットを飛ばしました。とりわけその衣装やパフォーマンスは、現在でも話題となるほど革新的でした。 端正なルックスと抜群の歌唱力、そしてカリスマ性で絶大な人気を博した沢田研二は、現在も正月コンサートや全国ツアーを毎年行っており、熱狂的なファンも健在です。

人気絶頂のさなかに解散した伝説のGS「ザ・タイガース」!!

沢田研二が芸能界入りしたのは、17歳の頃喫茶店でアルバイトをしていた時に声をかけられたのがきっかけでした。その後、別のグループサウンズのメンバーであった岸部一徳に誘われて、後のザ・タイガースのメンバーに加わります。 1967年『僕のマリー』でデビューすると、翌年に発売された『君だけに愛を』『銀河のロマンス/花の首飾り』が立て続けにヒットを飛ばし、一気に人気グループとなります。特に、甘い声と端正な顔立ちの沢田研二は10代の女子を中心に熱狂的な人気を博しました。 ところが、時代の流れとともにグループサウンズブームは低迷。とはいえ、ザ・タイガース自体は人気絶頂の中にありましたが、1971年に解散コンサートが日本武道館で行われ、4年という短い活動に終止符が打たれました。解散の裏には、メンバーと事務所の脱退をめぐる騒動があったようです。どの時代も、国民的アイドルグループは苦悩を抱えていました。

日本の音楽シーンの新境地を切り拓いた沢田研二と萩原健一のPYG(ピッグ)時代

ザ・タイガース解散後の1971年に、ショーケンこと萩原健一らとロックバンドを結成します。元タイガースの沢田研二と元テンプターズの萩原健一のツインボーカルということで大きな話題を呼びましたが、コンサートでは双方のファンが妨害合戦を繰り広げることも少なくありませんでした。また当時は、ロックは反社会的なものだと考えられており猛烈な批判も受けました。 沢田研二がソロデビューしたり萩原健一の俳優活動が忙しくなってきたこともあり、PYG(ピッグ)としての活動期間は長くは続きませんでした。そのため、リリースしたシングルは5枚しかありませんが、楽曲の評価は高く、デビュー曲の『花・太陽・雨』は『帰って来たウルトラマン』の劇中歌に使用されたり、『自由に歩いて愛して』は多くのアーティストがカバーしています。

ソロ全盛期の沢田研二の楽曲アーカイブ

『危険なふたり』【1973年】

沢田研二は、1971年に『君をのせて』でソロデビュー。6枚目のシングル『危険なふたり』で第4回日本歌謡大賞を受賞し、ソロとしての人気を不動のものにしました。この時の歌謡大賞の視聴率は驚異の47.4%を記録しています。このころから早川タケジがスタイリストとして担当するようになり、斬新なファッションで注目されるようになります。

『追憶』【1974年】

10枚目のシングル『追憶』も58万枚を売り上げる大ヒットとなりました。翌1975年には11枚目のシングル『愛の逃亡者 THE FUGITIVE』で海外進出を果たします。フランスでもヒットし、フランスのゴールデンディスク賞を受賞しました。

『時の過ぎゆくままに』【1975年】

ザ・ピーナッツの伊藤エミと結婚した1975年に発売された14枚目のシングル『時の過ぎゆくままに』が100万枚近いセールスを記録し、日本歌謡大賞などの賞を総なめにしています。沢田研二自身が主演したドラマ『悪魔のようなあいつ』の挿入歌として使用され話題を集めました。 この曲は、国内外の多くのミュージシャンがカバー。また、沢田研二がドラマで着用したパナマ帽とサスペンダーというファッションが、当時の若い男性の間で流行しました。

『勝手にしやがれ』【1977年】

19枚目のシングル『勝手にしやがれ』は、『時の過ぎ行くままに』に次ぐ大ヒットとなり、この曲でも数多くの賞を受賞しています。歌いながら帽子を投げるパフォーマンスや独特な振り付けが話題となりました。

沢田研二の過激な衣装やパファオーマンスが話題に!!

『サムライ』【1978年】

22枚目のシングル『サムライ』でのナチス風の衣装は問題になり、最終的に違う衣装に変更になりました。同年発売の25枚目のシングル『LOVE(抱きしめたい)』では、スタジオに雨を降らせるなどのパフォーマンスを行い話題に。ちなみに同曲でNHK紅白歌合戦の大トリを務めました。 当時、歌番組やバラエティ番組、ラジオ、コンサートで多忙を極めていた沢田研二。それだけでなく、テレビCMで全裸を披露したり、オールヌードの写真集も発売し、世間を賑わせています。

『TOKIO』【1980年】

29枚目のシングル『TOKIO』では、電飾の施されたスーツを着用しパラシュートを背負いながら歌唱するという奇抜なパフォーマンスで注目を集めました。この曲も多くのアーティストがカバーし、パラシュートのパフォーマンスもバラエティ番組などで真似されます。衣装も、現在では沢田研二のTOKIO風コスプレ衣装として人気があるようです。

沢田研二と前妻の伊藤エミ、2人の間の息子は?!

ザ・ピーナッツとして活躍していた伊藤エミは、1975年に芸能界を引退後、沢田研二と結婚しました。しかし12年後の1987年、沢田の不倫が原因で離婚。伊藤エミに支払った慰謝料は18億1,800万円。これは、当時の沢田の総資産のほぼ全てでした。離婚後の伊藤エミは、公に姿を現すことなく、2012年に病気で亡くなっています。 2人の間には1979年に生まれた一人息子がいます。離婚時の親権は伊藤エミが持ち、姉の伊藤ユミとともに育てました。伊藤エミは、離婚後も苗字を旧姓に戻さず、そのため、息子の苗字も澤田(沢田研二の本名澤田研二)のまま。両親のように歌手や俳優という職業には就かず、一般の会社員のようです。

沢田研二と田中裕子の略奪愛

沢田研二と田中裕子は、1982年の映画『男はつらいよ 花も嵐も寅次郎』での共演がきっかけで、熱愛に発展。大物芸能人の不倫疑惑ということで世間で騒がれました。 当時の田中裕子は、NHK連続テレビ小説『マー姉ちゃん』(1979年)でデビューして数年の頃で、『おしん』(1983年)で主役を演じ人気女優となっていきます。ところが、沢田研二は、この不倫騒動で人気が低迷。伊藤エミへの裏切り行為だとして猛烈に批判されました。ですが、離婚時の慰謝料の額をみると、財産を惜しげもなく差出した沢田研二の田中裕子への想いは半端なものではなかったようです。 1989年に再婚した二人は、現在でもおしどり夫婦として有名です。