2017年7月6日更新

監督自体が嫌ってる映画12選

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アニー・ホール [DVD]

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名作・大作でも監督自身は気に入っていない!?

撮影中からもめる作品も

2015年10月9日に日本公開が予定されている『
』は、アメリカでの公開1週目の興行収入が『ミッション:インポッシブル ローグ・ネイション』に続いて第2位と好評のようですが、監督のジョシュ・トランク自身はすでに出来上がった作品から距離を置く発言をしています。 トランクだけではありません。撮影期間が何ヶ月、何年に及んだとしても、作品の出来が気に入らない監督はたくさんいます。今回は12名の監督と、彼らが嫌っている自作を紹介します。

1.トニー・ケイ『アメリカン・ヒストリーX』(1998)

イギリス人監督のトニー・ケイは、映画業界では完璧主義者として有名。ニュー・ライン・シネマの重役たちは『アメリカン・ヒストリーX』の早い段階の編集で満足していましたが、ケイはさらに洗練させることを望んでいました。 会社から8週間の猶予を与えられ、映画は87分に再編集されました。しかし、主演のエドワード・ノートンの助けを得て、映画はそれよりも長い119分が完成版として公開されました。 この変更に激怒したケイは、『アメリカン・ヒストリーX』は自分の作品ではないとして、劇場公開最初の週に作品を酷評しました。また、自分の名前を映画から削除してほしいと全米監督協会に求め、代わりに「アラン・スミシー」か「ハンプティ・ダンプティ」と入れるように提案しました。

2.ウディ・アレン『アニー・ホール』(1977)

作品賞を含む4つのアカデミー賞を受賞し、監督の最高傑作と言われているロマンティック・コメディー『アニー・ホール』も、
監督本人にとっては残念な出来だったようです。 「この映画は、ある男の頭の中でなにが起こるかを描く予定でした。そして観客は主人公の意識の流れを見るはずで、僕はそのように撮ったんだけど、できたものは支離滅裂だった」とウディ・アレンは語っています。「誰もなにが起こっているのか理解できていなかったし、僕とダイアン・キートンの仲ばかりみんな気にしていました。僕が気にしていたのはそこじゃなかった」

3.デヴィッド・リンチ『デューン/砂の惑星』(1984)

『エレファントマン』が興行・批評の両面で成功を収めたあと、1984年にデヴィッド・リンチは、プロデューサーのディノ・デ・ラウレンティスと共に、フランク・ハーバートの小説『デューン/砂の惑星』の映像化に着手します。 この作品はアーサー・P・ジェイコブスや、先見の明があるチリ人映画監督アレハンドロ・ホドロフスキーに続く3度目の試みでした。映像化不可能と言われていた『デューン』の制作は、リンチにとって長く、つらいものでした。制作規模と莫大な予算のために、リンチは自身の芸術性や創造性を発揮することができず、少しずつ現場から遠ざかっていきました。 最近では、『デューン/砂の惑星』にはいくつもの異なるバージョンがあることがわかっています。なかには全米監督協会が名前を出したくない監督のために作った偽名「アラン・スミシー」が、デヴィッド・リンチの代わりにクレジットされているものもあります。

4.ジョエル・シュマッカー『バットマン&ロビン Mr.フリーズの逆襲』(1997)

映画監督ジョエル・シュマッカーは、自身のキャリアを通して、成功作の続編は作らないことにしていましたが、1997年に『バットマン&ロビン Mr.フリーズの逆襲』でその信念を破ってしまいました。 「いいことがあっても、それにしがみつかないようにしています」とシュマッカーは言っています。「しかし当時、私は『評決のとき』を撮影していて、会社はとても気前が良かったんです。おもちゃ会社もワーナー・ブラザーズ・ストアも私にとても期待していました」結果として、作品は史上最悪のコミック原作映画のひとつと評されました。 『バットマン&ロビン』は、ワーナー・ブラザーズとDCコミック・エンターテイメントへの金儲け連鎖を止めました(少なくとも、8年後にクリストファー・ノーランが『バットマン・ビギンズ』を始めるまでは)。また、シュマッカーはファンを失望させたことに謝罪しています。

5.アルフレッド・ヒッチコック『ロープ』(1948)

『ロープ』は、サスペンス映画の神様と呼ばれるアルフレッド・ヒッチコックの野心作です。 1929年に上演された同名の舞台をベースにしたこの作品は、すべてのシーンを1つの長まわしとして繋ぎあわせ、実際の時間と同じ時間感覚で進むように作られています。ヒッチコックは、オリジナルである舞台の構造と提示の仕方をそのまま映画にしようとしましたが、結局はわがままと慢心であったと感じました。監督はこの作品を「うまくいかなかった実験」としています。 批評的・商業的な賞賛にもかかわらず、ヒッチコックは2度と誰も見ることがないよう、この映画の権利をすべて買い取りました。しかし、1980年の監督死去に際し『ロープ』は劇場で再上映されました。

6.デニス・ホッパー『ハートに火をつけて』(1990)

1990年にデニス・ホッパーは、
主演の『ハートに火をつけて』というスリラー映画を監督しました。 制作の間、配給会社であるヴェストロン・ピクチャーズは『ハートに火をつけて』の仕上がりに不満がありました。そこで、ホッパーの同意を得ずに見やすいよう98分に再編集してしまったのです。会社が作成した上映用の編集に、デニス・ホッパーはひどく腹を立て、公開前に企画から抜けました。映画の監督名は「アラン・スミシー」になりました。 『ハートに火をつけて』がケーブルテレビで放送される際に、デニス・ホッパーはフィルムを119分に再編集したディレクターズカット版を『バックトラック(原題)』とタイトルをつけて公開しました。

7.スタンリー・キューブリック『欲望と恐怖』(1953)

スタンリー・キューブリックは映画史に残る偉大な監督のひとりですが、自身の1953年のデビュー作『欲望と恐怖』が好きではなかったようです。本人は『欲望と恐怖』を「アマチュアがやりがちな映画表現」と評しています。 キューブリックは『欲望と恐怖』が再び日の目を見ないように、オリジナルのネガフィルムと入手可能なすべてのコピーを買い取るために各地に出向きました。 『欲望と恐怖』の公式フィルムはジョージ・イーストマン邸のキューブリックのアーカイブにしかなく、2012年に修復され再上映されました。

8.スティーブン・ソダーバーグ『蒼い記憶』(1995)

デビュー作『セックスと嘘とビデオテープ』で成功を収めた6年後、スティーブン・ソダーバーグはピーター・ギャラガー主演の『蒼い記憶』を公開しました。『蒼い記憶』は批評家からそれなりの評価を受けたにもかかわらず、監督自身の評価は低いようです。 ソダーバーグはこの作品を「乱雑だ」「完成時にはもう死んでいた」と言い、自身のキャリアの中で難しい時期に作った作品であり、「心がこもっていなかった」と認めています。現在、この作品は1993年の作品『キング・オブ・ザ・ヒル(原題)』のクライテリアン・コレクションから発売されているDVDの、ボーナストラックとして見ることができます。

9.マイケル・ベイ『トランスフォーマー/リベンジ』(2009)

興行的な成功にもかかわらず、『トランスフォーマー/リベンジ』はアクション監督マイケル・ベイの最悪な作品と言っていいでしょう。 『ザ・ロック』や『アルマゲドン』、そして最初の『トランスフォーマー』でベイが実現したパンチのあるシーンに欠け、『トランスフォーマー/リベンジ』は脚本のつまらなさに悩まされました。 この作品は2007年から2008年の全米ライター協会のストライキ中に撮影されたため、特集記事も数ページほどでした。作品が公開されてから、ベイはこの作品を「ゴミだ」と言っています。

10.ジェリー・ルイス『ザ・デイ・ザ・クラウン・クライド(原題)』(1972)

1972年にジェリー・ルイスが監督した作品『ザ・デイ・ザ・クラウン・クライド(原題)』は、強制収容所に送られ、子供たちをガス室に連れていく役目を与えられたピエロの物語です。この作品は、結局ざっと編集した段階のポストプロダクションを通らず、劇場で公開されることはありませんでした。 フィルムの存在は2つだけ知られており、両方とも鍵をかけて保管してあります。1つはストックホルム・スタジオが法的なフィルム管理権を持っており、ジェリー・ルイス本人が、個人のアーカイブにもう1つのバージョンを保管しています。 「あの作品に関しては、私は恥ずかしいよ。作ったことを恥じているし、あの作品が誰の目にも触れないように隠すだけの力を、自分が持っていることに感謝している。あれは本当に最低、最悪だ」ルイスはこの作品が観客の目に触れないことを望んでいますが、米国議会図書館は最近この作品を蔵書に加え、公開する予定だとしています。10年以内には公開されるでしょうか。

11.デヴィッド・フィンチャー『エイリアン3』(1992)

ミュージック・ビデオの監督としてキャリアを積んだ後、
は『エイリアン3』で初めて映画を監督しました。大きな収益の見込める興行権を持った今作の撮影には、多くの困難がありました。 フィンチャーは完成した脚本のないまま撮影は開始しなければならず、しかも脚本はちょくちょく書き直されました。また、フィンチャーを完全に映画製作から外すようなプロデューサーやスタジオの役員たちの要望にも応えなくてはなりませんでした。 結局、フィンチャーはポストプロダクションに入る前に監督を辞めました。2003年にエイリアン“4部作”のDVDセットが発売された時、フィンチャーは、シリーズ監督の中でただ一人、製作やリリースに関わりませんでした。『エイリアン3』以降、フィンチャーは必ず全ての指揮権と、最終の編集に関わるようになったのが唯一の良いことです。

12.アーサー・ヒラー『アラン・スミシー・フィルム』(1997)

映画監督アーサー・ヒラーは『バーン・ハリウッド・バーン(原題)』という、映画産業を風刺するポストモダン映画を製作しようとしました。製作者としてアラン・スミシーの名前が使われていましたが、公開の際にスタジオはこれを取り、再編集しました。 ヒラーはこの映画から自分の名前を覗くように頼みましたが、使える偽名は“アラン・スミシー”だけでした。後にヒラーは映画のフィルムを盗み、それを燃やすと脅迫しました。 アートを真似たポストモダンの例は悪い結果に終わり、ヒラーは自分の名前の代わりにアラン・スミシーを監督としてクレジットしました。 批評家も観客も内輪のジョークを理解することができず、『バーン・ハリウッド・バーン』はスタジオに大打撃を与えました。この映画は1998年にジョー・エスターハスの最低主演男優賞と最低作品賞を含む4つのゴールデン・ラズベリー賞を受賞しています。 2000年に全米監督協会は、アラン・スミシーの偽名を使用することをやめました。