高峰秀子、子役時代から大活躍!戦争を知る超名女優を紹介!

2017年7月6日更新

戦前から活躍し、多数の日本映画で主演を務めた大女優、高峰秀子。類まれなる才能の裏には、戦争や家族関係などで苦労した人生でした。たくさんの映画関係者に愛され、生涯で300本近くの映画に出演したといわれています。その奇跡をまとめてみました。

戦前、戦後の映画界を牽引した大女優、高峰秀子

高峰秀子

高峰秀子は、1924年3月27日生まれ北海道出身の女優です。戦前、戦後に映画女優として大活躍し、2010年86歳で亡くなりました。代表作は多数あり、『二十四の瞳』(1954年)の主人公大石先生役などが有名です。

瞳をきらきら輝やかせ気品にあふれ、まさに映画スターという名に相応しい女優でした。

映画女優として第一線を走りながらも、その人生は苦労も多く、晩年はエッセイストとしても活動していました。彼女の凛としてたくましい人生観は、後世に影響を与えています。

子役時代から大活躍!学校にも通えないほど多忙な日々

妻の心

出典: natalie.mu

北海道で生をうけた高峰秀子ですが、4歳のときに父親の妹で叔母にあたる、志げの養女となるため上京します。養母は若いときに女活弁士になり、”高峰秀子”という名で活躍していました。彼女の芸名は、ここが由来となります。

5歳の時に、松竹蒲田撮影所に見学に訪れたことがきっかけで、野村芳亭監督の映画『母』(1929年)のオーディションに参加します。映画デビューするとたちまち大ヒット、次々と仕事がまいこんできました。時には少年役も演じるほど、子役として重宝され、映画スター階段を上り始めました。

当時は、映画会社が役者や監督、スタッフたちをお抱えで雇用するシステムになっており、高峰秀子も子役ながら徹夜で撮影に参加するなど、学業よりお仕事優先の日々が続いたそうです。

女優・田中絹代との関係

非常線の女

出典: natalie.mu

田中絹代は、1909年11月29日生まれで高峰秀子より15歳年上の映画女優です。松竹所属の先輩女優である田中絹代は、高峰秀子のことを妹のように可愛がったそうです。二人が親しくなったきっかけは、1936年のメロドラマ『新道』。姉妹役を演じた二人は、田中絹代の豪邸から撮影所に一緒に通ったそう。

その頃、高峰秀子の生家がある北海道、函館で大火が起こります。2,000名以上の死者を出したこの災害により、被災した親戚たちが高峰秀子を頼って上京してきました。日中戦争を控えた混乱期、まだわずか10歳の高峰秀子が、親戚家族一同の生計を担うことになりました。

いきなり大人の世界で、大きな責任を負うことになった少女にとって、お姉さん的存在の田中絹代はどんなにか頼れる存在だったであろうと思われます。

慰問公演で人々を励ます

乱れる

出典: natalie.mu

戦時中、唯一といってもいい娯楽が映画でした。映画スターたちは、現在でいうアイドルでありアーティスト、同性からは憧れの対象にもなるセレブで、かつ大スターでした。映画スターたちが、国策に起用され、戦地へ向かう隊員たちを鼓舞するために慰問公演が行われる時代。もちろん高峰秀子も、慰問に訪れていました。

幼いときから子役として活躍し、大人の世界で生きてきた高峰秀子でしたが、さすがに命をかけて戦地に向かう隊員たちを前にして、それまでとは意識が変わったようでした。レコードを発売し歌手活動もしていましたが、今一度、声楽家のもとで発声練習を行うと、音響設備のない戦地に赴き慰問公演を行ったのでした。

日本初の総天然色映画の主演に抜擢!!

カルメン故郷に帰る

総天然色映画とは、何を指すかおわかりでしょうか?今でいうカラー映画のことです。モノクロ映画が主流だった時代が終わりを告げ、日本の映画界にもカラー映画が流入してきました。

日本で初めてのカラー映画は、1951年の木下惠介監督『カルメン故郷に帰る』です。高峰秀子は、戦前戦後に活躍した日本映画の監督、成瀬巳喜男や木下惠介の作品によく抜擢されていました。

松竹を退社し、東宝、新東宝と映画会社を渡り歩き、当時としては大変珍しいフリーの女優として活躍していた高峰秀子。古巣の松竹でから、この『カルメン故郷に帰る』の主人公に抜擢されます。高峰秀子が演じたのは、明るく爽やかなストリッパー、リリィ・カルメン役でした。社会風刺の設定はありますが、カラー作品にぴったりのコメディ作品です。

芸能人記者会見の先駆け!日本中が見守った大女優の結婚

松山善三

高峰秀子は、1956年映画監督で脚本家の松山善三と結婚しました。松山善三は当時、映画監督の木下惠介の元で、助監督をしていました。既に大女優になっていた高峰秀子を気遣い、木下監督が報道関係者に事実関係を伝え記者会見の場をセッティングしました。

これが現在まで続く、芸能人の結婚記者会見の元祖となったといわれています。

女優引退後はエッセイストとして活躍

高峰秀子

1979年に女優引退を発表すると、エッセイストとして活動をはじめました。幼いころから家族の分まで生活費を稼ぎ、養母との確執も取り沙汰されるほど苦労をしてきた高峰秀子。そんな彼女の人柄や、メッセージは、各界の著名人に影響を与えたでしょう。

俳優の仲代達矢は、若いころに共演した高峰秀子のことを振り返ってこう語っています。

高峰さんは、舞台出身の私に映画の難しさを教えてくれた先生。いま見ても、つくづくうまいなと思います
引用:eiga.com