2017年7月6日更新

原節子、マッカーサーやハーフ説の真相は?昭和の大女優に迫る!

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原節子

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伝説の女優・原節子のプロフィール

原節子(はら・せつこ)は本名を会田昌江(あいだ・まさえ)といい、神奈川県出身、1920年6月17日生まれ。日本一の美人女優として誉れ高く、戦前から戦後にかけて活躍し、「永遠の処女」とも呼ばれています。 女優になったきっかけは映画監督をしていた義兄・熊谷久虎のすすめだったそうです。日活や東宝の看板女優として、また独立した際にも精力的に活動し、女優生活28年間で108本の映画に出演しました。 銀幕の世界から退いたのが42歳の時。何も語らないまま突然引退し、隠遁生活を送り、2015年9月5日に95歳でその生涯を終えました。謎が多く、ベールに包まれたままの昭和の大女優・原節子について可能な限りまとめていきます。

日独合作映画『新しき土』のヒロインに大抜擢

デビュー作は田口哲監督の日活映画『ためらふ勿れ若人よ』で、この時演じた役の名前・節子から原の芸名が付けられたそうです。そして1937年、まだ16歳の新人女優だった原を一躍スターダムにのしあげた作品が日独合作映画『新しき土』でした。 アーノルド・ファンク監督によってヒロインに大抜擢された原が務めたのは、大和光子役。留学から帰った婚約者の気持ちの変化に絶望する少女を初々しく演じた原は、世界公開のためドイツやフランス、アメリカなど世界を巡り、ヒトラーも絶賛したそうです。

理想に燃える女教師を熱演した『青い山脈』

1949年の『青い山脈』は、石坂洋次郎の小説を今井正監督によって映画化された作品で、同名の主題歌とともに大ヒットとなりました。女学校を舞台に偽ラブレターをめぐる物語が展開され、原は凛々しい女教師・島崎雪子役を務めています。 この『青い山脈』や、娘の結婚を描いた小津安二郎監督作品『晩春』などの演技が認められ、原は毎日映画コンクールの女優演技賞を獲得。それまで容姿先行の女優と言われたこともありましたが、演技面での実力も示しました。

原節子の代表作『東京物語』

1953年の『東京物語』は、家族の絆や人と人とのふれあいを丁寧に描くことで定評のある小津安二郎監督の傑作です。 原は、義理の両親に親身になって接する紀子役を好演。作品自体も日本のみならず海外でも高く評価され、当時小津は英国のサザーランド杯を受賞し、2012年には英国の映画専門誌において「世界映画史上ベスト作品」の第1位に輝くなど、原にとっても小津にとっても一番の代表作となっています。 原を度々ヒロインに起用した小津監督は、容姿ばかりに注目されがちな原に関して、お世辞抜きに日本の映画女優として最高であり、演技にも信頼を寄せていることを語っていたそうです。

原節子のハーフ説やマッカーサーとの噂話は本当?

華やかな西洋風の顔立ちのため、ハーフ説が囁かれた原。一部ではハーフではなくクォーターという話も出たそうですが、どちらも違うようです。 原の実家の会田家は、代々日本橋で問屋を営み、両親ともに日本人。外国人の血が入っているということはないそうです。また、原はお笑い芸人の出川哲郎と遠い親戚にあたるそうで、そうした血筋から追ってみてもハーフ説は消えるのではないでしょうか。 もうひとつの大きな噂。原が20代の頃にマッカーサーがGHQ最高総司令官として日本に来ていますが、当時原とマッカーサーが親密な関係であると巷で語られていたそうです。 これは、世界公開された映画『新しき土』を観ていたマッカーサーが、原のことをチャーミングと言ったことが外国人記者の耳に入り、いつの間にか歪曲されて伝わってしまったのが真相だとか。

突然の引退の理由は?

明確な引退宣言はないものの、1962年の稲垣浩監督作品『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』が原節子の最後の出演作となっています。突然銀幕から姿を消したその理由も語られることはありませんでした。 恩師とも言える小津安二郎監督が他界し、小津の死に殉じたという説。カメラマンをしていた実兄が撮影中に事故で不慮の死を遂げたため、トラウマになっていたという説。老いる前に引退し、美しいままのイメージを保ちたかったという説。 様々に推測されますが、女優が持つ40歳の壁を考えると、容姿が衰える前に引退しファンの心には美人女優のままでありたいと考えた説が有力になりそうです。歳を重ね円熟味をウリとする女優になるには、原は美しすぎたのかもしれません。

一生独身を貫いた原節子

清廉で汚れのない役柄を多く演じ結婚報道もなかったため、「永遠の処女」と呼ばれた原節子。小津安二郎監督との仲を噂されたこともありましたが、小津の弟の妻のコメントから、ふたりの親密さは監督と女優の間の深い信頼感や師弟愛の一種だったのではないかと推測されます。
「小津は原さんを“自分の意図したところを汲んでうまく演技してくれる女優で、尊敬している”と、常々口にしていました」
とはいえ、原も成熟した女性であり人知れず恋をしていたであろうことは想像できます。小津に限らずほかの男性とも結婚に至らなかった理由は、原自身だけが知っているのではないでしょうか。

晩年は鎌倉で過ごしていた?

小津監督が1963年に亡くなり、その通夜に出席したのを最後に公式の場に姿を見せなくなった原は、鎌倉でひっそりと暮らしていたと言われています。鎌倉には原を映画界へ誘った義兄の家があり、その傍で余生を過ごしたのだとか。 原のもとへ足を運んだマスコミ関係者やファンもいたそうですが、原の身内は決して本人に会わせなかったそうです。人目を避けるため散歩をするにも裏口から出入りしていたという原。80代の頃までは、そうした姿が稀に目撃されるものの、90歳を超え体調を崩し入院したことをきっかけに全く見かけなくなったといいます。 その後の2015年9月5日に肺炎で95歳で亡くなりますが、本人の意向により公表はされずマスメディアに伝わったのは約2か月半後でした。 長年表舞台に姿を見せなくても原の人気は根強く、現役時代の活躍をまとめた特集本の発行のほかイベントなどもしばしば各地で行われ、他界する数か月前にも大阪で「銀幕デビューから八十年 女優 原節子のすべて」が開催されていました。 これは、40本以上の原の出演作が上映された大規模な企画だったそうです。2000年にはキネマ旬報による「20世紀の映画スター・女優編」で第1位を獲得し、時代を超えて愛され続けている原節子。 人々を魅了した「永遠の処女」は、謎の引退で「伝説の女優」となり、その人生を全うしたこの先は「永遠の女優」としても語り継がれていくことでしょう。