『ダンス・ウィズ・ウルブズ』の知られざる事実20選

2017年7月6日更新

2015年、『ダンス・ウィズ・ウルブズ』は映画公開から25周年を迎えました。限られた予算と厳しい撮影環境の中、オスカー6部門受賞という奇跡の快挙をあげました。逆境から大成功までサクセスストーリーの裏にある知られざる事実20選をご紹介します。

『ダンス・ウィズ・ウルブズ』大成功の裏側

1990年頃のハリウッドで西部劇は人気のある映画のジャンルではありませんでした。西部劇の製作者は、予算内でかつ2時間以内におさめ、もちろん言語は英語でなければ製作しませんでした。しかし『ダンス・ウィズ・ウルブズ』はその全てをくつがえすことになります。

ケビン・コスナーの主演、初監督となる1990年代の長編作品。南北戦争での中尉として英雄となったジョン・デンバーが、赴任先の西部にて、そこに暮らす先住民スー族との交流を描いた物語です。

ダンスウィズウルブス冒頭

出典: www.1zoom.net

予算は当初の予定より数億円もオーバーしました。キャストは無名の先住民を多く起用し、そのほとんどが視聴者が聞いたことがない言語を話し、作品は3時間にも及ぶという当時の西部劇では特異のものとなりました。

コスナーが〝冒険映画″と呼んだこの映画は、遂にはアカデミー賞6部門を受賞し、世界で約580億円もの興行収入を上げ大成功をおさめます。2015年、映画公開25周年を迎えた『ダンス・ウィズ・ウルブズ』を記念して、映画にまつわる20の事実をご紹介します。

1.始まりはどこの会社も出版したくない小説から

マイケルブレイク

『ダンス・ウィズ・ウルブズ』は、平原インディアンについての本を読み発想を得た脚本家のマイケル・ブレイクが、ロサンゼルスの演劇クラスで知り合ったケビン・コスナーにアイディアを持ち掛けたことが始まりでした。コスナーは、より効果的に映画会社の興味をひくことができると、ブレイクに映画脚本に代わって小説を書くようにアドバイスしました。

ブレイクは友達の家に居候しながら数か月かけて小説を書きました。のちにブレイクはこう話しています。

「私は小説をすべて車の中で書いたんですよ。」
引用:mentalfloss.com

執筆後、多数の出版社に原稿を提出しましたが全て見送られ、30以上の出版社に拒否されたのち、1988年、フォーセットという小さな会社でペーパーバックとして出版されました。

2.どこの会社も資金提供したくない映画

映画製作

アメリカの映画会社から却下されたことから、コスナーは外国の会社に資金提供を求め、最終的にはわずかな外国の投資家から立ち上げ資金を確保します。その後、オリオンピクチャーから約13億8000万円の投資を受けることになり、映画製作としてはほんのわずかながらも約20億7000万円という予算を確保し撮影が始まります。

結局『ダンス・ウィズ・ウルブズ』は予算を約4億1400万円もオーバーしたため、残りはコスナー自身が私財を継ぎ込み撮影が続けられました。

3.コスナーの門

コスナーの門

制作の難しさや巨額な製作費を費やしていることなどから、10年ほど前に記録的赤字を出したマイケル・チミノの西部劇『天国の門』にちなみ、『ダンス・ウィズ・ウルブズ』はハリウッドで「コスナーの門」と侮蔑的に呼ばれていました。

また、映画製作におけるリスクの高さから「コスナーの最後の戦い」と表現し嘲笑する人もいました。

4.スタントのほとんどはコスナー自身で

ケビンコスナー スタンド

コスナーは乗馬や射撃、戦闘、狼とのダンスシーンなどのスタントを95%自身で行いました。その全ては素晴らしいものでしたが、撮影スタッフをひやひやさせることもありました。

バッファロー狩りシーンを撮影中、一頭の乗り手がコスナーと衝突し、コスナーは馬から突き落とされました。その時のことをプロデューサーのウィルソンは以下のように語っています。

「私はその時ヘリコプターに乗っており、ケビンが転倒した!ケビンが転倒した!とだけ聞こえたよ。」

あやうく腰の骨を折りかけたコスナーでしたが、撮影スタッフが息をのんで見守る中、ほこりをふり払いながら立ち上がり馬に飛び乗りシーンを撮り終えました。

5.気が遠くなるような映画製作の道のり

ダンスウィズウルブスのロケ

撮影はサウスダコタ州とワイオミング州の30以上ものロケ地で行われました。

さらには、撮影台本では、3500頭のバッファロー、36張りのテント、300頭の馬、2匹の狼、そしてかなりの数のアメリカンインディアンのエキストラが必要でした。

予算の追加に頭を悩ませ、さらには7月から11月の気温が6度から38度以上と変動が激しく気候環境も厳しいものであり、映画を無事作り終えることができたことがとにかく不思議でなりません。

6.特に骨を折ったバッファロー狩りの撮影

バッファロー狩り

出典: www.wsj.com

映画の最大の目玉であるバッファロー狩りのシーンは、サウスダコタ州フォートピアのトリプルユー・スタンディングブッテ牧場で、3500頭のブッファローと、20人のカウボーイ、馬にくらを付けないで乗馬するインディアンスタント24名、そして150人のエキストラを起用し、仕掛けや特殊撮影、CGなど全く利用せずに撮影されました。

ダンスウィズウルブス バッファローハント

特に3500頭ものバッファローの大群が大草原を嵐のように突進するシーンの撮影は大変困難なものでした。バッファローの群れは一度走り出すと何マイルも進み続け、再度一か所に集めるのに一日中かかるため、毎日たったの1ショットのみしか撮影できませんでした。プロデューサーのウィルソンはエンターテインメント・ウィークリーに以下のように話しています。

「トラックがバッファローの群れを朝の5時に集め始めたとして、11時には定位置に集まるとよいなといった具合だったよ。」

20人のカウボーイと、1台のヘリコプター、10台のカメラを搭載したトラックを使用し、8日間でやっと1シーンを撮ることができました。

7.ロック歌手ニール・ヤングとオレオがバッファローの撮影をサポート

ネイルヤング

至近距離での撮影のため、飼いならされたバッファロー2頭を借りなければなりませんでした。

そのなかの1頭「マンモス」は、ロック歌手のニール・ヤングによって飼育・調教されたバッファローでした。もう1頭はサウスダコタの肉メーカーが所有するマスコットの「コビー」でした。

コビーをカメラに向かって走らせるため、飼育係はコビーの大好きなおやつ「オレオ」で気を引きました。プロデューサーのウィルソンはエンターテインメント・ウィークリーに以下のように話しています。

「たとえ100ヤード向こうにいたとしても、オレオをそこにおけば、コビーはまるでロケットのように真っすぐにオレオに向かって突進していくんだよ。」

8.難しい狼の撮影

トゥーソックス

バックとテディの二匹の狼が一役でジョンデンバーの友のトゥーソックスとして出演しています。神経質な気質をもつ狼の扱いはトレーナーでさえも難しいことで有名です。

強い忍耐とたくさんの肉の断片が二匹の撮影に必要とされました。いずれにしても、映画製作者は、必要であれば銃で撃つこともいとわないとしていました。

また、DVDに収録されている裏話では、唸る狼を撮るために、コスナーとウイルソンが二匹の狼の野生を目覚めさせようと大声で叫んでいる様子も映されています。

9.“顔にしわがある女優”を「こぶしを握り立つ女」役に起用

こぶしを握り立つ女

若い女性を恋愛対象の役に起用する傾向に逆らいコスナーは、経験豊富な当時37歳であったメアリー・マクドネルを「拳を握り立つ女」(Stands with a Fist)に抜擢しました。「拳を握り立つ女」は、子供のころにスー族に養子として迎え入れられた白人女性であり、のちにジョンデンバーと恋に落ちる役柄です。

メアリーはラコタ語を素早く習得し、さらには「拳を握り立つ女」が英語を学んでいく過程も器用に演じました。メアリーの演技はアカデミー助演女優賞にノミネートされるなど高く評価され、また彼女の風になびくようなブラウンヘアーはたくさんの称賛を得ました。

10.コスナーの愛娘も出演

アニーコスナー

当時6歳だったコスナーの娘アニー・コスナーが、子ども時代の「拳を握り立つ女」として、フラッシュバックシーンで出演しています。

11.「拳を握り立つ女」のモデルとなった人物

シンシア アン パーカー

出典: tpr.org

原作者のベイクは、10歳のときにコマンチ族に拉致され育てられたシンシア・アン・パーカーを「拳を握り立つ女」のモデルとしてます。シンシアはテキサス・レンジャーによって1960年に奪還されており、古典的な西部劇『捜索者』(1956年)の物語のモデルでもあります。

また、1800年初め頃にアメリカンインディアンを支持するジョンデンバーという男がポーニー族と親密な同盟関係を持ったとされていますが、映画と関係しているかは明確ではありません。