タップできる目次
- 『ダンス・ウィズ・ウルブズ』大成功の裏側
- 1.始まりはどこの会社も出版したくない小説から
- 2.どこの会社も資金提供したくない映画
- 3.コスナーの門
- 4.スタントのほとんどはコスナー自身で
- 5.気が遠くなるような映画製作の道のり
- 6.特に骨を折ったバッファロー狩りの撮影
- 7.ロック歌手ニール・ヤングとオレオがバッファローの撮影をサポート
- 8.難しい狼の撮影
- 9.“顔にしわがある女優”を「こぶしを握り立つ女」役に起用
- 10.コスナーの愛娘も出演
- 11.「拳を握り立つ女」のモデルとなった人物
- 12.「蹴る鳥」の徹底した役作り
- 13.西部劇史上最高の総収益をあげる
- 14.6部門でオスカーを獲得
- 15.受賞作品の中でも特に上映時間が長い映画
- 16.コスナー、スー族の名誉メンバーに
- 17.いくつかの批評
- 18.アメリカ国立フィルム登録簿に永久保存される
- 19.『ダンス・ウィズ・ウルブズ』には続編がある!?
- 20.『ダンス・ウィズ・ウルブズ』の世界を体験しよう
『ダンス・ウィズ・ウルブズ』大成功の裏側
1990年頃のハリウッドで西部劇は人気のある映画のジャンルではありませんでした。西部劇の製作者は、予算内でかつ2時間以内におさめ、もちろん言語は英語でなければ製作しませんでした。しかし『ダンス・ウィズ・ウルブズ』はその全てをくつがえすことになります。
ケビン・コスナーの主演、初監督となる1990年代の長編作品。南北戦争での中尉として英雄となったジョン・ダンバーが、赴任先の西部にて、そこに暮らす先住民スー族との交流を描いた物語です。
予算は当初の予定より数億円もオーバーしました。キャストは無名の先住民を多く起用し、そのほとんどが視聴者が聞いたことがない言語を話し、作品は3時間にも及ぶという当時の西部劇では特異のものとなりました。
コスナーが〝冒険映画″と呼んだこの映画は、遂にはアカデミー賞6部門を受賞し、世界で約580億円もの興行収入を上げ大成功をおさめます。2015年、映画公開25周年を迎えた『ダンス・ウィズ・ウルブズ』を記念して、映画にまつわる20の事実をご紹介します。
1.始まりはどこの会社も出版したくない小説から
『ダンス・ウィズ・ウルブズ』は、平原インディアンについての本を読み発想を得た脚本家のマイケル・ブレイクが、ロサンゼルスの演劇クラスで知り合ったケビン・コスナーにアイディアを持ち掛けたことが始まりでした。コスナーは、より効果的に映画会社の興味をひくことができると、ブレイクに映画脚本に代わって小説を書くようにアドバイスしました。
ブレイクは友達の家に居候しながら数か月かけて小説を書きました。のちにブレイクはこう話しています。
「私は小説をすべて車の中で書いたんですよ。」
執筆後、多数の出版社に原稿を提出しましたが全て見送られ、30以上の出版社に拒否されたのち、1988年、フォーセットという小さな会社でペーパーバックとして出版されました。
2.どこの会社も資金提供したくない映画
アメリカの映画会社から却下されたことから、コスナーは外国の会社に資金提供を求め、最終的にはわずかな外国の投資家から立ち上げ資金を確保します。その後、オリオンピクチャーから約13億8000万円の投資を受けることになり、映画製作としてはほんのわずかながらも約20億7000万円という予算を確保し撮影が始まります。
結局『ダンス・ウィズ・ウルブズ』は予算を約4億1400万円もオーバーしたため、残りはコスナー自身が私財を継ぎ込み撮影が続けられました。
3.コスナーの門
制作の難しさや巨額な製作費を費やしていることなどから、10年ほど前に記録的赤字を出したマイケル・チミノの西部劇『天国の門』にちなみ、『ダンス・ウィズ・ウルブズ』はハリウッドで「コスナーの門」と侮蔑的に呼ばれていました。
また、映画製作におけるリスクの高さから「コスナーの最後の戦い」と表現し嘲笑する人もいました。
4.スタントのほとんどはコスナー自身で
コスナーは乗馬や射撃、戦闘、狼とのダンスシーンなどのスタントを95%自身で行いました。その全ては素晴らしいものでしたが、撮影スタッフをひやひやさせることもありました。
バッファロー狩りシーンを撮影中、一頭の乗り手がコスナーと衝突し、コスナーは馬から突き落とされました。その時のことをプロデューサーのウィルソンは以下のように語っています。
「私はその時ヘリコプターに乗っており、ケビンが転倒した!ケビンが転倒した!とだけ聞こえたよ。」
あやうく腰の骨を折りかけたコスナーでしたが、撮影スタッフが息をのんで見守る中、ほこりをふり払いながら立ち上がり馬に飛び乗りシーンを撮り終えました。
5.気が遠くなるような映画製作の道のり
撮影はサウスダコタ州とワイオミング州の30以上ものロケ地で行われました。
さらには、撮影台本では、3500頭のバッファロー、36張りのテント、300頭の馬、2匹の狼、そしてかなりの数のアメリカンインディアンのエキストラが必要でした。
予算の追加に頭を悩ませ、さらには7月から11月の気温が6度から38度以上と変動が激しく気候環境も厳しいものであり、映画を無事作り終えることができたことがとにかく不思議でなりません。
6.特に骨を折ったバッファロー狩りの撮影
映画の最大の目玉であるバッファロー狩りのシーンは、サウスダコタ州フォートピアのトリプルユー・スタンディングブッテ牧場で、3500頭のブッファローと、20人のカウボーイ、馬にくらを付けないで乗馬するインディアンスタント24名、そして150人のエキストラを起用し、仕掛けや特殊撮影、CGなど全く利用せずに撮影されました。
特に3500頭ものバッファローの大群が大草原を嵐のように突進するシーンの撮影は大変困難なものでした。バッファローの群れは一度走り出すと何マイルも進み続け、再度一か所に集めるのに一日中かかるため、毎日たったの1ショットのみしか撮影できませんでした。プロデューサーのウィルソンはエンターテインメント・ウィークリーに以下のように話しています。
「トラックがバッファローの群れを朝の5時に集め始めたとして、11時には定位置に集まるとよいなといった具合だったよ。」
20人のカウボーイと、1台のヘリコプター、10台のカメラを搭載したトラックを使用し、8日間でやっと1シーンを撮ることができました。
7.ロック歌手ニール・ヤングとオレオがバッファローの撮影をサポート
至近距離での撮影のため、飼いならされたバッファロー2頭を借りなければなりませんでした。
そのなかの1頭「マンモス」は、ロック歌手のニール・ヤングによって飼育・調教されたバッファローでした。もう1頭はサウスダコタの肉メーカーが所有するマスコットの「コビー」でした。
コビーをカメラに向かって走らせるため、飼育係はコビーの大好きなおやつ「オレオ」で気を引きました。プロデューサーのウィルソンはエンターテインメント・ウィークリーに以下のように話しています。
「たとえ100ヤード向こうにいたとしても、オレオをそこにおけば、コビーはまるでロケットのように真っすぐにオレオに向かって突進していくんだよ。」
8.難しい狼の撮影
バックとテディの二匹の狼が一役でジョン・ダンバーの友のトゥーソックスとして出演しています。神経質な気質をもつ狼の扱いはトレーナーでさえも難しいことで有名です。
強い忍耐とたくさんの肉の断片が二匹の撮影に必要とされました。いずれにしても、映画製作者は、必要であれば銃で撃つこともいとわないとしていました。
また、DVDに収録されている裏話では、唸る狼を撮るために、コスナーとウイルソンが二匹の狼の野生を目覚めさせようと大声で叫んでいる様子も映されています。
9.“顔にしわがある女優”を「こぶしを握り立つ女」役に起用
若い女性を恋愛対象の役に起用する傾向に逆らいコスナーは、経験豊富な当時37歳であったメアリー・マクドネルを「拳を握り立つ女」(Stands with a Fist)に抜擢しました。「拳を握り立つ女」は、子供のころにスー族に養子として迎え入れられた白人女性であり、のちにジョン・ダンバーと恋に落ちる役柄です。
メアリーはラコタ語を素早く習得し、さらには「拳を握り立つ女」が英語を学んでいく過程も器用に演じました。メアリーの演技はアカデミー助演女優賞にノミネートされるなど高く評価され、また彼女の風になびくようなブラウンヘアーはたくさんの称賛を得ました。
10.コスナーの愛娘も出演
当時6歳だったコスナーの娘アニー・コスナーが、子ども時代の「拳を握り立つ女」として、フラッシュバックシーンで出演しています。
11.「拳を握り立つ女」のモデルとなった人物
原作者のベイクは、10歳のときにコマンチ族に拉致され育てられたシンシア・アン・パーカーを「拳を握り立つ女」のモデルとしてます。シンシアはテキサス・レンジャーによって1960年に奪還されており、古典的な西部劇『捜索者』(1956年)の物語のモデルでもあります。
また、1800年初め頃にアメリカンインディアンを支持するジョン・ダンバーという男がポーニー族と親密な同盟関係を持ったとされていますが、映画と関係しているかは明確ではありません。
12.「蹴る鳥」の徹底した役作り
「蹴る鳥」を演じるために、グラハム・グリーンは靴の底によく滑るスライスハムを入れて、姿勢の悪い初老の男性のぎこちない動きを表現しようと試みました。グラハムはアカデミー助演男優賞にノミネートされますが、最優秀助演男優賞は逃します。
後に自身が出演するカナダのコメディー番組『ザ・レッド・グリーン・ショー』の中で『ダンス・ウィズ・ウルブズ』について聞かれ、こう答えてます。
「あのアメリカンインディアン役(グラハム自身のこと)よかったよね。「蹴る鳥」がオスカーを取るべきだったよ。」
13.西部劇史上最高の総収益をあげる
6か月間にわたっての広域な映画公開で、『ダンス・ウィズ・ウルブズ』は国内で約266億8千万円の収益をあげました。『ヤングガン』や『シルバラード』などの西部劇ヒット作品を次々に抜いていき、西部劇のジャンルでは最も高い世界興行収入の記録を持つの映画となりました。
それから25年後の2015年、いまだなお『トゥルー・グリッド』(2010年)よりも高い記録を持っています。
14.6部門でオスカーを獲得
『ダンス・ウィズ・ウルブズ』はアカデミー賞12部門にノミネートされ、作品賞、監督賞、脚色賞、撮影賞、作曲賞、録音賞の6部門を受賞する大快挙を遂げました。西部劇でアカデミー作品賞を受賞したのは1931年の『シマロン』以来の2回目の作品となりました。
15.受賞作品の中でも特に上映時間が長い映画
『ダンス・ウィズ・ウルブズ』は、作品賞受賞映画の中でも非常に上映時間が長い映画です。初公開されたエクステンデッドカットのDVDは236分あり、当時最高記録を持っていた『風と共に去りぬ』(1939)や『アラビアのロレンス』(1962)より長いものとなりました。
しかし、『ロード・オブ・ザ・リング』エクステンデッドDVDエディション(2003)は251分と、さらに長い上映時間の記録を持っています。
16.コスナー、スー族の名誉メンバーに
スー族は部族の平穏な日常の生活に重きを置いた描写に満足し、コスナーを公式に名誉メンバーとしました。任命儀式では、コスナーの髪にわしの羽をさし、手作りのキルトの織物を手渡しました。
しかし数年後、それらを失うこととなります。コスナーはリゾート建設を目的として、スー族が聖なる土地としているサウスダコタ州ブラックヒルズを購入したことを公表しましたが、開発が難航したため、結局2013年に中止されました。
17.いくつかの批評
『ダンス・ウィズ・ウルブズ』は、非常にロマンティックで心情的なスー族の生活が描かれていると評価する評論家も少なくはありませんが、デーヴィッド・シロタはサロン誌で、白人のヒーローが可哀そうな部族を破滅から救い出すといった内容の「英雄的な白人による救済映画」の一つであると批評しました。
また、スー族の言語を出演者に教えるためににコーチが呼ばれたのですが、アメリカインディアンの俳優・活動家であるラッセル・ミーンズは、こう指摘しています。
「あの映画のおかしなところといえば、1人の女性がラコタ語を出演者に教えていたんだけどね。実はラコタ語は男性と女性で言語が違っているんだよ。だけど、何人かの男性のアメリカンインディアンやケビン・コスナーが女性の話し方をしていてね。ラコタ族の男たちを大勢連れて映画を見に行ったんだけど、皆で大笑いしたよ。」
18.アメリカ国立フィルム登録簿に永久保存される
2007年、『ダンス・ウィズ・ウルブズ』は、「文化的に、歴史的に、もしくは芸術的にも重要な映画」として、アメリカ議会図書館のアメリカ国立フィルム登録簿に登録されました。
19.『ダンス・ウィズ・ウルブズ』には続編がある!?
ブレイクは『ダンス・ウィズ・ウルブズ』の続編小説となる『ホーリー・ロード』を2001年に出版しました。一人前のスー族の戦士となったジョン・ダンバーが白人開拓者の侵略から部族を守るストーリー展開となっており、西部開拓の拡大とアメリカンインディアンの苦境の描写は映画評論家に称賛されています。
ミニシリーズとしてのテレビ番組化や映画化が噂されていますが、今現在、定かな情報はありません。
ブレイクは2015年3月に69歳でその生涯を終えました。
20.『ダンス・ウィズ・ウルブズ』の世界を体験しよう
2004年、コスナーはサウスダコタ州デッドウッドの外れで、来訪者に西部開拓について学んでもらうため、「タタンカ、アメリカンバッファローの物語」と称した『ダンス・ウィズ・ウルブズ』の展覧会を開催しました。
また、トリプルユー・スタンディングブッテ牧場は2015年の初め頃に売りに出されましたが、実業家テッド・ターナーが購入し所有しています。
サウスダコタ州でのロケ地は観光もできます。あなたも『ダンス・ウィズ・ウルブズ』の世界を体験してみてはいかがでしょうか?