菅原文太、日本映画史に残る名俳優の魅力を徹底紹介!

2017年7月6日更新

『仁義なき戦い』や『トラック野郎』で有名となった菅原文太!こちらでは菅原文太のプロフィールから、あの高倉健の関係までお伝えしています。少しコワモテの当時の大スター菅原文太についての情報をぜひ見てください!

菅原文太のプロフィール

菅原文太は1933年8月16日に宮城県仙台市で生まれました。その後、4歳から小学校4年生まで東京で育った後に、再び宮城県に疎開し早稲田大学入学までを宮城で過ごしています。

1954年には劇団四季の1期生となり、俳優の道をスタート。その後は映画デビューや雑誌モデルデビューを経験しています。

モデルとしてデビューした菅原文太

菅原文太は早稲田大学在学中に、ファッションデザイナーである中原淳一のモデルとなったことが表舞台への第一歩でした。

その後は劇団四季や東宝映画などのちょっとした端役で芝居をする傍ら、1957年には岡田真澄ら総勢8名で男性モデルクラブの設立をし雑誌やショーなどでモデルとして活動に重点をおいていました。

『仁義なき戦い』でスター俳優に

1958年に新東宝からスカウトされ本格的に俳優になる決心をしました。新東宝の映画に主演作も増えていましたが、低予算の新東宝の映画は世間の知名度が低く、なかなか名前の知られない日々が続きます。

その後、新東宝が倒産してしまい、1967年に東映に移籍をします。多くの端役を経て1973年から始まったヤクザ映画『仁義なき戦い』シリーズの主演を掴みとり、東映を代表するスター俳優となったのです。

菅原が主演をした映画『仁義なき戦い』は名作として、2009年にキネマ旬報が選出した「日本映画史上ベストテン・オールタイムベスト映画遺産200」の第5位にも選出される作品となっています。

『トラック野郎』シリーズも大ヒット

『仁義なき戦い』シリーズが始まった2年後の1975年には『トラック野郎』の主演にも抜擢されました。この作品は、デコトラ(電飾やペイントを施して走るトラック)に乗る運転手たちが引き起こすアクション・お色気・笑い・人情などが入った娯楽活劇です。

今まで『仁義なき戦い』などのヤクザのイメージがついていた菅原文太がコメディタッチの作品に挑戦し、見事そのイメージを払拭した作品となりました。

対照的だが似ている菅原文太と高倉健

菅原文太が初めて高倉健と会ったのは、菅原が東映に移籍して初めての映画でヤクザ映画『網走番外地』の撮影所でした。この『網走番外地』は主演・高倉健のシリーズもので、菅原は名前もない端役として出演したのです。

その後、菅原文太が『仁義なき戦い』などのヤクザ映画に出演。彼の主演作に高倉健がゲスト出演をするなどお互いにヤクザ映画のヒットを飛ばしあう存在になっていきました。

菅原文太が漫画『ワンピース』のモデルに!?

実は大ヒット漫画『ワンピース』には菅原文太をモデルにしたキャラクターがいます。それは、”赤犬”というキャラクターです。赤犬の誕生日は8月16日と菅原の誕生日と同じ日に設定されています。

映画『仁義なき戦い』で菅原文太が演じた広能昌三(広島のヤクザ)をモチーフにしていて、赤犬は広島弁を話します。

息子の死をきっかけに俳優業から遠ざかる

菅原文太には3人の子供がいました。息子と2人の娘1人です。息子の1人・菅原加織(すがわらかおる)と言い、菅原文太と同じ俳優の道を進み、ヤクザ映画やテレビドラマなどで活躍をしていました。

菅原加織は、2001年10月23日に東京都世田谷区の小田急線の踏切で電車にはねられ亡くなってしまいました。当時まだ31歳だった加織が亡くなった時、菅原文太は、当然ながら落ち込み何も手に付かない状態で「もう仕事をしたくない」などと周囲に漏らしていたそうです。

ただ2003年からは俳優活動を再開し、最後の主演作である映画『わたしのグランパ』も同年に撮影・公開されました。

俳優を「半分引退」し農業を始める

息子が亡くなった悲しみから立ち直り、俳優業を再スタートさせていた菅原文太。2009年には山梨県へ移り住み農業を始めました。このときから俳優としての活動が少なくなり始めます。菅原文太は周りの友人たちへ「半分引退した」と語っていたのです。

専業で俳優の仕事をするのではなく、自給自足の生活のために農業に力を入れていこうと思っていたのではないでしょうか。

農作が1年以上行われておらず、また数年の間に作付けする予定のない土地である耕作放棄地を使って農業を始めます。菅原は、自身の畑で採れた唐辛子を使用した八味唐辛子”おひかえなすって”の発売を限定5000個行います。

菅原の畑で採れた唐辛子の他にも、原材料に使われている野菜は全て国内で栽培された無農薬のものを使用しており、こだわり抜かれた一品に間違いありません。また、菅原文太の顔が描かれたパッケージイラストには『ワンピース』の作者”尾田栄一郎”が筆を下ろしています。

高倉健の後を追うようにこの世を去った菅原文太

高倉健がスターの頃に、まだ名前も貰えない役で共演した菅原。そんな彼は、後にヒット作に恵まれ、俳優としての階段を駆け足で上りました。あっという間にヤクザ映画の2大スターといえば「高倉健と菅原文太」と言われる存在になります。

しかし2007年には膀胱ガンを患っている事が判明しました。膀胱を摘出ではなく温存するために放射線治療などを始めましたが、2014年11月13日に定期健診のために病院を訪れた時、検査で病状の悪化がわかりそのまま入院となってしまいます。

入院中に同月10日に高倉健が悪性リンパ腫のために亡くなったという話を聞き、「健さん、東映、映画のことは時間を置いて自分で(思いを)書きます」と関係者に伝えたものの、28日に高倉健の後を追う様に亡くなりました。