【インタビュー】河瀨直美が語る『Vision』言語の壁を越えた心情の機微を描く
河瀨直美監督にインタビュー、最新作『Vision』の裏側を語る
過去にカンヌ国際映画祭で審査員を務めた、女性監督である河瀬直美。美しい映像と芯の強いストーリーを描いた作品を輩出する彼女は、国内に留まらず、今や世界的に注目を浴び、活躍する監督です。 そんな彼女の最新作『Vision』が6月8日より公開されます。フランスを代表する大女優ジュリエット・ビノシュを迎えた、永瀬正敏とのダブル主演。さらにLDHに所属する俳優・岩田剛典が出演する事でも話題になりました。 この度、一見抽象的でありながらも、実はとても実直なメッセージをはらんだ本作の製作の裏側や、監督が託した想いなどをインタビューにて伺いました。
「森の中にいると、騒がしいくらい」幻想的に映す自然へのこだわり
映画は光、映画は愛とおっしゃっていましたが監督が自然や一人の愛を美しく幻想的に描きましたね。特に、森の中の木と木の間の距離感といいますか……木の葉が落ちる音などが、とても繊細で神秘的で心動かされました。自然を撮られることが多い中で、気をつけていることはあるのでしょうか?
仰るとおり、森の中に自分がいる時に感じる音など、音の構成は特にこだわっていますね。よく聞くと本当に川のせせらぎが聞こえて、葉が落ちる音やどんぐりが落ちた時のような音、鳥や鹿などの動物が立てる音・気配とか……そういうものを注意深く構成しています。 画では到底映す事はできませんが、音は私たちの中に実はすごく入ってくるものなんです。智は映画の最後に「賑やかだ」と言うのですが、本当に山の中いると、騒がしいくらい。いろんな生き物がそこにいるという安心感が得られることがありますね。私だけではないという感覚になれるんです。
脚本に載っていなかった、キャスト達の流した一滴の涙の真相
本作では登場人物が物思いにふけりながら、一滴の涙を流すシーンが印象的だ。その涙が実は脚本に載っていない演出だったことを、河瀨直美監督は明かしてくれました。
映画の冒頭に、ジュリエット・ビノシュ演じるジャンヌが、電車に乗って吉野の森の方に向かうシーンがあります。このときのジュリエットは、風景をみながら涙を流すのですが、涙が流れるというのはもともと脚本にはなかったのです。 でもそこに至るまでのジャンヌの人生だったり、吉野の森に何故きたのかというのを全てストーリーとして、ジュリエットは自身の中に構築して撮影に臨んだんだと思います。なので、そこで役柄にシンクロして感極まって、「ようやく来れた」というような感覚が溢れ出たのでしょう。 私はそういう時に「泣くシーンじゃないから、泣かないで」とは言わなくて。そこで溢れ出た彼女の感情を、次に繋げていきました。スタッフは「なんで泣いているの」と、びっくりしていましたが(笑)。 しかし、「これは絶対彼女の中で何かが動いたから」ということで、その感動をエピソードに変えて行く形を私はとったのです。
興味深い話ですね。他の登場人物も同じように涙を流すシーンがありましたが、それもまた脚本にはなく、各々の感情の高まりだったのでしょうか?
そうですね。岩田君に関しても、智の飼う猟犬のコウがいなくなったところで涙を流すシーンがありましたが、あれも脚本になかったのです。「何故涙が溢れ出たのか」と彼に聞くと、すごくコウに対しても、智やジャンヌに対しても、感情が高まったらしいです。岩田君もまた、ジュリエットと同じように役柄にシンクロしていました。
ジュリエット・ビノシュと岩田剛典の共演シーンにグッときた?
ジュリエット・ビノシュの甘美なフランス語が、よりその神秘性を引き立たせる本作。監督自身も、彼女の言葉選びや囁くシーンのひとつが特にグッときたと語りました。
フランス語は、耳元で囁かれているような、音楽のような言語だと思っています。なので、彼女が森の中で囁くシーンには音楽をあえてつけず、彼女の言葉で奏でていくという事をしましたね。 冒頭の電車のシーンからジュリエットは少し知的な言葉のチョイスをします。しかし、それは私が書いたものでなく、彼女が自分なりに書いたものなんです。映画の最後に言う彼女の「Quel beaute!(なんて美しさなの)」という台詞も、私が「森に対して何か言ってくれ」って言った事に対して彼女自身が発した言葉です。 「すごく美しい」ではなく「なんて美しい」と言ってしまう、その言葉選びが深くて、非常に心地よかったです。 特に岩田君演じる鈴に、何か壊れそうな美しさに寄り添うような感じで耳元で囁くシーンも、すごく感情が動いてグッときましたね。
「言語の壁を越えたところの心の様子を表現したかった」
言語の繋がりについて伺いたいと思います。本作では、フランスからのツーリストが日本の秘境に言って日本人と会話をするというシーンにおいて、対話の方法が凄くリアルに描かれているな、と思いました。 最初、日本語を話す智に対してジャンヌはフランス語ではなく英語を使ったではないですか。そこの気遣いですとか、後に智が英語を話すようになっていくという変化に印象的で心を打たれました。そういった言語の壁が作品の中で変化していった事について、どう捉えられているのでしょう?
私自身が日本語と英語とフランス語の中で、これまで十年映画をつくってきたという経験があることは影響しているかもしれません。私は母国語しか話せません。英語は聞いて理解する事はできる、フランス語もわからないけれど、単純によく言われるような事はスタッフの言葉で理解できるようになってきているくらい。 そのリアルな自分の感覚を生かしたかったんです。ジャンヌと智が初めて会って会話をするシーンでも、彼女は通訳もつれてきているから、智は通訳を通して話せば良いのに、そうせず日本語で応対する。彼は絶対的に、ジャンヌのほうに惹かれているんですよ、彼女の態度とかに。そこでのダイレクトな心の交流を表現するために、ジャンヌが智に対して話す言語を、フランス語ではなく彼が理解できる英語にしたんです。
普通の構成だとフランス語を話して、それを訳します。日本語をわかっている人、つまり日本人だけが観る映画として作るのであればそれで良いのですが、 フランス語圏や英語圏の人にも感じてもらえるようにしたかったんです。 実は仰る通り、私は今回言語の壁を越えたところの心の様子を表現したくて、編集の際はあえて訳していないところもあるのです。特に夏木マリさん演じるアキに関しては「この人は絶対心でジャンヌと繋がるな」って思った瞬間からは、通訳の花には訳させていないんですよ。 訳しているというショットは元々あったのですが、編集時に全てなくして、「あえて心を見せる」という行為を表現しました。
ジュリエット・ビノシュの底力、計り知れない役作り
国際的な視点をもって映画作りに取り組まれているのですね。仏大女優であるジュリエット・ビノシュと一緒に仕事をして、彼女の役作りに対する意識や取り組み方をどう感じましたか?
奈良の吉野にはジュリエットさんのようなクラスの女優さんが宿泊できる宿がありません(笑)。なので逆に特殊というかユニークというか、お寺の宿坊に泊まっていただいていたんですよ。 吉野川の前にある宿坊だったんですけど、彼女は朝から本堂でお坊さんとお祈りを捧げていました。さらに、「日本に来た瞬間からパンは食べない、玄米だけ」というように、日本の古来からの食を中心に食べて、身体の中から変えることをされていましたね。 だからスタッフと同じご飯ではなく、山の料理教室の先生を彼女専属のシェフとして、その人にそこで取れた野菜で大根の煮付けとかを作っていただき、玄米と一緒に食べてもらっていました。 技術的な面でも彼女は、撮影のない時でも平均一日4、5時間は宿坊からSkypeで十何年来のニューヨークのコーチングの先生と共にずっと役柄をつくるセッションをしていたんです。部屋には入れませんでしたが、彼女がずっと部屋を行き来していたり叫んでいたりとか……(笑)。役に対する取り組みが素晴らしかったです。 “ジュリエットではなく、ジャンヌとしてそこに存在する”という時間を費やしていました。
「決して逃げない、泣いていても向き合う人です」
続けて、河瀨直美監督はジュリエット・ビノシュの人となりについて語ってくれました。
彼女は二児の母親で、家族との時間をしっかり持っている方です。しかし一方で女優としての向き合い方も持っている点が、とてもストイックだと感じました。 凄い集中力ですし、決して逃げない、向き合うという事をするのが彼女の強さですね。例え泣いていても、向き合う。わからないことも、わかるまで向き合う。とてもわかりやすい人でした。非常に共感する事も、尊敬することも沢山ありましたよ。言う事言う事が、「すごく頭の回転がはやい人なのだな」と感じさせるもので、刺激的でした。
カメラを持って30年、何が今の河瀨直美を突き動かすのか
最後に、18歳の時に初めて8ミリを手にしてから30年が経った河瀨監督に、映画を撮り続けるそのモチベーションを伺いました。
本作の撮影が年末辺りだったので、本作のプロモーションで4ヶ月ぶりに再会するキャストやスタッフもいるのですが、みんな仲良くて。凄く大変なものを乗り越えた同士みたいな感じで、そういうチームが愛おしいという点は大きいです。また彼らと共に映画を創ろうというような気持ちですね。 そして、そこで出来上がる映画が全てを凝縮して濾した、後のもの、そのものがこの時代に残る。私たちがたとえ100年後いなくなっても、映画が残るという事実が次の作品を撮るモチベーションになります。生きているうちに、またやろうという感じになるんですよ。