2017年7月6日更新

寺山修司、存在が"現象"ですらあった天才劇作家のことが知りたい!

死後30年以上経っても展示会が開催されたり、自身が遺した戯曲が舞台化されるなど、今なお伝説として存在し続ける劇作家・寺山修司。彼にまつわる逸話をご紹介します。

寺山修司のプロフィール

寺山修司は1935年に青森に生まれ、早稲田大学在学中に「短歌研究」新人賞を受賞します。その後、文学のみならず演劇や映画、テレビ、果ては競馬評論と多方面で活躍しましたが、1983年に47歳という若さで亡くなりました。

劇作家としての活躍

寺山修司を語る上で欠かせないのが、1967年に彼が31歳の時に設立したアングラ演劇実験室「天井桟敷」です。ここで彼は劇作家として数々の戯曲を遺しました。

毛皮のマリー

日本一ゴージャスな男娼“毛皮のマリー”と、彼に育てられた美少年・欣也との間でうごめく母子間の愛憎劇を描いた、寺山修司の代名詞的作品。

寺山が「天井桟敷」の旗揚げ公演の際に、歌手や俳優として活躍する美輪(当時:丸山)明宏のために書いた戯曲で、現在でも美輪の演出により幾度も再演されています。

身毒丸

母を売る店で買い求められた女・撫子と、亡くなった実母を慕い続ける義理の息子・身毒丸との禁断の恋を描いた、岸田理生との共同作。

1978年の初演以降、長らく舞台化されていませんでしたが、1995年に蜷川幸雄演出、武田真治が身毒丸を演じ再演されました。そして1997年の再演では、身毒丸役に選ばれた当時14歳で芝居未経験だった藤原竜也が大注目されました。

レミング

コック見習い達が暮らす部屋の壁が消失するという怪現象が起こった下宿屋を舞台に、次々と訪れる奇妙な人間との奇妙なやり取りをシュールに描いた、寺山最晩年の作品です。

寺山修司の映画作品を紹介!

彼が書いた作品は舞台のみならず映画化もされており、中には自身で監督を務めたものもあります。

寺山修司の自伝的要素を反映した一本

Asami_Honma 愛する寺山修司の愛する作品。 愛する要素がぎっしり。

地元が舞台の為、この田舎の訛り、薄気味悪さ、逃れられない鎖ですらある母性、わかるんですね本能的に。よく伝えている。

もちろん良いところもある、が、北東北というのは本当に、薄暗く、寒く、寂しい土地であります。

自身の同名歌集をベースに寺山自身が監督した自伝的要素の強い作品。恐山のふもとの寒村を舞台に、母との二人暮らしの生活に嫌気が差し、自立しようとする少年の葛藤と成長を描きます。

母の口ずさむ手毬歌に魅かれた少年の旅

泉鏡花の同名小説を元に、寺山が監督を務めた40分の短編映画。元々は1979年のフランスのオムニバス映画『プライベート・コレクション』の一本として製作されましたが、日本では寺山死後の1983年11月に追悼上映という形で公開されています。

寺山修司の鬼気迫る演出が光る作品

Qua_moon 寺山修司大好き人間としてはやっぱり時計というモチーフの扱い方や、サーカス団の奇妙な人たちのシーン、後半の突然挿入される暗黒舞踏のシーンとか興奮してしまう場面は多いものの、村の人たちのキャラクターがなんだか物足りないような気分……田園に死すの黒い布頭から被ったおばあちゃん集団くらいルックスから強烈なインパクトある人たちが欲しかった

架空の小さな村を舞台に、タブーを犯したために村八分状態にされた一家の、およそ100年に渡る興亡を描いた一大叙事詩。

製作時、寺山は肝硬変に冒されながらも、病身にムチ打って沖縄でのロケ撮影を強行し、時には現場にベッドを持ち込み横になって演出したという監督ぶりを発揮しました。

寺山修司の詩に出てくる名言を紹介

詩人としても多くの著書を遺した寺山。その中のいくつかをここにご紹介します。

名言などは、シャツでも着るように、軽く着こなしては脱ぎ捨ててゆく
引用:laughy.jp
人間に与えられた能力の中で、一番すばらしいのは想像力だけである
引用:www.nhk.or.jp
たかが言葉で作った世界を、なぜ言葉でこわすことができないのか
引用:www.nhk.or.jp
人生には、答えは無数にある しかし 質問はたった一度しかできない
引用:topicks.jp

早稲田大学在学中には歌人として活動していた

15歳の頃から雑誌『青蛾』を自主発行していた寺山修司は、16歳にして俳句雑誌『牧羊神』を創刊するという、10代半ばにしてその才気を発揮します。

そして早稲田大学在学時には、大学内の短歌会に入って歌人として活動。「短歌研究」新人賞を受賞するなど、そのセンスは一層磨かれることとなるのです。

交友関係にあった人物

美輪明宏

おそらく、寺山修司を語る上で最も欠かすことのできない人物でしょう。「天井棧敷」旗揚げ公演の「毛皮のマリー」は美輪にあてて書かれただけでなく、年齢も同い年ということもありプライベートでも親しい間柄でした。

横尾忠則

「天井棧敷」の設立メンバーの一人であり、日本を代表する美術家として知られる横尾。彼ははそのセンスを活かし天井桟敷のポスターや寺山修司が監督した映画ポスター、さらには寺山の死後に開催された展覧会ポスターなどを多数手がけています。

タモリ

『笑っていいとも!』や『タモリ倶楽部』など数々の長寿番組に携わってきた、今やテレビ界を代表するタレントとなったタモリも、元々はアングラな“密室芸”を持ちネタとする芸人でした。

その彼が得意としていたのが寺山のモノマネ。青森訛りのボソボソとした特徴ある喋り方は、寺山本人も「オレってあんな風に喋るんだというのがよく分かった」と語っています。

寺山修司と競馬

大の競馬好きだった寺山修司は、報知新聞に競馬コラムを寄せたり、昭和48年の日本中央競馬会のテレビCMにも出演していました。また、ユリシーズという名の馬主になったこともあります。

さらには、昭和49年の有馬記念で引退したハイセイコーに捧げた「さらば ハイセイコー」といった、競馬にちなんだ詩も認めるなど、競馬ファンにも愛される存在だったのです。