新藤兼人のプロフィール
広島県出身の映画監督・脚本家の新藤兼人(しんどうかねと、1912年4月22日-2012年5月29日)。
日本の商業映画でない自主映画「インディペンデント映画」の先駆者ともいわれている彼は、日本の映画界に多大なる影響を与え続けてきたまさに日本を代表する映画監督です。
その映画作りの才能で国内外多くの賞を受賞し近代映画協会会長なども務めた新藤は、1997年に文化功労賞、2002年に文化勲章を授与されました。
1951年監督デビュー作の『愛妻物語』から、2011年『一枚のハガキ』まで60年もの間に49本の映画を世に残した彼は、100歳を迎えた年の2012年5月29日、老衰によりこの世を去りました。日本が誇る社会派映画監督の巨匠・新藤兼人の生前の軌跡を振り返ります。
山中貞雄と新藤兼人
広島県の広島市内から一山越えた農村で生まれ育った新藤。16歳から兄の家に居候して毎日何をしていいかわからず、街をぶらぶらする日々を続けていましたが、ふと何気なく立ち寄った映画館で山中貞雄監督の映画『盤嶽の一生』を目にします。
その映画を観てとにかく感激した新藤はそれを機に映画監督への道を志す事に決めました。そのときの事を生前にこう語っています。
『すごい映画に出合った。尾道の“玉栄館”という映画館で見た。山中貞雄監督の『盤嶽の一生』で、人の生き方を考えさせる、知恵の働いた映画だった。「これだっ」と思った、突然ね、映画をやろうと思った。 』 — 新藤兼人、中国新聞1990年特集「私の道」
まずは映画助監督になろうと、京都へ行き振興キネマに入りましたがそう簡単にはいかず、現像部・美術助手などを経ながら映画のシナリオを書き続けるという長い下積み時代を経験しました。
初めて自身が書いたシナリオが評価され脚本家としての実力が認められたのは、1945年の映画『待ちぼうけの女』がキネマ旬報ベストテン4位を得るまで。約10年もの歳月が流れていました。
新藤兼人の代表作
『絞殺』(1979年)
映画『絞殺』は、新藤兼人監督が脚本・製作も手掛けたミステリーサスペンス。有名高校に通う息子が突然暴力を振るいだし、それに耐えかねた父親が息子を絞め殺すという実際の事件を基にした作品です。
主演を務めた乙羽信子は、ヴェネツィア国際映画祭にてイタリア映画ジャーナリスト選出女優を受賞したことでも注目を浴びた衝撃の問題作となっています。
『裸の島』(1960年)
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とても小さな離れ島で家族四人が暮らしています 平地の無い島で斜面に畑があり 水やりするのも過酷を極める 水やりの水も小さな手漕ぎ舟で隣島まで汲みに行きます、舟を漕ぐのも重労働 長男の学校への送り迎えも舟で隣島まで、その長男が病に倒れた時も舟を漕ぎ隣島までお医者さんを探しに、殿山泰司と音羽信子の名優二人がセリフ無しの体当たり演技で本当に素晴らしい、世界中の映画祭で賞をとった新藤兼人監督の名作です。
1960年公開の日本映画。新藤自身が監督・脚本を務めた作品で、孤島で自給自足の生活を営む4人の家族を描きセリフを排した実験的な映画です。
キャスト4人・スタッフ11人で予算500万円と低予算で製作されたにもかかわらず、モスクワ国際映画祭・メルボルン国際映画祭などでグランプリを受賞し世界60カ国以上で上映され世界的に有名な作品となりました。
『鬼婆』(1964年)
1964年に公開されたホラー映画。14世紀の日本の田舎村を舞台に、通りかかった侍を殺してから身に付けているものを全て剥ぎ、深い穴へ捨てる女たちを描いた物語で脚本・監督ともに新藤が務めています。
のちの妻である乙羽信子が主演、吉村実子が助演を務めました。吉村実子は今作でブルーリボン賞助演女優賞を受賞しています。
『午後の遺言状』(1995年)
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老女優。夫の死後構わなかった別荘へ避暑に訪れる。そこでは気心の知れた近所の女と娘が世話を焼く。遠方から来た昔なじみ夫婦と旧交を温めたりするある日、女から聞かされた娘についての事実に動揺する「午後の遺言状」西宮5。黄昏を迎えた女性たちの友情や女心を丹念に描く。倍賞美津子さんが美人。2016年7月6日 1995年の映画。出演しているのも往年の大女優達。画面では気付かなかったがエンドロールには今が旬な俳優さん達の名前がゾロゾロ出てきて、おおっって感じだった。お金があっても払いのけられない老いや不安を抱えた主人公だったが最後の「さぁ、人生まだまだ行くわよっ」な表情が印象的。
1995年に公開された人間の老いと死についてコミカルに時にシュールに描いた作品。今作も新藤が脚本と監督を兼任し第38回ブルーリボン賞・第19回日本アカデミー賞最優秀作品賞を受賞しています。
乙羽信子の遺作ともなった今作は、数々の賞を受賞して以降人気作となり現在まで様々なキャストによって舞台化もされています。
『一枚のハガキ』(2011年)
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TVで新藤兼人監督のドキュメンタリー番組をたまたま見て、撮影中の場面を見た時から観たいと思っていた作品でした。あの番組で観たあのシーンがあんなふうになるなんて。テーマは重いですがユーモアあり素晴らしい作品でした。
2011年に公開し、新藤兼人99歳にて最後の監督作品となった遺作。自身の戦争体験を元に書かれた今作は原作・脚本・監督を新藤自身が務め、日本最高齢の映画監督としての記録を保持しています。
豊川悦司主演で、戦争末期に召集された兵士100名がくじ引きで決められた赴任先への移動前夜、ある兵士に妻宛の一枚のハガキを託され届けにいくという物語。
2012年アカデミー賞外国語映画賞にて日本代表として出品され、日本では東京国際映画祭審査員特別賞や報知映画賞特別賞などを受賞しています。
新藤兼人の作風は?
新藤兼人の監督としての作品は、社会的テーマを多く取り込み観る人に強く訴えかけるような社会派の文芸作品を主に製作し得意としてきました。
さらに新藤は自分で監督を務めず他の監督に脚本を提供している作品も多く、脚本のみの作品ではコメディーやミステリーといった作風も手掛け多彩な才能を発揮しています。
脚本家としての活躍もすごい!
前述の通り新藤は日本映画界に監督としてのみならず、脚本家としても多大なる影響を与えた存在でもあります。テレビドラマ・演劇作品を含め、370本以上もの脚本を手掛けてきた新藤。
その郡を抜いた数でもわかる通り、映画監督としてだけではなく脚本家に限定しても多くの評価を受けています。
実力がなければそれだけの仕事のオファーは来ませんし、こなすことなど到底出来ません。さらにプロデューサーや経営者、教育者としての業績も加えると、映画界への貢献度は最高峰といえます。
新藤兼人賞って?
1996年から創設された新藤兼人賞。この賞はその年の新人映画監督のなかから現役プロデューサーのみが審査員をつとめ選考する、日本で唯一の新人監督賞です。
選考基準は、プロデューサーが「この監督と組んで仕事をしたい」や、「今後この監督に映画をつくらせてみたい」という事。他の映画賞は最もいい作品をつくった新人の監督に贈られる賞が新人監督賞ですが、今後の日本映画界を背負っていく人材を育てるという意味で創設された賞となっています。
新藤兼人の格言を紹介!
『仕事とは自分であり続けること』
“私は仕事をして生きてきた。その仕事の中に私自身が含まれていると私は思います。仕事とは、私であり続けること、私とは何かを考え続けることなんです。”
『現実は厳しいから、自分に価値がなければ認めてもらえない』
“私自身を例に挙げれば、シナリオを書き、映画を撮っていますが、私に何ら能力がなかったら世間は受け入れてくれません。現実は厳しいから、お前は年を取ってしまってもう駄目だけれど、仕方がないから認めてあげようなどということは絶対にない。価値がなければ認めてもらえないんです。”
『何のために生きるのかを明確にする』
“人は老いれば、老いというものの中にいろんな問題を抱えます。金銭的に恵まれないとか、健康を害するといったことです。しかし、生き方の成り行きの中でそれらにまみれて自滅していくのはやはり悲しい。できれば、闘いながら終わっていきたい。そのためには何のために生きるかという自分の意志や個性、生き方をしっかり持っていなければならないと私は思います。”
第二次世界大戦に召集されていた
新藤は1944年4月、32歳のときに日本海軍に二等水平として召集され、第二次世界大戦に出向しています。まだ脚本を1本も書いていなかった為、召集されたときにはシナリオを書かずに死ぬのかと絶望したそう。
そして天理教本部宿舎にて掃除部隊として配置された新藤は、上等水平の身の回りを世話などをしていました。しかし共に配属された仲間の大半は前線に送られ戦死。新藤は前線に送られる前に広島に原爆が投下され、生きたまま終戦を迎えることができました。
妻は乙羽信子
新藤は1939年に、撮影の様子や内容を記録するスクリプターをしていた久慈孝子と結婚しています。しかし新藤が戦争のため家を空けている間に、孝子は結核を発症し死去。その妻への想いを書いた作品が監督デビュー作となった『愛妻物語』でした。
その後1946年に美代という女性と結婚し1972年まで婚姻関係を続けていましたが、新藤が60歳のとき美代の申し出により離婚。美代は離婚から5年後、病気のため死去しています。
そして美代と結婚していた間の1951年、監督デビュー作の『愛妻物語』で妻・孝子役を演じた乙羽信子と愛人関係になり美代との離婚後2人は結婚。乙羽信子は新藤にとって3人目の妻となりました。しかし新藤が82歳のとき、乙羽も死去。新藤は3人もの妻に先立たれていたのです。