主役を輝かせたらNo1と言われた男・川谷拓三とは?
2011年に銀座シネパトスで開催された川谷拓三映画祭!
川谷拓三は、映画の中で3000回以上も殺された人間を演じ続けた俳優。身体を張って生きている様を貫いた不世出の役者バカと言えるのではないでしょうか。
映画を心から愛した川谷拓三は、「映画で死ねるなら本望」と語って多くのファンを魅了しました。彼が俳優としてブレイクした70年代は、「実録シリーズ」と言われたヤクザ映画が一世を風靡していました。例えば海外には、クウェンティン・タランティーノ監督のように、70年代のヤクザ映画ファンは多いと聞きます。
今回は、端役で死んでいくヤクザ映画から、主役に成り上がった主演作品。さらには、師弟関係や息子にいたるエピソードまで映画とともにご紹介します。
川谷拓三のヒットCM「日清のどん兵衛」
1976年に、川谷拓三は俳優の山城新伍とのコンビでCM『どん兵衛』に出演。この頃の川谷は、すでにヤクザ映画でブレイクしていました。
このCMでゴールデンアロー賞・話題賞を受賞。その後CMは15年間続きました。CM起用に関しては、映画『仁義なき戦い』での共演した山城新伍からのスポンサーへの薦めが大きかったようです。山城新伍は川谷を「拓ボン」と呼び可愛がっていましたね。
川谷拓三の映画との出会いと、結婚まで
映画の中で多くの殺され役を演じながら生きてきた川谷拓三でしたが、病気には勝てず、1995年12月22日にこの世を去りました。死因は肺癌。彼の経歴は、俳優としての殺され役と同じく波瀾万丈な人生でした。
1941年7月21日に満州で生まれ、6歳の時に敗戦をむかえると一家で満州から引き揚げて、高知県安芸市で育ちます。
父は、日活京都でカメラ助手をしていた川谷庄平。「日本映画の父」と呼ばれたマキノ省三の作品や、時代劇スターの尾上松之助の映画を237本も撮影を行いましたが、その後父は職を失い、川谷拓三は幼少時期から苦労をしたそうです。
生活を支えていた母の二三子が、映画館で働いていたことから、小学生の川谷は、学校帰りには映画のポスター貼りや看板のかけ替えなど、映画と身近な環境で過ごします。やがて中学生になり、俳優のマーロン・ブランド主演した『乱暴者』を観て俳優になると決意します。
「20世紀最高の俳優」と呼ばれたマーロン・ブランドに憧れた川谷拓三
物語は50年代の不良グループを描いた作品で、バイクレースの出場からを締め出されてしまったバイカー集団が、ある日、大挙して田舎町に押し寄せます。やがて別のグループが訪れるとの抗争が勃発する、というストーリー。有名な名作『ゴットファーザー』のマーロン・ブランドが演じた悪のヒーロー像の原点ともいえる作品です。
川谷拓三は、1959年に美空ひばり主演の『ひばり捕物帖 振り袖小判』で死体役のエキストラを務めます。その後、1960年に東映京都の大部屋の俳優として入社。日給250円で斬られ役、殺され役専門となると、1日3回も死体を演じたそうです。
1963年10月6日には、大部屋仲間の女優の仁科克子と結婚。しかし、まだまだ台詞をもらえず下積み時代を過ごします。
日本初!全身火だるまを演じた川谷拓三
70年代に入ると東映ヤクザ映画は、それまでの義理人情に厚く、正義のヒーローが出演する「任侠映画」と呼ばれた路線から、現実的な悪を主人公にした暴力団としてとらえた「実録シリーズ」へと変わります。観客は、義理人情を中心にしたものからリアルな暴力シーンに興味を持つようになったからです。
中島貞夫監督は、いち早く川谷拓三に注目。1971年に菅原文太主演の『懲役太郎・まむしの兄弟』『現代やくざ 血桜兄弟』『現代やくざ 血桜三兄弟』で殺され役として起用します。
特に『現代やくざ 血桜三兄弟』では、日本映画初の全身火だるまという役を、体当たりで演じたことは今なお伝説的に語られています。
伝説的な名作『仁義なき戦い』シリーズにも抜擢!
ヤクザ映画史上最高の名作を生み出した深作欣二監督
深作欣二監督は、今までに誰も見たことのないドキュメンタリータッチで、『仁義なき戦い』を完成させました。
実際に戦後の広島で起きた「広島抗争」の当事者の手記をもとに、作家の飯干晃一が解説を加えた原作を映画化。ヤクザ同士の抗争を題材に、仲間を裏切り、裏切られることでしか生きられない若者たちを描いています。
公開当時、都内の映画館では劇場の扉が閉められないほどの鑑賞者であふれ、ロビーにも次回上映待ちの観客でごった返したそうです。
映画雑誌「キネマ旬報」が、2009年に実施した「日本映画史上ベスト・テン」の「オールタイム・ベスト映画遺産200 (日本映画編)」では、歴代第5位に選出されます。古典的な名作が並ぶ中で70年代以降の作品としては最高位に選ばれています。
川谷拓三は、仁義なき戦いシリーズの第2作『広島死闘篇』で、村岡組のチンビラ役で出演しています。深作欣二監督から役作りのために減量を求められ、20日間で体重を15キロも落として撮影に挑みました。
リンチを受けたチンピラは、両手首をロープで縛られたモーターボートで海中を引き摺り回されるシーンがあります。テストなしで撮影は行われますが、川谷拓三は海底へ沈んでしまい失神、心臓マッサージをされて蘇生したそうです。
この後、木に宙吊りされピストルやライフルの射撃の標的にされて惨殺シーンを、後年、息子の仁科貴は、子どもの頃に父親の出演しているこれらのリンチシーンを観た時、とても怖かったと述べています。
第3作『代理戦争』では、出演を予定していた荒木一郎が急遽降板となって、代役を選考する中で、山城新伍、成田三樹夫、渡瀬恒彦などの出演者からの推薦があり、西条勝治役に選ばれます。役柄は女に捨てられて、敵方の組に抱き込まれるチンピラでした。この作品で、仁義なき戦いシリーズで初めてポスターに名前が載りました。
川谷拓三、初の映画賞受賞!
1975年に、川谷拓三は、深作欣二監督の『県警対組織暴力』で、チンピラの松井卓役を演じています。刑事役の菅原文太と山城新伍の2人から取調室で暴行を受けるシーンが見どころで、迫真の演技によって、京都市民映画祭助演男優賞を受賞。
これ以後も、深作欣二監督の作品では常連の出演となり、『新仁義なき戦い』3部作(1974年〜1976年)、『資金源強奪』(1975年)、『やくざの墓場 くちなしの花』『暴走パニック 大激突』(1976年)、『ドーベルマン刑事』(1977年)と配役を得たことで、川谷拓三の存在が広く認知されていていきます。
ピラニア軍団結成!異色の初出演?
ピラニア軍団のひとり室田日出男は川谷拓三とのコンビの役も多かった
長い間に渡って京都東映の大部屋に所属しながら、切られ役を演じてきました。そんな彼が早くから注目をしていた俳優の室田日出男がいます。
東京東映のニューフェイス出身の室田日出男は、なかなか芽が出ませんでした。しかし、川谷拓三は、撃たれ役が巧かった室田日出男の演技に惚れ込み、いつか出てくる俳優だろうと共感を持っていました。
やがて1975年に、大部屋俳優の川谷、岩尾正隆、志賀勝の3人は、「ピラニア会」を結成。そこに同じく脇役俳優のどこの派閥にも所属していない、室田日出男、小林稔侍、成瀬正孝などが加入して酒飲み仲間を重ねていました。それを若手俳優の渡瀬恒彦が束ねて発起人となり「東映ピラニア軍団」が結成します。
クエンティン・タランティーノ監督やキアヌ・リーブスも尊敬する千葉真一
ピラニア軍団の結成式は、大阪にある真宗大谷派難波別院内にある御堂会館で催されます。特別後援者として俳優の千葉真一、助っ人として渡瀬恒彦、ご意見番として深作欣二監督などが立会人となりました。
その際、千葉真一は舞台に上がらず、客席からカメラを片手にピラニア軍団のメンバーに声をかけて、場の盛り上げ役に徹しました。川谷拓三は、そのような大先輩俳優の千葉真一の姿勢に、とても感謝して号泣したそうです。これらの様子が、テレビや雑誌などで特集を組まれるほどピラニア軍団は話題になりました。
1976年に、ピラニア軍団が総出演した映画も企画され、『河内のオッサンの唄』の一般映画では初主演を飾ります。続く、『河内のオッサンの唄 よう来たのワレ』や『ピラニア軍団 ダボシャツの天』(1977年)でも主演を果たしました。ますます人気俳優になっていったのでした。
川谷拓三、ついに大河ドラマ『山河燃ゆ』に出演
1984年にNHKの大河ドラマ『山河燃ゆ』に出演。他の出演者には、松本幸四郎、西田敏行、大原麗子、多岐川裕美などがいます。
原作は山崎豊子作の『二つの祖国』で、日系アメリカ人2世の兄弟を中心に、太平洋戦争によって友人や家族が引き裂かれていくを悲劇に描きながら、日中戦争や極東国際軍事裁判といった史実を盛り込みながら執筆された大河ドラマです。
その後も立て続けにNHK制作のドラマ出演。1985年に『國語元年』や、1986年に銀河テレビ小説『月なきみ空の天坊一座』、また、1987年に、NHK連続テレビ小説『チョッちゃん』など引っ張りだことなります。
大部屋時代の切られ役や、川谷拓三が愛してやまないヤクザ映画から、NHKドラマに欠かせない存在になったのです。
川谷拓三VSサム・ペキンパーの伝説
バイオレンスの巨匠・サム・ペキンパー監督に喧嘩を吹っ掛けた?!
80年代に入ってからの川谷は、テレビドラマや映画出演も多く、日本アカデミー賞の優秀助演男優賞に2度ノミネートされるほど、脇役ながら名バイプレーヤーとして活躍をしました。しかし、やはり彼が愛してやまなかった映画は、ヤクザ映画だったようです。
サム・ペキンパー監督が来日した際に、山城新伍が司会を務めた深夜のテレビ番組「独占!男の時間」に、俳優のジェームス・コバーンとゲスト出演していました。そこに自宅で酒を飲みながら番組を見ていた川谷拓三が乱入したことがあります。
山城新伍が、泥酔していた川谷をトークに参加させましたが、サム・ペキンパー監督が、握手を求めていることにもしばらく気付かないほど酔っていました。映画談義が日米の映画監督の比較する話になると、突然「日本にも深作欣二がおるで~!」「ハリウッドがナンボのもんじゃい」「ペキンパー、深作欣二と勝負せんかい!」と大声で叫んでいました。
当時この番組を観たヤクザ映画や、アクション映画好きな視聴者の間では、今なお川谷伝説のチンピラぶりに熱い思いがあるようです。
晩年も恩師の鶴田浩二に会いたかった
若い頃は、任侠映画でもトップスターになった俳優の鶴田浩二の付き人をしていました。
川谷の長兄が癌で余命宣告を受け時に、長兄は鶴田浩二の大ファンということから死ぬ前に一目会わせてあげたいと、大部屋俳優としては御法度的な行為ではあったが、大スターの鶴田浩二がいた酒宴の席に飛び込み、見舞いに来ていただけないかと頭を下げたそうです。
鶴田浩二は、「ワシの顔見て、死んで行けるんならそれも供養や。行ってやるよ」とその場を中座して、長兄の入院する病院へ駆けつけてくれました。その恩義から鶴田浩二の付き人を務めます。
しかし川谷はギャランティ問題や、ピラニア軍団設立などによって、鶴田浩二と絶縁状態となってしまいまいます。それでも川谷拓三が亡くなる4か月前には、すでに体調悪化していたにも関わらず、恩師の鶴田特集という、テレビ番組『もう一度会いたい あの人・あの芸 鶴田浩二』(1995年)にゲスト出演。また肺癌で亡くなるの数日前収録された『この人この芸 鶴田浩二』では、単独で司会を務めて、鶴田との思い出話を語り尽くしました。
そして最愛の息子の仁科貴の名付け親は、鶴田浩二なのです。
川谷拓三の最愛の息子も俳優だった!
父親の川谷拓三に面影がよく似てる息子の仁科貴
息子の仁科貴は、1970年8月21日生まれ。現在はオフィス北野に所属しています。
1997年に、北川篤也監督の『ピエタ』でデビュー。その後、北野武監督や、深作健太監督の作品に出演しています。映画を中心に活動した。主な出演作品には、2008年に、北野武監督の『アキレスと亀』、2009年に、フローリアン・ガレンベルガー監督の『ジョン・ラーベ 〜南京のシンドラー〜』などがあります。
また、2016年8月20日から9月9日まで、東京都品川にあるキネカ大森で開催された、「夏のホラー秘宝まつり」の中の1作品として、大畑創監督の『EVIL IDOL SONG』に出演していました。
今後も名優であった父の川谷拓三のように、仁科貴の俳優活動にも注目していきたいですね。