2017年7月6日更新

『シンドラーのリスト』の真実を知る20の制作裏話

このページにはプロモーションが含まれています
シンドラーのリスト

AD

1.ビバリーヒルズの鞄店でその物語は作家トマス・キニーリーへと伝えられた!

1980年10月、オーストラリア人作家であるキニーリーは、ソレントで行われた映画祭のあとブックツアーを終え、ビバリーヒルズの鞄店に入って行きました。そこは後に映画化されることになるキニーリーの1冊が生まれた場所でした。 店主であるレオポルド・ページはキニーリーが作家だとわかると、“人と人との人間味溢れる物語”について語りはじめました。 それは第二次世界大戦中、ページと彼の妻や何千ものユダヤ人がオスカー・シンドラーという名のナチスの工場主にいかにして救ってもらったかという物語でした。 ページはキニーリーにシンドラーに関連する資料のコピーを渡しました。そこには演説内容や直接取材した報告書、また証言やオスカーによって救われた人々の名前の載った実際のリストまでもが含まれていたのです。 それに触発されてキニーリーは映画の元となった『シンドラーの箱船』という1冊を執筆したのです。ページ(本名ポルデク・ペファーベルグ)はこうして映画の顧問となったのでした。

2.ページがシンドラーについて自身の体験を語ったのはキニーリーが最初の人物ではなかった

実はページの物語を映画化する権利は1960年代にMGMが最初に約1800万円で購入していたのです。それはキニーリーの時同様に、ページが鞄店で映画プロデューサー、マーヴィン・ゴッシュの妻に不意に話を始めた後での出来事でした。 ゴッシュ夫人がその物語を夫に伝えると、夫ゴッシュは台本を執筆するために『カサブランカ』の共同映画脚本家であるハワード・コッチを雇ってまで映画化することに同意したのです。 コッチとゴッシュはロサンゼルスエリア内外にいるシンドラーに救われたユダヤ人やシンドラー本人にまでインタビューをはじめました。しかし長いこと公にならなかったため、その企画は行き詰まってしまったのです。

3.リストは2つ以上ある!!

合計7つのリストが戦時中、オスカー・シンドラーと仲間によって作成され、さらには4つが今もなお存在していることがわかっているのです。2つはイスラエルのヤド・ヴァシェムに、もう1つはワシントンD.C.にあるアメリカ合衆国ホロコースト記念博物館にあります。そして個人が所有していたもう1つのリストは、2013年にeBayでオークションに出されたのですが、落札されることなく終わりました。 最初の2つのリストをモチーフにした映画が1944年に制作されました。それに続く5つのリストは最初の2つを更新したもので、シンドラーが自身の工場に雇った1000人以上のユダヤ人の名前が含まれていました。

4.スティーヴン・スピルバーグが最初にシンドラーの存在に気づいたのは1980年代初頭!

MCA/ユニバーサルの代表取締役であり、スピルバーグにとっては父親代わりでもあるシドニー・シャインバーグが、監督スピルバーグにキニーリーの著書を渡したのは初版が出版された1982年のことでした。その時既にスピルバーグはこのように返答したのだそうです。
「きっとすばらしい映画になるでしょう。それは実話なんですか?」
最終的にスタジオがその著書の権利を買い、そして物語について話し合うためにページがスピルバーグと会った時には、監督スピルバーグはホロコーストの生存者であるページに10年以内には映画化すると約束をしたのです。 ところがその企画には10年以上もの間、何の動きも見られませんでした。スピルバーグはそんなにも深刻な題材になかなか向き合う気持ちになれなかったのです。 一方ハリウッドの大御所ビリー・ワイルダーは『シンドラーのリスト』を自身の最後の映画にすべく、キニーリーの著書の権利を買おうとしましたが、その前にスピルバーグとMCA/ユニバーサルが権利を買い占めていたのです。

5.スピルバーグは映画制作を決める前に他の監督に制作を依頼しようとしていた?!

スピルバーグが映画制作に気が乗らなかったのは、ホロコーストについての映画に自分がしっかり取り組めるほど覚悟ができている訳でも成熟しているわけでもない、とどこかで感じていたからなのでした。 そこでスピルバーグは映画を作ってくれる監督を募ろうと試みました。最初に声をかけたのは、ホロコーストの生存者であり、実の母をアウシュヴィッツで殺害されたロマン・ポランスキー監督でした。ポランスキーは辞退しましたが、後にホロコーストについての映画、『戦場のピアニスト』を自身で制作し、2003年にはアカデミー監督賞を受賞しています。次にスピルバーグはシドニー・ポラック監督に映画の依頼をしたのですが、またしても辞退されてしまいます。

6.この映画はユニバーサルにとっては賭だったため、スピルバーグに桁外れの取引をさせた!

ようやくスピルバーグが『シンドラーのリスト』の制作を決心した時には既にかなりの時間が経ってしまっていたので、スピルバーグとユニバーサルは二の足を踏んでしまいました。比較的低予算の約25億5300万円でホロコーストについての3時間の白黒映画、というのはリスクが高すぎました。 そこでユニバーサルは、スタジオで計画されていた別の映画、『ジュラシック・パーク』を制作するようスピルバーグに頼むことにしました。お金になる夏の映画を先に制作し、そうすればその後で渾身の作品に取りかかれるんじゃないか、とユニバーサル側は申し出たのです。 スピルバーグがそれに同意すると、『ジュラシックパーク』が1993年7月に、『シンドラーのリスト』は1994年2月に立て続けに公開されたのです。

7.スピルバーグは映画制作の報酬受け取りを拒否した?!

多額の予算が投じられた映画に多く携わり、ハリウッドで最も成功した監督となったスピルバーグは今や大富豪ですよね。 そんなスピルバーグは『シンドラーのリスト』を非常に重みのあるものと考え、私利私欲抜きにして作るべきと強く思い、なんとこの映画に対する報酬やスピルバーグが得ることになるいかなる利益も永遠に放棄したのです。 スピルバーグはそのように自分が個人的に得る利益のことを“賠償金”と呼び、受け取らない代わりにその報酬を"ショア基金"の設立にあてました。それはホロコーストの生存者のことをたたえ、忘れないようにするために設立されたもので、そこには個人の思い出や音声や映像によるインタビューが集められています。

8.共同制作者ブランコ・ラスティグってどんな人??

ブランコ・ラスティグはスピルバーグのために、袖をめくり自らの腕に彫られたアウシュヴィッツでのシリアルナンバーを見せながら、映画をプロデュースするためのロビー活動を行いました。 実際ラスティグはプロデューサーとしてテレビドラマ『戦争と追憶』で、アウシュヴィッツでの撮影経験があったのです。

9.(比較的)無名な俳優であることが重要

ケビン・コスナーからメル・ギブソンまで、多くの大物ハリウッド俳優たちが『シンドラーのリスト』の役者として考えられていましたが、スピルバーグはいわゆる映画スターと呼ばれる人たちをキャスティングすることはしませんでした。観客が映画が始まる前から出演する俳優たちに先入観を持ってしまうだろうとスピルバーグは考えたのです。そこでスピルバーグは無名のリーアム・ニーソンを起用したのです。

10.迫真の演技に身震い!

ナチスの親衛隊大尉アーモン・ゲートを演じたレイフ・ファインズは、役のため体重を約13kg増やしました。ファインズの迫真の演技にページの妻ミラは、映画を見て身震いしてしまったほどでした。

11.道徳的かつ芸術的観点から白黒で撮影することを決断した

スピルバーグは様々な理由を考え抜いた末、映画を白黒で撮影することを決めました。 白黒はカラーでは表現できない時空を超えた質感を出せる、とスピルバーグは感じていたのでした。 “白黒”でホロコーストのドキュメンタリー映像を思い出したスピルバーグは、ホロコーストで命を奪われたことを表現するには、この映画に色をつけない方が良いと思いついたのです。

12.赤いコートの少女は実在した!!

ゲットーが一掃されているシーンで無垢の象徴として出てくる赤いコートの少女は実在の人物が元になっているのです。 映画の中で、その少女を演じたのは当時3歳だった女優オリウィア・ドンブロフスカ。18歳になるまで作品を見ない約束をスピルバーグと交わしました。しかし、オリウィアは11歳の時に映画を見てしまい、自分のしたことを受け止められずに何年も過ごしたと言われています。 のちにオリウィアはデイリー・メールにこのように語っています。
「自分が誇りに思えるものの一部だったんだって気づいたの。スピルバーグは正しかった。大人になってからあの映画を見るべきだったわ。」
赤いコートの実際の少女の名はローマ・リゴッカ。クラクフ・ゲットーの生存者で、そこに住むユダヤ人たちの間では赤い冬のコートで知られていました。リゴッカは今はドイツで画家をしており、後に『赤いコートの少女』という自伝を執筆しました。

13.英語で上映される予定ではなかった?!

よりリアルになるように、当初スピルバーグは字幕を使って全てポーランド語とドイツ語で撮影したいと考えていました。しかし最終的にはそうはしませんでした。そうしてしまうと字幕のせいで画面に映し出される映像の切り替わりにテンポよくついていけなくなり、また映像の重要性を阻害してしまうと感じたからです。 スピルバーグ曰く
「映像を観てほしかったんだ。字幕を読むんじゃなくてね。読むと無駄が多すぎるよ。読んでいるといつの間にか画面から目を離し、何か他のものを見てしまうからね。」

14.スピルバーグさえ直視できなかったシーン

セットで大泣きしてしまうこともよくあるスピルバーグにとって最も大変だったのは、収容所に集められた捕虜たちが服をはぎ取られ屈辱を受けるシーンでした。実際スピルバーグはその撮影場面を見ることができなかったと言われています。

15.ロビン・ウィリアムズに毎晩電話…その訳とは?!

映画撮影にあまりにも感情を揺さぶられ、作品制作に携わる全ての人が大変なショックを受け、精神的苦悩に対処する術を見つけなければならない人も多くいたほどでした。 スピルバーグ自身もロビン・ウィリアムズに毎晩電話をしてもらったり『となりのサインフェルド』の再放送を見たりしていたそうです。

16.プロデューサーにも辛い役回り

地元の人にエキストラについて話を付けるのもプロデューサーとしてのブランコ・ラスティグの仕事。 2013年に雑誌タイムに語ったところによると、ラスティグにとって撮影で最も辛かったことは、ゲットーが一掃されるシーンでトラックに詰め込まれながら歌を歌う子どもたちを募集することだったそうです。 ラスティグは当時を振り返り、このように語っています。
「歌を歌ってくれないかと小さな子どもたちに頼みにクラクフにある学校へ行ったのも、行進し歌ってもらうために我々の造ったロケ地にその子たちを連れて行ったのも私なんですよ。撮影中スティーヴンが私の所にやってきて私を連れ出したのはそれが最初で最後のことでした。」

17.スピルバーグは独自の調査をしていた

この映画に関する自分自身の視野をより広げるために、映画撮影が始まる前にスピルバーグはポーランドへ行きました。ホロコーストの生存者にインタビューをし、映画の中で表現しようと思っていた実際の現場を訪れるのがその目的でした。ポーランドでスピルバーグは、ポモルスカ・ストリートにある以前のゲシュタポ本部やシンドラーの実際のアパート、アーモン・ゲートの大邸宅を訪れました。 最終的にプワシュフ強制収容所をすぐそばの廃れた採石場に再現して、ポーランドで92日かけてロケ撮影が行われることになり、アウシュヴィッツ強制収容所ゲートの外での撮影も許可されました。

18.スピルバーグは楽器演奏もできちゃう!!

ワルシャワプレミアでは、クレズマーのバンドが出てきて伝統的な東欧系ユダヤの音楽を演奏しました。 その時のスピルバーグについてラスティグはこんなふうに語っています。
「スティーヴンがサックスを吹けるなんて知らなかったよ。彼はサックスを手に取って、バンドと5~6分演奏したんだよ。しかもとっても上手かった。」

19.多数のアカデミー賞ノミネート!!

『シンドラーのリスト』はアカデミー賞12部門でノミネートされました。うち作品賞、監督賞(この部門ではスピルバーグにとって初のオスカー)、脚色賞(スティーヴン・ザイリアンが受賞)、編集賞、撮影賞、美術賞、作曲賞の7部門で受賞しました。 ニーソンとファインズは主演男優賞にノミネートされていましたが、受賞は逃してしまいました。

20.批判の声も多かった!!

しかし誰もがこの受賞に歓喜したというわけではありませんでした。クレームの多くは人気雑誌などに寄せられる批判というよりは学者からのものでした。 作家サラ・ホロウィッツは、ゲートを悪役仕立てにし過ぎてしまったあまり、ドイツ人とポーランド人のホロコーストでの本来の役割が抜け落ちてしまっている、と指摘。 また、ブラウン大学で歴史を教えているオマー・バルトフ教授は、ユダヤ人の役者は大きくて人目を引くニーソンとファインズに比べると皆小さいし目立たないようにしているように見えたと批判。また、ユダヤ人役者たちは出演者ではなく自分たちの物語の観客のように見えた、とも。 さらに、映画監督クロード・ランズマンは『シンドラーのリスト』のことを“低俗なメロドラマ”だとか“歴史的事実を歪ませたもの“などと称しました。そしてドイツ人主人公の目線で物語が作られているとスピルバーグを批判しました。 ランズマンがここまで言うのもなるほど、大作『ショア』はホロコーストに関する最も信頼できるドキュメンタリーとみられているのです。