映画音楽に貢献したハンガリーの天才作曲家、ロージャ・ミクローシュ
ロージャ・ミクローシュは1907年4月18日にハンガリーのブタペストで生まれました。5歳の時からバイオリンを学び、その後ヴィオラとピアノも学び始めました。
1926年からライプツィヒ音楽院で学び、バイオリン協奏曲を披露しました。1931年からパリに移り、「ハンガリー民謡の主題による変奏曲」「小オーケストラの為のセレナーデ」を上演。
1935年にロンドンに移住した後はバレエ音楽「フンガリア」を作曲します。そしてハンガリー人のアレクサンダー・コルダに出会い、イギリス映画『タチアナ』の為の作曲を依頼されたのでした。
『バグダッドの盗賊』の作曲をしている間、ロージャはカリフォルニアに移ります。ロージャの不気味な雰囲気の音楽はフィルムノワール(アメリカのホラー映画や刑事映画)を高めました。
1995年の7月27日、アメリカ・ロサンゼルスで肺炎と心不全の為、生涯の幕を閉じます。
映画音楽との出会い
1934年に友人のアルテュール・オネゲルとパリで行われた作曲家達のコンサートに参加します。
アルテュール・オネゲルは『レ・ミゼラブル』の為に曲を書いており、それを見に行った時にとても感動したそうです。この出会いが”映画”との初めての繋がりになりました。
曲の提供や指揮者として参加した映画やテレビドラマの数は、名前に出ていないものも合わせると129作品にのぼります。
父親の反対
父親は、ロージャにドイツのライプツィヒ大学で化学を学んで欲しかったそうです。それは逆にロージャの作曲に対する意欲を燃やしました。しかし父親の、作曲だけでは食べていけないという忠告を受け止めています。教授だったロージャは南カリフォルニア大学で
プロの作曲とは、生活していくことの出来ない唯一の芸術です。例え餓死したとしても、それはあなたが作り出した不幸ですよ。
と言っています。
また、1960年にロージャは”タイム誌”にコメントを寄せています。
”作曲家になる”という事は決められる事ではありません。生来の才能が必要であるし、それに加え100%の作曲への衝動が必要です。
ロージャ・ミクローシュの家族
1943年にイギリス人女優で歌手のグレイシー・フィールズの秘書であったマーガレット・フィンラーソンと結婚しました。娘と息子がおり、3人の孫がいます。
ロージャ・ミクローシュの音楽の源
ロージャは父の死後、アメリカから母親が迎えに来た時に1000冊ほどの本がある図書館からハンガリーの小説家ミクサートの本を持ち出しました。
それはパローツ(ハンガリー(マジャル人)の民族)の音楽だったそうです。その時期の夏の間ずっとパローツの音楽を聴いていたというロージャ。
パローツの音楽はロージャの音楽を形作りました。必要不可欠なものであった事には後々になって気づいたそうです。パローツはいつも身近にあり、人々が働く時にはそれを野原で聞き、村の祭りの時に流れる時には夜は眠らずに起きて聞いていたと言います。
それを紙に書き起こし、永遠に残さなければならないとロージャは感じたのです。
多くの作品がノミネートされ、受賞した
ロージャ・ミクローシュは多くの賞を受賞、またノミネートされています。1960年に『ベン・ハー』でアカデミー劇・喜劇音楽賞を受賞し、1948年には『二重生活』でアカデミードラマ・コメディ音楽賞を、1946年に『白い恐怖』でアカデミードラマ・コメディ音楽賞を受賞しました。
1976年にはアメリカの「アカデミー・オブ・サイエンスフィクション・ファンタジーアンドホラーフィルムズ」でミクローシュ自身の功績を称えられ賞を受賞したことも。また1980年は『タイム・アフター・タイム』で楽曲賞を受賞しました。
ロージャ・ミクローシュ自身も多くの賞を受賞
1987年4月18日、80歳の誕生に”米国作曲家作詞家出版家協会”よりゴールデンサウンドトラック賞、特別功労賞を受賞しました。
そして同日にロサンゼルスで”ミクローシュ・ロージャ・デイ”が発表され、ロナルド・レーガン大統領、エリザベス女王二世、ヨハネ・パウロ二世から祝いの言葉を受け取りました。
ロージャはアメリカの作曲家、指揮者協会の会長でした。また、同協会にアメリカ音楽に多大なる貢献をしたとして表彰されています。映画に大きな影響を及ぼした人物として多くの人の心に名が刻まれたのでした。