2017年7月6日更新

鶴田浩二、歌手としても才能を発揮した天才俳優を紹介!

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鶴田浩二

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戦後の国民的トップスターでアイドル!鶴田浩二

鶴田浩二は、昭和を代表する大スターで、数多くの映画やドラマに出演したほか、歌手としても多くのヒット曲を放ちました。 1924年(大正13年)12月6日生まれ、出生は兵庫県西宮市で静岡県浜松市で育ちました。俳優に憧れ14歳の時に劇団に入団しましたが、徴兵され終戦まで海軍航空隊に所属しました。松竹に入り映画デビューすると、すぐに人気に火がつきトップスターに!戦後の日本ではアイドル的存在でもありました。 1987年6月16日に62歳という若さで、病気のため亡くなっています。

世間に衝撃を与えた鶴田浩二襲撃事件!!

1953年1月、宿泊していた大阪市天王寺で山口組の組員に襲撃され、暴行を受けました。当時、山口組三代目の田岡組長は、芸能プロモーターとして美空ひばりの後ろ盾をしていました。鶴田浩二と田岡組長は元々知り合いでしたが、前年の秋に、「美空ひばりと鶴田浩二のジョイント公演」という申し出を、鶴田のマネージャーが横柄な態度で断ったことを根に持っての犯行だったようです。 この事件は大々的に報道され、山口組の名前が世間に知られるきっかけにもなりました。さらに、事件の2年後にマネージャーが青酸カリで死亡し、その翌年には山口組興行部の幹部が船から海に落ちて死亡しています。どちらも自殺とされていますが、真相はわかりません。 鶴田浩二は襲撃の際、ウィスキー瓶やレンガで殴られ重傷を負い、頭や手を11針も縫いました。しかしながら、襲撃の理由を知らなかった鶴田は、事件後に田岡組長と和解したといいます。

女性関係が盛んだった大スター鶴田浩二!!

二枚目俳優の鶴田浩二は、非常に女性にモテたようです。女遊びが盛んで、女優の佐久間良子とは不倫関係であったことが知られています。その他にも岸恵子や樋口可南子とも噂がありました。出演予定だった映画を、女性スキャンダルで降板したこともあります。 本妻との間に出来た三人の娘の他にも、腹違いの息子が二人います。絶え間ない女性関係のせいで、家庭はうまくいっていませんでした。鶴田の死後は、母娘の関係もバラバラになってしまったようです。

芸能界における師弟関係は?

鶴田浩二は、プライドが高く大スターらしい暴言や傲慢な態度をとることも多かったようです。撮影所では、三國連太郎など大御所俳優とは一切口も聞きませんでした。 一方で、若手には優しさや気遣いをみせ、松方弘樹や梅宮辰夫を可愛がりました。高倉健も、兄貴的な存在の鶴田を慕っていたようです。

鶴田浩二の心の中にある戦争体験

1953年に公開された映画『雲ながるる果てに』は、戦時中に特攻隊員として亡くなった青年たちの手記を映画化した作品です。元海軍軍人であった鶴田にとって、思い入れの深い作品でした。 映画『雲ながるる果てに』に主演後、鶴田は多額のお金を戦没者の日本遺族会に寄付し、戦争経験についての公演活動を行ったりもしました。戦没者の遺骨収集の活動にも取りくんでいます。鶴田らの活動は、のちに政府が大規模な遺骨収集団派遣を行うきっかけとなりました。

大ヒットを記録した鶴田浩二の男の哀愁歌『傷だらけの人生』

『傷だらけの人生』は、1970年に発売された16枚目のシングルで、100万枚近い売り上げを記録し大ヒットしました。鶴田浩二が、左耳に手を添え白いハンカチでマイクを持って歌う姿が印象的でした。  この曲を主題歌にした同名映画も1971年に公開されました。監督を務めたのは任侠映画の巨匠と呼ばれた小沢茂弘。ヤクザの親分の座をめぐる縄張り争いを描いた本作で、鶴田浩二は主人公の暴力団組長・大島清治を演じています。

鶴田浩二のオススメ出演映画

『婦系図 湯島の白梅』【1955年】

主人公の早瀬主税と愛人・お蔦の悲恋を描いた泉鏡花の小説を映画化した作品です。湯島神社を舞台にした、二人の別れの場面が名シーンとなりました。 鶴田浩二は、主人公の早瀬主税を務めました。『地獄門』(1953年)で第7回カンヌ国際映画祭のパルム・ドールを受賞した衣笠貞之助が監督を手掛け、ヒロインは1950年の第1回ミス日本に輝いた山本富士子が演じました。本作は、テレビドラマ化や舞台化もされており、その際の主演も山本が務めています。

『人生劇場 飛車角』【1963年】

本作は、任侠の世界で義理と人情に生きる男の悲哀が描かれ、熱狂的な支持を集めました。尾崎士郎原作の「人生劇場」では脇役だった「飛車角」こと小山角太郎を主人公に据え、今までになかった「任侠映画」というジャンルを築き上げたと言われています。 主人公の「飛車角」を演じた鶴田浩二にとってハマリ役となり、映画も大ヒットしました。宮川役を演じた高倉健は、本作での評判がきっかけとなり東映の看板スターとなります。