映画『ラッキー』で怪優が向き合った「死」と「人生」【小野寺系】
アメリカ映画を彩った俳優、最後の主演作
2017年9月、91歳で惜しまれつつこの世を去ったハリー・ディーン・スタントン。主に脇役として、60年もの間に100本を超える映画に出演し、作品に深みを与えてきたアメリカのベテラン俳優だった。 そんな ハリー・ディーン・スタントンの最後の主演作品となったのが、本作『ラッキー』だ。 本作は、誰しもが経験する深刻な問題に、一つの希望を与える映画である。が、だからこそそこには強い説得力が必要となる。ここでは作品が描く問題と、スタントンが演じるからこそたどり着いた、一つの「解答」について考えていきたい。
全ての人間に共通する問題とは
『ラッキー』が扱うテーマは、何よりも重い「死」についてである。実際に高齢となり肉体的な負担が大きいなかで、スタントンが死に向き合った一人の男を演じる本作は、老境にあったからこそ、その役柄を深く表現できる、まさにスタントンの俳優業の締めくくりとなる作品となった。
『ラッキー』のストーリー
いつかやって来る人生の終わり
スタントンが演じる本作の主人公、通称「ラッキー」は、朝の体操をして、ミルクを飲んで、行きつけのダイナー(食堂)でクロスワードパズルを解き、馴染み客が集うバーにてカクテルを飲み語らうという、いつも通りの一日を過ごそうとしていた。 ところがその朝は、自宅で目覚めてから間もなく強いめまいを感じ意識を失ってしまう。医師に診てもらうが、身体には全く異常がないのだという。その原因が老衰であることを知って、ラッキーはひどく落ち込む。自分の死期が近いことを悟ったのである。 その日から、ラッキーの毎日は色を変え、「死」への道行きがはじまる。外見上は、いつもの日常を繰り返しているように見えるラッキーだったが、その精神は常に恐怖に怯え、絶望の淵に立たされている。
「死」の恐怖とどのように向き合うか?
誰もがこのように「死」について悩んだことがあるのではないだろうか。自分はいつか死んでしまう……これは避け難い事実だ。とりわけラッキーは、特定の宗教への信心を持たないリアリスト(現実主義者)であるため、死ねば途端に意識が無くなり、全てが完全な「無」になってしまうのだと想像している。 何をしてもいつか絶対に死んで意識を永遠に失ってしまうことが分かっているのだとすれば、人生など意味を成さないのではないか。
そのとき、精神の均衡を保つ方法の一つは、この問題を“一時棚上げする”ことである。「死ぬことは死ぬときになってから考えよう」と決めることで、多くの人は問題から目を逸らすのである。しかし、突発的な死が訪れでもしない限り、やがては誰もがまたこの問題に向き合わなければならないのである。 本作『ラッキー』は、まさにその時期が訪れた人間の精神を描く作品だ。ラッキーは果たして、精神の旅の果てに心の平安へとたどり着くことができるのか。
アメリカの歴史を纏った俳優
ハリー・ディーン・スタントン。ひょろりと痩せて頬がこけた輪郭や、眉の奥に隠されたつぶらな瞳など、その味のある風貌と飄々とした演技は、ヴィム・ヴェンダース やデヴィッド・リンチなど著名な映画監督に愛され、しばしばカルト的な役を演じることもあった。 カンヌ国際映画祭で最高賞(パルム・ドール)を受賞した『パリ、テキサス』(1984年)では主演を務めて高い評価を受け、近年ではTVドラマ・映画『ツイン・ピークス』シリーズでも活躍した。
ポール・ニューマンやクリント・イーストウッドなど数々のスター俳優と共演し、カウボーイ、ギャング、その他様々な役を演じてきたスタントンは、時代とともにアメリカ映画を象徴する俳優になっていった。ヴィム・ヴェンダースやデヴィッド・リンチがすくい上げてきたのも、期せずしてそこに存在することになった、抽象的な「アメリカのイメージ」であろう。 本作のスタントンから受ける凄まじい存在感というのは、その深い無数のシワとともに刻まれた「歴史」を受け継ぐことによっても生まれているのだ。
現実の人生と映画が交錯する物語
本作は、そんなスタントンのために作られた映画だといえよう。実際に友人でもあるデヴィッド・リンチ監督が出演し、彼と親しく言葉を交わす場面や、ダイナーのオーナーとの軽妙なやりとりなどが真実味を帯びるのは、彼の私生活の部分にまで立ち入って、実際の口癖や友人たちへの対応を再現しているからだ。そこでは、沖縄戦に従軍したという彼の第二次大戦の記憶も含まれる。 また劇中のホームパーティーで歌い出すシーンも、『暴力脱獄』(1967年)などでも見せたシンガーとしての一面を紹介する見せ場になっている。それらは、ハリー・ディーン・スタントンのパーソナリティを、架空の役柄に可能な限り写し取っていくという試みなのだ。
「人生」そのものが人を恐怖から解放する
劇中で示された、「死」に向き合うという深刻な問題への一つの答えは、本作に描かれた ハリー・ディーン・スタントンその人が経験してきた人生のなかにあった。人と出会い、語り合い、歌を歌い、煙草を吸い、辛い過去や恐怖と向かい合う。彼の生き抜いてきた経験そのものが、恐怖からの解放へと彼を導いていく。 そのように考えれば、「人生」というものは決して無駄ではないと思える。本作は、長く役者として生きたスタントンの人生を写し取り、それを我々にもいつか訪れだろう、「死」に向き合う一つの哲学へと昇華させる。「死」を描きながら、逆に生きる希望を我々に与えてくれる映画なのである。