1:青年時代は本物のフーテンだった
渥美清、本名・田所康雄は、1928年3月10日、東京府東京市下谷区車坂町(現在の台東区上野七丁目)に生まれました。父の友次郎は、地方新聞の記者、母タツは元小学校教諭で、渥美は次男です。
子供の頃は病弱で、学校も欠席がちでした。家で静養中、ラジオの落語を楽しむようになったのが、最初の芸能との接点です。耳で聞いて覚えた落語を学校で披露しては喜ばれたそうです。
戦時中は、学徒動員で板橋の軍需工場へ駆り出され、東京大空襲では自宅が被災します。中学卒業後も工員として働きながら、一時期、担ぎ屋やテキ屋の手伝いなどもしていたようです。
しかし、デビュー前のプライベートや略歴にはいまだ謎も多く、10代後半には家出をしてドサ回りしていたとの説もあり、このときのフーテンとも言える経験が、のちに寅さん独特のキャラクターの土台になったとも言われています。
2:喜劇役者としてデビュー
1946年、新派の軽演劇の幕引きになり、大宮市日活館『阿部定一代記』の端役で舞台初出演を経験しています。中央大学経済学部入学するも退学してしまい、旅回りの演劇一座に加わって、いよいよ喜劇役者の道を進むことになります。
当時の芸名は渥美悦郎でした。「渥美」は愛知県の渥美半島からとったというのが定説で、下の名前は、座長が出演者を紹介する際、「悦郎」をど忘れし勝手に「清」と名付けてしまったのがきっかけだったと言われています。
1951年には、浅草のストリップ劇場「百万弗劇場」の専属コメディアンとなり、その2年後にはフランス座に移籍します。当時のフランス座には、長門勇、東八郎、関敬六、作家の井上ひさしなどが在籍あるいは出入りし、その後の日本のコメディを担う人材が集まっていました。
3:28歳の若さで肺結核のため右肺を全摘出している
1954年、肺結核を患い、右肺を切除しました。およそ2年間に及ぶ長い療養生活を送り、このときの経験が渥美のものの考え方に深い影響を与えたと言われています。
ようやく完治し、いよいよ本格的に役者に復帰しようかというとき、今度は胃腸を患います。再び、一年近く、中野にある立正佼成会病院に入院することになりました。渥美ファンの間では有名だった、中野富士見町駅近くにあったこの病院も、今は新しく移転し取り壊されてしまいました。
4:テレビ番組『夢であいましょう』で一躍有名となる
1956年にテレビデビュー。そして2年後の1958年には、『おトラさん大繁盛』でついに映画デビューを果たしました。八田という名の端役でした。
いよいよ渥美清の名前を一躍有名にしたのが、1961年から1966年まで、NHKで放映されていた生放送のバラエティー番組『夢であいましょう』です。渥美はそのコメディセンスをいかんなく発揮し、人気を博しました。
この番組では、黒柳徹子らとも共演し、その後の長い親交のきっかけにもなりました。
5:映画『拝啓天皇陛下様』や映画『喜劇急行列車』で地位を確立
1963年、映画『拝啓天皇陛下様』の山田正助役で、渥美は俳優としての地位を不動のものにしました。原作は棟田博の小説で、野村芳太郎が監督した「拝啓三部作」の第一作です。
貧しい孤児として育った主人公の山田正助。正助にとっては、仲間がいて食べるものにも困らない軍隊は天国。終戦とともに除隊するのがいやで、天皇陛下に直訴の手紙を書くというストーリーです。松竹人情喜劇の傑作として、『男はつらいよ』以前の渥美作品の中、代表作のひとつに数えられています。
本作における渥美の演技が、『男はつらいよ』構想のきっかけになったとも言われています。
当時の、もうひとつの代表作が、1967年の映画『喜劇急行列車』です。東映の岡田茂プロデューサーの元、瀬川昌治が監督し、『喜劇団体列車』『喜劇初詣列車』など一連の「喜劇列車シリーズ」として人気を博しました。渥美清は、青木吾一という名前の車掌を演じています。
6:『男はつらいよ』シリーズはギネスブックにも載る
有名な話ですが、『男はつらいよ』は最初フジテレビが放送したテレビドラマでした。
主人公は、そのときから、言わずと知れたフーテンの寅、車寅次郎。1968年10月から1969年3月まで半年間放送され、最終回は、寅がハブに噛まれて死んでしまうという結末だったことは、ファンの間では有名なエピソードです。視聴者から批判が殺到し、その埋め合わせで、同年、松竹が製作した映画が第一作めになりました。
第一作めの映画『男はつらいよ』は大ヒットを記録し、シリーズ化が決定します。『男はつらいよ』シリーズは、その後なんと27年間に渡って製作され、通算48作に至り、渥美は寅さんを演じ続けました。
海外でも「Tora-san」として人気を博し、また映画シリーズの最多記録の作品としてギネスブックにも掲載されています。
ちなみに49作目も企画されていましたが、渥美の死により、幻に終わっています。田中裕子がマドンナ役をつとめる予定でした。
渥美の遺作は、亡くなる直前に無理をおして出演した48作目『男はつらいよ 寅次郎紅の花』です。
7:寅さんとは真逆?渥美清の人物像
誰からも愛された、破天荒な寅さんのキャラクターとは全く対照的に、ほとんど公にされることのなかった渥美の実生活は、公私混同を嫌い、業界との交流も少ない孤独な人柄を貫いていたと言われています。
一つの例として、渥美が密かに俳句作りを楽しんでいたことは、全く知られていませんでした。参加していた週刊誌『アエラ』句会のメンバーが、追悼特集の中で渥美の俳句を公表し、初めて公になりました。
渥美が初めて句会に参加したのは1973年、45歳の時だったそうです。渥美の詠んだ俳句とともに、そのあたりの秘密に迫った著作が出版されています。
『男はつらいよ』で寅の妹さくらの夫・博を演じた前田吟は、渥美から一度も演技指導を受けたことがないと語り、このように推測しています。
寅さんはみんなを笑わせて劇場で大歓声を受けているけど、あれは役柄としての『寅さん』であって、『俺自身はあんなに人を笑わせたり楽しませたりできないんだよ』と渥美さんは言いたかったんじゃないかな。
同じくシリーズ3作にマドンナとして登場した竹下景子は、撮影時のさりげない素顔を明かしています。
撮影の合間におひとりで控えてらっしゃることも多かったですが、(共演者が)手持ち無沙汰にしていると、いつの間にか浅草時代の話とか、『こんな不思議なことがあったんだよ』と(話をしてくれた)。今思うと、半分くらいフィクションだったかもしれなんですけど、それがものすごく楽しいんですよ。思い出しても夢みたい。寅さんとも違うんですよ…いえ、でもやっぱり寅さんかも
8:渥美清のベールに包まれたプライベート
送迎の車やタクシーも、あえて自宅から離れた場所で下車したという有名なエピソードからもわかるとおり、プライベートは謎に包まれています。
家族は妻と子供2人でしたが、公に出ることは一度もありませんでした。渥美の自宅住所は、仕事関係者はもちろん、親しい友人すら知らなかったと言います。一説では、原宿に自分用のマンションを借り、そこに一人籠っていることが多かったと言われています。
1996年8月4日、渥美は、転移性肺癌のため、東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院にて死去しました。享年68歳。
長男の田所健太郎が、初めて公に出たのは、渥美の死後1996年9月、国民栄誉賞を当時の橋本龍太郎首相から受け取ったときです。横には、寅さんの遺影を持った倍賞千恵子が付き添いました。
『残照の中で』は、晩年親交のあった著者・城光貴が記したドキュメンタリーノベルです。また作家の大下英治が書いた、渥美の実像と私生活に迫った実録小説も読み応えがあります。
他にも渥美に関わる様々な謎やプライベートに迫った著作は、複数出版されており、多くのファンはそれらを読むことで、謎多き、渥美清の実像に迫ることを今も試みています。