国民的人気子役、シャーリー・テンプル
シャーリー・テンプルは、アメリカを代表する女優で、のちに外交官を務めた人物です。勤勉でまじめ、あたたかく品行方正なイメージの彼女は、1930年代から60年代に活躍したハリウッド女優として知られています。
1928年4月23日、カリフォルニア州サンタモニカに生まれたテンプルは、銀行員の父と専業主婦の母、2人の兄のいる上品な家庭で育ち、赤ん坊のころからダンスと音楽に強い関心を示したと言われています。
6歳で天才子役と呼ばれ、10代はアイドルとして芸能活動を続けました。「無垢なアメリカ(アメリカン・イノセンス)」の象徴として、ただの少女子役にとどまらず活躍したテンプルは、フランクリン・ルーズベルト大統領やアインシュタイン、フーバーFBI長官など、多くの著名人と交流しています。
3歳でデビュー!1930年代を代表する子役に
1931年、テンプルは3歳でメグリン・ダンス学校に入学します。翌年から幼児だけが出演する「ベビー・バーレスク」と呼ばれる作品に出演。1934年ごろからは、ミュージカル映画を中心に多くの作品に出演しています。
シャーリー演じる少女とヤクザの交流『可愛いマーカちゃん』【1934】
『可愛いマーカちゃん』は、その後2度に渡ってリメイクが製作された、幼い少女と強面ヤクザの微笑ましい交流を描いたハートウォーミングな物語です。
競馬の元締めをしている親分のもとで働くジョーンズは、借金のかたに幼い少女マーカを預かることになりますが、マーカは持ち前の愛らしさで、ヤクザ連中ともすぐに仲良くなってしまいます。一方、イカサマがバレそうになった親方は、持ち馬をマーカの名義に変えて身を隠してしまいました。
この作品でテンプルはマーカを演じ、その愛らしさを世に知らしめました。
劇中歌も有名な代表作【1934】
『輝く瞳』は、不幸な事故によって両親を亡くし、孤児となってしまった少女シャーリー・ブレイクの物語です。パイロットだった父が飛行機事故で亡くなり、スマイス家でメイドとして働く母とともに暮らす少女シャーリー。しかし、母も事故で亡くなってしまい、孤児院送りになるところをスマイス家に同居していたお金持ちの老人ネッド・スミスに引き取られることになります。
スマイス家の人々からのいじめに耐えかね父の親友だったパイロットもとに逃げたシャーリーが、飛行機のなかで歌う『こんぺいとうのお船(原題:On the Good Ship Lollipop)』も有名です。
タップの神様と初共演!『小連隊長』【1935】
『小連隊長』は南北戦争を背景に、親子のすれ違いと再会を描いたファミリー・ドラマです。
元南軍の勇士、ロイド大佐は娘エリザベスとともにケンタッキーの片田舎で余生を送っていました。エリザベスは北部から来た青年ジャックと恋に落ちますが、ふたりの仲を知り父ロイド大佐は激怒。
駆け落ちし、西部で暮らし始めた夫婦にはかわいい娘が生まれましたが、貧しさのため一旦別々に生活することになります。エリザベスは娘を連れてケンタッキーへと戻りましたが、父のもとへは帰らず、近くに部屋を借りて暮らし始めます。やがて老大佐と孫娘はお互いの関係を知らないままに、交流するようになります。
この作品でテンプルはロイド大佐の孫娘、ロイド・シャーマンを演じ、当時世界最高のタップダンサーと呼ばれたビル・ロビンソンと初めて共演しました。
主演ミュージカルの代表作『テンプルの燈台守』【1936】
『テンプルの燈台守』は、シャーリー・テンプル主演の初期のミュージカルで、『アーリー・バード』や『アット・コッド・フィッシュ・ボール』などの劇中歌も有名です。
孤児のスターは難破船から彼女を助けた燈台守の老人に育てられていましたが、役人たちはスターを学校に入れるため、ふたりを引き離そうとする、という物語です。
テンプルはこの作品で孤児スターを演じ、抜群の歌唱力を披露しました。
歌の才能を持つ孤児を演じ、世界的にヒット!『農園の寵児』【1938】
『農園の寵児』は、シャーリー・テンプル主演のミュージカル映画のひとつです。
両親を亡くした少女レベッカはラジオ番組のオーディションで歌の才能を示すものの、手違いから不合格とされてしまい、親類の営んでいる農園に預けられました。番組のプロデューサーは彼女を探しましたが見つからず、夏に訪れた避暑地でレベッカと再会。彼女の厳格な伯母をなんとか説得して、歌手としてデビューさせようとする物語です。
テンプルは主人公レベッカ役として自慢の歌唱力を披露しています。
シャーリーが身につけたものはバカ売れ!
シャーリー・テンプルは当時のハリウッドスターのなかでも飛び抜けて収入の多い女優でしたが、その理由はライセンス契約によるグッズの売り上げが好調だったためです。
最も有名なグッズは彼女の人形で、映画『歓呼の嵐』(1934)に出演した際の衣装と同じポルカドットのワンピースを着ていました。この人形は1941年までに4500万ドルの売り上げを記録しています。
その他にもマグカップ、ピッチャー、シリアルボウルなどの食器から、石鹸や紙の着せ替え人形、便箋、また洋服やアクセサリーまで数多くの商品が発売されました。
1935年の終わりには、彼女のグッズの売り上げによる収入は映画の出演料の倍にまでなったと言われています。
1940年以降は人気が落ち目に
子役として大人気を博したシャーリー・テンプルでしたが、10代になってからはそのイメージから抜けきれず、出演作品数が減ってしましました。
『アパッチ砦』(1948)や『シービスケット物語』(1949)などヒットした出演作もありますが、「品がよく、天真爛漫で誰からも愛される」というイメージが強く、役柄が限定されてしまったためティーン・アイドルとしては人気が伸び悩んでしまいます。
また、成績優秀で学生の間は夏休みのみを仕事にあてるなど、学業に専念する真面目な性格であったことも出演数激減の要因になってしまいました。
1950年に結婚、女優業は引退へ
17歳で女子校を卒業した後、1945年にテンプルは一度結婚しましたが、子供をもうけた後も素行の悪い夫に愛想を尽かし1950年1月に離婚。同年12月にチャールズ・ブラック海軍少佐と再婚しました。
結婚直後、演劇や映画を軽視するアメリカ上流階級の規則により、テンプルと結婚したことが理由で夫が社交界名士録から名前を削除されてしまいます。夫はそのことを気にしていませんでしたが、1950年12月にテンプルは女優を引退します。
1954年にはインテリア・デザイナーの資格を取り、インテリアコーディネーターとして仕事をしようとしましたが、初仕事に向かった邸宅で女優のシャーリー・テンプルであることがバレており、好奇の目にさらされたため、それ以降は専業主婦として3人の子供の子育てに専念することになりました。
その後、子供に手がかからなくなったことからテレビ番組『シャーリー・テンプル・ストーリーブック』(1958〜1961)に出演します。一流スターをゲストに招く子供番組のナレーター兼司会を担当し、人気を博しました。
外交官として活躍したシャーリー・テンプル
1967年にアイゼンハワー大統領のバックアップのもと下院選挙に立候補したテンプルは、選挙には落選したものの、それをきっかけに外交関係の公務や非政府組織とNPOの要職を30年間務めました。
1969年から1970年には、国連大使を補佐する国連代表団の一員として、国際連合総会に出席しました。1970年から1974年にかけては多くの国際会議でアメリカ代表を務め、「アメリカ外交の最終兵器」と呼ばれるほど優秀な外交官になりました。
米中国交回復や、アメリカとエジプトの国交回復のきっかけを作るなどしています。1998年に、70歳を迎えたことをきっかけに公務から引退しました。
シャーリー・テンプルの名はカクテルの名前に
レモンライムソーダをベースにグレナデンシロップを加えたノンアルコールカクテルを、「シャーリー・テンプル」と言います。禁酒法が廃止になり、家族連れで親がお酒を飲んでいるときに子供も一緒に飲めるようにと開発されたものです。
また、テンプルの結婚後の名前にかけて「シャーリー・テンプル・ブラック」と呼ばれるカクテルもあり、レモンライムソーダをコーラに置き換えたカクテルです。
テンプル自身は自分の名前が酒場で勝手に使われるようになったことに、違和感を覚えたそうです。
2014年に85歳で死去
2005年に夫チャールズと死別したテンプルは、その55年の結婚生活を「おとぎ話のように幸福」だったと話しています。
2014年2月10日、シャーリー・テンプルは慢性閉塞性肺疾患のため亡くなりました。カリフォルニア州ウッドケインの自宅で家族に見守られての最期でした。遺族は広報担当者シェリル・ケイガンを通じて次のようなコメントを発表しました。
「家族の目から見ても、とてもすばらしい一生だったと感じています。俳優であり外交官であり、そしてもちろん私共家族には愛すべき母、祖母、曾祖母であり、また亡くなった父チャールズ・オルデン・ブラックの最愛の妻として、精一杯生きた人でした。」
天才子役から良き妻、良き母、外交官まで多くの才能を発揮したシャーリー・テンプルは、現在もアメリカで尊敬を集める存在です。