2017年7月6日更新

石原裕次郎、昭和の大スターについてあなたの知らない8のこと

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石原裕次郎

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石原裕次郎のプロフィール

石原裕次郎は、1934年12月28日に生まれた昭和を代表した人気のスターでした。1954年に映画制作を再開した日活が黄金期を迎えられたのは、絶大な人気を得ていた彼の存在があってこそと言っても過言ではありません。 日活は石原のプロフィールを、身長182㎝、股下90㎝として公称して、日本人離れしたスタイルをアピールしました。しかし実際のところは、身長178㎝、股下80㎝だったと言われています。 それでも当時の日本人の体型からしては、大柄で抜群のスタイル。愛称は「タフガイ」。現代劇で活躍するのに十分な資質を持ち合わせていました。 石原裕次郎は、戦後日本が経済成長とげた時期に活躍をしたことと相まって、「もはや戦後ではない」という言葉を象徴的する銀幕スターとも言われています。 今回はそんな昭和の大スターについて、8つのエピソードをご紹介します。

1.映画デビューのきっかけは兄、石原慎太郎

石原裕次郎の実兄は石原慎太郎。兄の慎太郎は作家として活動した後、参議院議員を経て、東京都知事を4期務めた政治家として知られています。 実は若い頃の石原裕次郎は、兄の慎太郎が、何をやってもトントン拍子に才能を発揮できることに、コンプレックスを抱いていました。 慎太郎は、1954年に処女作『灰色の教室』を同人誌に発表をすると、文芸評論家の浅見淵の目にとまり評価を受けます。1955年に『太陽の季節』で、第1回文學界新人賞を受賞。また、映画会社の東宝の入社試験に合格、助監督の内定を得ていました。 一方で弟の裕次郎は、慶應義塾大学法学部政治学科に進学し、俳優を目指して、映画会社の東宝と大映、日活の専属俳優のオーディションを受けますが、全て不合格。やさぐれた裕次郎は、「不良少年」と呼ばれ、酒や女遊びの放蕩生活に明け暮れていました。

石原慎太郎の芥川賞受賞作『太陽の季節』は映画化!太陽族ブームに!!

1956年に、慎太郎の執筆した『太陽の季節』が、第34回芥川賞を当時史上最年少で受賞すると、たちまちベストセラー。慎太郎は、東宝に入社するもまもなく退社しました。『太陽の季節』が日活で映画化することが決まると、慎太郎自らも特別出演を果たし、当時、「太陽族」「慎太郎刈り」が大流行をします。 この作品の映画化の際に、兄の慎太郎が、映画プロデューサー水の江瀧子に、弟の裕次郎を推薦しました。石原裕次郎は、伊豆役を演じてスクリーンデビュー。その後、大学を中退して日活の専属俳優として入社します。 『太陽の季節』の2ヶ月後に全国公開された、同じく兄の慎太郎原作の映画化作品『狂った果実』で、初主演の滝島夏久役を演じて、一気に銀幕スターダムに躍り出ました。そして、この映画のマドンナ天草恵梨役の北原三枝と、その後結婚をしました。

端役から急遽2ヶ月後に主演デビュー!名作『狂った果実』!!

暇をもてあました金持ちの青年たちは、伊豆海岸でヨットやボート遊びに明け暮れています。その中にいたふたりの兄弟滝島夏久と春次。遊び慣れした兄の夏久に比べて、純真な弟の春次は天草恵梨と恋に落ちます。 兄の夏久は恵梨が米軍将校の愛人であることを嗅ぎ付けると、弟を心配する気持ちと嫉妬心から女を無理矢理に自分のものにしてしまいます。弟の春次を愛しつつも、力強い兄の夏久の肉体に惹かれていく恵梨その真実を知った弟の春次は…。 急遽17日の短期間で制作された『狂った果実』は、中平康監督の代表作でもあり、この作品をパリで観た映画評論家時代のフランソワ・トリュフォー監督から高評価を受けます。フランスのヌーヴェル・ヴァーグへの影響を与えた作品として、フランスにあるシネマテークで日本映画第1号として保管された重要な作品となっています。 石原裕次郎は、日活の俳優オーディションに不合格したものの、兄の慎太郎からの俳優への推薦がきっかけで、太陽族を描いた『狂った果実」で永久に映画史に残る俳優となったのです。

2.石原裕次郎は台詞覚えが悪くて有名だった

石原裕次郎は、トップスターでありながら台詞覚えが悪いことで知られています。 1972年に放送開始された伝説的な刑事ドラマ『太陽にほえろ!』では、通称「ボス」と呼ばれた、捜査第一係長の藤堂俊介役を演じています。 そのボスといえば、いつも机の周辺か、机に向かい座っていることが多い役柄でした。実は机の引き出しの中には、開いた状態の台本を忍ばせていたそうです。部下へ捜査の指示を出す演技の秘密にはそのような事実があったとか。そのおかげなのか演技でNGを出すことはほとんどなかったと言われています。

『太陽にほえろ!』の最高視聴率は、なんと!42.5%だった。

伝説的な逸話ですが、石原裕次郎だけが特別なのではなく、昔の俳優にはこのような方は多かったようです。 台詞覚えが悪いというより台本を読むのが嫌い、あるいは、映画の黄金期には新作公開は、毎週のように行なわれていた時代です。そのような時代を生きてきた俳優の中で、台詞を覚えているほうが珍しかったとも言われています。

3.石原裕次郎は歌手としても大ヒット

石原裕次郎は俳優だけでなく、歌手としての一面もあります。しかも、名曲や数々のヒット曲があることに驚かされます。当時レコードがヒットした理由のひとつに、映画の役割も大きかったようです。主演映画で、主題歌を歌うことが相乗効果となり、映画と歌と互いに大ヒットとなっていったからです。 その中でもレコード売り上げ300万枚を超える大ヒット曲で、今なおカラオケの定番のデュエット曲『銀座の恋の物語」。1961年にテイチクから発売された石原と牧村旬子のデュエット曲です。1962年には、この曲を主題歌とする同名の映画、『銀座の恋の物語』が全国公開されました。出演は、石原裕次郎と浅丘ルリ子。映画タイトルの通り、恋愛メロドラマです。 歌って演じられる彼だからこそ、数々の大ヒット曲と映画作品があるのですね。他にも『二人の世界』『赤いハンカチ』『夜霧よ今夜もありがとう』などをリリースしました。 しかし、意外なことに「紅白歌合戦」には出演をしていないようです。そのことは石原裕次郎自身が、「歌手は素人」として出演を断り続けたという裏話があったようです。

4.石原裕次郎の性格は体育会系

男の絆と爆破シーンが名物な刑事ドラマ『西部警察』

石原裕次郎といえば、彼がボスとして率いていた「石原軍団」を思い起こす人も多いでしょう。かつては、日活の同じく専属俳優であった渡哲也との男同士の深い絆はあまりにも有名です。 渡哲也が、石原を慕って日活へ入社。兄のように慕ったその関係は彼が亡くなった現在でも続いています。 「石原軍団」とは、石原プロモーションに所属する俳優たちの愛称です。この語源は、石原プロモーションが制作した1978年のテレビドラマ『大都会 PARTIII』の「黒岩軍団」や、『西部警察』の「大門軍団」からとったと言われています。

亡き石原裕次郎を慕った渡哲也が現在では団長!

しかし意外なことに石原裕次郎は、体育会系のような組織は嫌いだと、生前にテレビインタビューに答えています。元々は自由奔放に生きてきた彼の生い立ちもあり、誰かに束縛されたり命令で動くことは性には合わないようです。 では、どうして体育会系と誤解をされているのでしょうか。石原裕次郎は撮影ロケーションでの遅刻や、他人に迷惑をかけるような行為を大変に嫌いました。『石原軍団』は、“自らがした約束を守る”という、鉄の掟が体育会系と誤解されていたのかもしれません。

5.好きなものは食事、酒、ヨット

石原裕次郎が好きなものを3つあげるなら「食事、酒、ヨット」。これには皆で楽しむという彼の基本的な考えがあります。 食事をするのが大好きな石原は、懐石料理やカレーライス、ビーフステーキなどを好んで食したそうです。また、自ら料理を作ることも好きだったようで、皆で別荘やヨットハーバーに集まり、手料理やバーベキューを楽しみにしていたようです。 このことは「石原軍団」の名物炊き出しに引き継がれます。1995年の兵庫県南部地震や2011年の東日本大震災、2016年の熊本地震の被災地にボランティア活動に出向くと、皆が元気になるように炊き出しを行いました。彼の食べて楽しく、皆で元気になる精神は今なお健在だといえますね。

お酒を愛するイメージから石原裕次郎は長年日本酒のCMにも出演!

石原裕次郎のお酒好きはあまりにも有名です。朝食からビールを吞むほどの酒豪だったようで、撮影現場でも"ビールは酒ではない水である"と言い、石原用に冷蔵庫が準備されていたそうです。 また、晩年の大動脈瘤手術後は、三枝夫人からはビールをコップ1杯程度にしていたと言われていたようですが、ハワイの別荘で隠れて一緒に吞んでいたことは、甥の石原良純も証言していますね。 そんな石原裕次郎が何よりも好きだったのがヨットです。兄の慎太郎からの影響で初めたヨットへの情熱は、俳優活動よりも強かったといわれています。
ヨット好きな石原裕次郎が、石原プロモーションとしての映画制作の第1回に選んだ作品でもヨットが重要な題材でした。1962年に海洋冒険家の堀江謙一が文藝春秋から手記を出版した、『太平洋ひとりぼっち』の実話を映画化をします。 弱冠22歳の1人の青年堀江謙一は、小さなヨットで94日間の太平洋横断を成功させます。堀江は単独で「マーメイド号」を出航させると、無風が続いた大阪湾内を1日半の迷走を続けたり、シケて大荒れの海で悪戦苦闘。やっと太平洋に出たと思えば、今度は台風が襲いかかります。やがて食料も不足気味になり体力も消耗してしまう堀江は…。 演出は今回初めてタッグを組んだ名匠市川崑監督。この石原裕次郎の主演作品で初の「キネマ旬報ベスト・テン」入賞作となります。また、特撮には当時、設立をして間もないも円谷プロが参加しています。

6.数々の病、ケガにみまわれる一生

1981年、石原裕次郎が大動脈瘤の手術後に慶応病院の屋上で復活をアピールする姿

石原裕次郎は、やんちゃな性格から怪我が多いことでも知られています。1957年には、自由が丘を無免許運転した自動車事故で右足打撲。1961年は、志賀高原のスキー場でスキーヤーと接触して右足首粉砕複雑骨折します。また、1964年はハワイでヨット乗船中に右瞼を11針縫うなど、挙げれば切りがなく、俳優生命に関わるような怪我が若い頃から多かったようです。 病気に関しては、1978年に、舌下潰瘍で入院して悪性の診断を受けて手術をします。後の1983年には癌は再発をしてしまいます。1981年には、背中と胸に激痛があったことで椎間板ヘルニアと疑われますが、医師から生還率約3%の解離性大動脈瘤と診断を受けて手術。1984年は肝臓ガンとなどが続き、1987年には、ついには肝細胞癌でこの世を去ります。 最期は、癌に冒され帰らぬ人となってしまいましたが、それまでの間幾度もの怪我と病気から、何度も復活を成し遂げました。愛称の「タフガイ」や、不死身の石原裕次郎の印象を、多くのファンが持ち続けて勇気づけられたのです。写真の大動脈癌の手術後に生還した様子をファンに見せたサービス精神もそのひとつですね。

タフガイの石原裕次郎主演は、中平康監督の『あいつと私』ですぐに復活!

石原裕次郎が「タフガイ」と呼ばれるゆえんに、日活時代に看板スターとして大人気の中での怪我からの復帰にあります。スキー場の接触事故での怪我の連絡を受けた日活の主要幹部たちは、「まいった」と思わす頭を抱えていました。 しかし、そんな心配をよそに、復帰作の第1弾の映画『あいつと私』は大ヒットしたのです。この印象が強いと言われています。

7.横浜にある墓石には妻の直筆の言葉が

夫婦円満な妻の北原三枝と戯けてみせる石原裕次郎のツーショット!

石原裕次郎と妻のまき子(北原三枝)のおしどり夫婦ぶりは、芸能界では比類のないものでした。彼が亡くなった現在も、まき子は命日供養を欠かしません。 石原裕次郎の眠る墓石には、横浜市鶴見区にある曹洞宗の総本山、総持寺にあります。まき子が裕さんと呼び、心から慕った様子が感じられる言葉が碑には刻まれています。  「美しきものに微笑みを 淋しきものに優しさを 逞しき者に更に力を 全ての友に思い出を 愛する者に永遠を。心の夢覚めることなく」   二人が連れ添ってきた深い愛を感じますね。

8.小樽には石原裕次郎記念館も

石原が亡くなった4年後の1991年に、石原裕次郎記念館は、故人ゆかりの地である北海道小樽市で開館しました。ここにはゆかりの展示や遺品が数多く展示されています。しかし、残念ながら建築物の老朽化にともない、2017年8月に閉館が予定されています。 記念館の1階フロアには、1968年に公開された巨匠熊井啓監督の名作『黒部の太陽』の再現セットしたもの展示されています。この作品は石原裕次郎と三船敏郎という日本映画界の2大スター共演をしたことが大きな話題になりました。
関西電力は、黒部川の上流に第4発電所を建設に社運を掛けます。世紀の難工事といわれたダム建設に、黒四建設事務所次長の北川は熱意を持って取り組みます。父に代わってトンネル掘りを指揮をすることになった熊谷組の設計技師の岩岡。難しい作業の毎日に、犠牲者がでたり度重なる事故に頭を悩ませる日々。それでも北川と岩岡は難所を突破する為に尽力をつくします。 製作当時は、五社協定という映画会社が作った協定があり、他社の映画会社に自社の俳優が出演したり共演することが許されておらず、その規制にも石原裕次郎と三船敏郎は俳優として立ち向かいます。また、俳優としてだけではなく、製作には、石原プロモーションと三船プロモーションが構想4年を掛けました。当時の日本映画界では最高の製作費といわれた3億8千9百万円(現在換算13億2千万円を超える)と言われています。 1968年の公開では、730万人の観客動員という記録を果たし、「このような映画は大スクリーンで観てほしい」と語り、長い間、ビデオやDVD化されませんでした。上映は僅かな機会に限られている作品で、石原裕次郎のファンの間では、“幻の名作”と囁かれています。