近代映画音楽の父マックス・スタイナー
マックス・スタイナー(1888-1971)は、フルネームをマクシミーリアン・ラウル・ヴァルター・スタイナーといい、オーストリア生まれのアメリカの作曲家です。14歳のときオペレッタを作曲。その劇はウィーンで1年間上演されることとなりました。1914年にアメリカ移民し、ニューヨークで劇場指揮者・編曲者として働き始めます。
1929年にはハリウッドに移り、やがて、最も初期の、そして最も素晴らしい、映画音楽の作曲家の1人となりました。スタイナーが創り出した多くのテクニックは後にスタンダードとなったのです。主な作品には1933年にアメリカで公開された『キングコング』、映画史に残る傑作ロマンス映画『風と共に去りぬ』(1939)、マイケル・カーティスがメガホンをとった名作『カサブランカ』(1942)などがあります。
天才少年
マックス・スタイナーの祖父はアン・デア・ウィーン劇場の責任者であり、ヨハネス・シュトラウス2世を発見、成功させ、ジャック”天国と地獄”で有名なジャック・オッフェンバックをウィーンに招いた人物とも言われており、スタイナーは、オペラと交響楽に親しむ環境で少年時代を過ごしました。
かの有名なヨハネス・ブラームスにピアノを習い、14歳には作曲を、16歳でプロとして指揮を行っています。また、ウィーン帝室音楽院(現在のウィーン国立音楽大学)にて通常4-8年の音楽コースを1年で修了してメダルを授与されたのです。その時の彼の師は交響曲と歌曲の大家、グスタフ・マーラーでした。
アカデミー賞に毎年名を連ねた輝かしい経歴
1929年にハリウッドに移った後、マックス・スタイナーは300以上ものRKOとワーナー・ブロスの映画の曲を作りました。そのうち、アカデミー賞作曲賞の受賞だけでも『男の敵』(1935)、『情熱の航路』(1942)、『君去りし後』(1944)の3回されており、ノミネートはなんと20回以上。また、1948年には『Life with Father』でゴールデングローブ賞作曲賞も受賞しています。
『キング・コング』で有名に
マックス・スタイナーの代表作の1つ『キング・コング』の作曲は、2週間以下で行われたといいます。彼はこの映画を次のように述べていました。
“音楽のために作られたような映画だ。奇妙なコードと不協和音から愛らしいメロディーまで、何だろうと全てが許されるような映画。“
映画はやがて「映画音楽のランドマーク」と呼ばれるようになり、スタイナーは一躍有名になりました。
また、スクリーン上の動きに音楽をあわせていく才能で特にその名を知らしめ、アメリカの映画音楽の創成においてなくてはならない存在となったのです。
名曲の詰まった大作『風とともに去りぬ』
『リオ・リタ』(1929)、『キング・コング』(1933)など111のRKO社配給映画の作曲を行った後、映画プロデューサーのデヴィッド・O・セルズニックに招かれ『風と共に去りぬ』(1939)の音楽を担当することになったマックス・スタイナーは、この221分の大作のほぼ75パーセントに何らかのBGMが要求されていました。これらの曲は彼の最高傑作であると多くの人に考えられています。
この『風と共に去りぬ』で明確にされた一つのコンセプトは、各重要キャラクターに対し、それぞれ独自の音楽的モチーフを与えるということでした。この映画に一体いくつの会話シーンがあるかということを考えれば、これには相当な労力が必要だったに違いありません。しかし、実は彼がセルズニックから与えられた時間はたったの3か月でした。
誰もが聞いたことのあるファンファーレ
映画通ならすぐに思い出せるワーナー・ブラザーズ社のオープニングロゴのファンファーレを作曲したのも、実はマックス・スタイナーです。この曲は元々、『トヴァリッチ』(1937)という映画の為に書かれたものでした。
後の作曲家たちがスタジオでメロディーラインを書いて配る代わりに、”トヴァリッチ・ファンファーレ”と楽譜の初めに一言書けば、演奏家たちは理解したといいます。
マックス・スタイナーの身体から湧き出る音楽
マックス・スタイナーが、まるで自身から湧き出るように作曲する様を彼はコメントの中に残しています。
私は、旋律を使いきることがないよ。音楽はいつも頭の中に流れている。時々、夜中の3時に起きてしまって、そわそわしはじめるんだ。そうすると妻が言う、「あなた、それ書き留めたらどうなの?」だから起き上がって、紙に曲を書き起こすんだ。そして、寝に戻るのだ。引用:imdb.com