2018年6月12日更新

【解説レビュー】レディ・バードの意味とは?17歳、悪気もなく嘘をついていたワケ『レディ・バード』【ネタバレ】

このページにはプロモーションが含まれています
レディ・バード (プレス)
©Merie Wallace, courtesy of A24

AD

『レディ・バード』それは小さな胸の痛みを感じる追体験【ネタバレ】

17歳。青春映画の中で最もフィーチャーされるであろう、特別なこの歳。沢山傷ついたり、悩んだり、初めての体験をしたあの時。あなたはどんな、17歳を生きていた? グレタ・ガーウィグが初監督し、アカデミー賞作品賞、脚本賞をはじめ数多くの部門にノミネートされた映画『レディ・バード』は、主人公クリスティンこと“レディ・バード”が17歳から18歳になる時に、高校最後の年を過ごしながら、将来に胸をはせ、初恋を経験し、母親との関係に頭を悩ませる。 恐らく、この映画は多くの人が、私と同じように自分の半生に照らし合わせたり、強く共感を抱く青春映画だと思う。一体それは何故か?恐らくそれは、どんな同ジャンルの映画よりも丁寧で“リアル”だからだと思う。 では、具体的に何がリアルなのか、グレタが丁寧に描いたものは何なのか、“こじらせ女子”な主人公の心情描写と共に解説したいと思う。【ネタバレ有り】

2つの社会に向き合うレディ・バードが気づかせてくれる、過去

レディバード
©Merie Wallace, courtesy of A24

主人公クリスティーンこと、レディ・バードは決して裕福ではない家庭に生まれ育ち、頭はいいものの就職に失敗してレジ打ちのバイトをしている兄がいる。母は常に彼女に小言を言ったり、否定をし続ける。一方で父は、レディ・バードの味方でいるかのような立ち位置として静かに家の中に存在するのだ。 この映画の中で、レディ・バードが向き合うのは2つの社会である。ひとつは、この“母親”、家族という身近で小さな社会、そしてもう一つが学校という17歳の彼女にとって大きな社会だ。思うに、我々は誰もが思春期にこの2つの社会に同時に向き合って来た、又は向き合っているだろう。 なので決してこの映画で描かれている物語が特別なものではなく、日常的で誰もが通過した平凡なものだと理解できる。しかし、この作品の素敵なところは、そんな風に「特別でないと思っていたあの頃の物語」が、“特別なものであった”事を映像と登場人物を通して教えてくれるところだ。

AD

17歳、なんで悪気もなく嘘をついて人を傷つけていた?

レディバード
©Merie Wallace, courtesy of A24

この映画の大きな魅力といえば、やはりレディ・バードという少女の存在だ。誰もが恐らく、彼女に共鳴し、恋をする。しかし、彼女は欠落ばかりだ。 例えば、彼女は割とすぐに嘘をつく。しかし、彼女はこれを“悪気”をもってしていない事がわかる。数学の先生の点数表をこっそり捨てて、成績を自己申告性にさせたとき、本当はCマイナスだったのにBだったなんてついた嘘。そして、イケている女の子と仲良くなりたくて、自分の本当の家とは比べがたいほど美しく憧れを抱いている家を、自分の家とその子に教えた嘘。 こういった彼女のつく嘘には、ある共通点がある。それは、「自分が周りからよく見られたい」という動機からなるという点だ。なので、彼女にとってこの嘘は別に誰かを貶めようとか傷つけようと思ってついたものではない。その嘘が影響を与えるのは自分の印象だけだから、つく事自体悪だとあまり認識していない。 しかし、彼女は「嘘をつく」というより「人を裏切ること」自体がやはり悪で、それが周りに与える影響というのを身をもって学んで行くことになる。

愛されたい!あと、セックスもしたい!

レディバード
©Merie Wallace, courtesy of A24

さらに、思春期といえば社会への適応もそうだけど、身体の変化も重要なテーマとなってくる。つまり、セックスへの関心だ。身体がそれに適応した頃合いの時、男の子だけでなく女の子も「したい」という気持ちになってくる。レディ・バードも、常日頃親友と「オナニーどうしてる?」って話ばかりして(仲いい女友達とはああいう話をするものだ)実際のセックスがどんなものなのか興味津々だ。 一方で、自分のはじめての彼氏は中々触ってこようとしない。「胸触ってもいいんだよ?」なんて勇気を出して言うも、「リスペクトしすぎて触れない」とか百点の回答をいただくので、そのときは気分がいいけど後々考えるとやっぱりなんかモヤモヤする。ヴァージンの17歳にとって自分の身体に興味を持ってもらえない事は、なかなかキツかったりするのだ。 しかし、それが自分の魅力が欠けているからではなく彼氏がゲイだったからという事実によって、レディ・バードのプライドは違う意味で傷つく。そして、ティモシー・シャラメ演じるバンドマンのカイルに夢中になるのだ。 なんでバンドマンに惹かれるのか、それはレディ・バードが「まだ自分が何も成し遂げていない」事に対して劣等感を抱いているので、付き合うだけで自分の価値が高まるように感じる対象に依存しようとしたからではないだろうか。17歳の少女は、愛されたかったし、認められたかったし、何よりセックスもしたかったのだと思う。

AD

「特別な初体験なんて、ただの幻想だ」

レディバード
©Merie Wallace, courtesy of A24

しかし彼女はまた彼との出会いで、一つ学ぶことになる。それは「男と女の物の考え方の違い」、いや厳密に言うと「自分が正しく思うことは、他人にとって違う場合がある」という事だ。 レディ・バードは処女を“捧げる”相手は、それにふさわしいような自分を愛する人であるべきと考え、その行為自体を神聖視していた。これは彼女に限らず、恐らく多くの年頃の女の子も同じように考えていたことだ。だからこそ、彼女は自分と同じように「まだしたことがない」と言っていたカイルと「初めて」をする事を決意した。彼に、自分が同じように想うように想ってほしかったのだろう。 しかし、このカイルの「初めて」に対する考えは違った。多くの男性にとって「初めて」は大切にするものというよりか“捨てる”意識が強い。勿論、大切にする人もいるが、カイルはこの前者側だった。彼は結局“6人くらい”としていたのだ。その事実を知ったレディ・バードは、動揺する。嘘をつかれた、というよりか「何故この男は経験人数がうろ覚えなのか」という、彼女にとって神聖なはずのセックスに対する意識の違いに驚いたのだろう。そんな彼女に畳み掛けるようにカイルは「特別なセックスなんてただの幻想だ」と吐き捨てるのだった。 初めてなのに上で動かされた、思いやりの欠片もないセックスをされた事で自分という存在の価値の低さを感じたレディ・バード。彼にこだわっていると思われたくなくてその場を去るが、やっぱり傷ついたことも事実なので、迎えに来てくれた母を目の前に泣きじゃくる。しかし、後に親友ジュリーにその出来事を話す過程をふまえて、彼女はその体験を受け入れていくのだった。 「初めて」は大切にするべきものだとずっと考えていたけど、実際そんな結果にはならない。やはり“捨てた”ようになってしまったという、一定数の男女が経験したであろうあの苦い経験を、このシークエンスでは本当に丁寧に描かれていた。

AD

グレタ・ガーウィグが描けて、他の監督が描けなかった17歳の情景

レディバード
©Merie Wallace, courtesy of A24

本作を監督したグレタ・ガーウィグが生々しく描いたのは、上で述べた初体験の記憶だけではない。レディ・バードの交友関係もその一つだ。 彼女は普段から多くの友達とつるむというよりかは、ジュリーという少女と行動を共にしていた。しかし、カイルと近づきたくなった彼女は、ジュリーやゲイだった元カレも所属する演劇部に顔を出さなくなる。そして、スクールカーストの上位にいる裕福な女の子に近づくのだ。 この近づき方がまた、かなり生々しい。新しい友達を得るために、彼らが馬鹿にしている対象を一緒になって馬鹿にするのだ、例えそれが自分と仲良しだとしても。この犠牲を払ったうえに、自分も同じ裕福な家庭の子であると嘘をついた彼女は、一応その子と仲良くなっていつも一緒にいるようになる。 スクールカースト下位の子が、このような形でカースト上位の仲間入りを果たすシナリオは、『ミーンガールズ』をはじめ数多くの青春映画の常套句といえよう。しかし、グレタ・ガーウィグが描いたのは多くのそれより深堀した、生々しいメッセージだった。

レディバード
©Merie Wallace, courtesy of A24

大体の映画は、結局メンバーの新入りとなった主人公の嘘とかが、カースト上位の子に知れて絶縁される流れが多い。しかし、本作ではその嘘がバレた後も、カースト上位の彼女はレディ・バードと絶縁する事もなく、一緒につるんでいた。けどそれは別に、彼女の事が本当に好きだったからとか、友達だと思ったからではない。いきなり絶縁なんてリアルでは難しいし、気まずいからだ。 レディ・バードが「私と友達やめるの?」と聞くとその子は「別に。カイルの彼女でしょ?これからもよく会うだろうし」と、答える。それに心底ホッとしたレディ・バード。しかし、その後彼女が彼らとプロムに行く事になった時も、カースト上位は「変なドレス」と彼女の陰口を言いながらも、車に一緒に乗って時を過ごしていた。これほどの地獄絵図といったら、ないだろう。 レディ・バードはプロムに行く事を、楽しみにしていた。しかし、そんな彼女の期待をよそにスレた彼らは「プロム怠いし、アイツの家のパーティー行かね?」と、方向をかえようとする。この時彼らに思わず便乗した彼女の、酷く傷ついて今にも泣きそうな表情が印象的だった。自分の小さな期待や大切な気持ちを犠牲に、一緒にいても楽しいか幸せかもわからない相手とつるんでいた。これまた、誰もが一度や二度経験した経験だろう。 本作はグレタ・ガーウィグの自伝的な脚本『Mothers and Daughters』を元に作られ、彼女は撮影監督に「思い出のような映画にしたい」と伝えていた。ガーウィグは、人が青春時代に大切に思っていたもの、あの時何故か傷ついたけど上手く言葉で説明できなかった感情というのを、ノスタルジックな映像とニキビ顔のヒロインであるレディ・バードというリアルで不器用なキャラクターを通して私たちに思い出させてくれたのだ。

AD

『レディ・バード』の核となる母娘のリアルな関係性

レディ・バード (プレス)
©Merie Wallace, courtesy of A24

そして何より脚本のタイトルが『Mothers and Daughters』であるように、本作は「娘と母の関係性」を語らずして語れない。この映画で描かれる親子関係にも、グレタ特有の生々しさがあるのだ。 最高の出来事があって、「自分がこの世で一番価値の高い人間なんだ!」なんて高揚した気分で帰宅しても、直後に「なんで部屋がこんなに荒れているの?」と自室にづかづかとやってきて台無しにする親。“今じゃない”と何千回も思った。そんな描写をはじめ、自分の気に入っているもの(服とかさ)をひたすら否定したり、何をやっても褒めてくれなかったりと、娘と母の“あるある”が連発する。 しかし、何より応えるのが「私は一番ベストなあなたでいてほしいだけなの」と母がレディ・バードに言うシーン。親に否定し続けられた子は、そんな考えが馬鹿らしい事はわかっていても「私のこと、嫌いなの?」と本気で思ったりする。子供が親に好かれたい、気に入られたい、褒められたいのは当たり前なので、自分なりにそこで努力する。しかし、それと同時に「自分的には、今の自分が一番自分らしいのだけど」と感じて、自己肯定と自己否定の狭間を行き来する事になるのだ。だからこそ、レディ・バードがそんな事を言った母に対して「もし、今の私がベストな私だったら?」と切なげに呟くシーンは、思わず涙が溢れてしまうほど胸に刺さる。

レディバード
©Merie Wallace, courtesy of A24

だが、母が「ベストなバージョンの娘でいる」事を願うのも当たり前。それは、悪意のない純粋な親の愛だからだ。しかし、物の伝え方がお互い上手ではないのですれ違ってしまう(さすが親子)。そんな彼らのコミュニケーションは、レディ・バードの大学進学の嘘がバレた頃から映画のクライマックスに向けてどんどん破綻していく事になる。 母は裏切られたショックで口を一切聞かずに、レディ・バードがニューヨークに旅立つ日になってもそのまま。自分は空港の中に行って見送らずに車を走らせる。しかし、段々にその表情が崩れて泣き出し、まだ間に合う事を願って空港に戻っていく。結局、彼女はレディ・バードに直接別れを伝えられずに終わる。大人になっても、親になっても、失敗や後悔は続いていくのだ。 親元を離れてニューヨークで一人暮らしを始めたレディ・バードは、母が自分のために書いた手紙を読んで親の心を知る。そして家にかけた電話の留守電で、今まで言えなかった想いを伝えるシーンは、同じような親子の境遇の人間にとって涙なしでは見られない。

AD

レディ・バードとは、何なのか。

レディバード
©Merie Wallace, courtesy of A24

さて、ここまで『レディ・バード』に描かれた“リアル”について触れてきた。しかし、タイトルにもなっている「レディ・バード」とは一体何なのか。 レディ・バードとは主人公クリスティンが、自分自身につけた名前だった。そして、彼女が嘘をついた背景と同じように「周りから見られたい自分」の象徴だったように感じる。彼女はサクラメントという街に溢れる凡庸な存在になる事を嫌い、特別な何者かになりたかったのだ。 しかし、いざサクラメントを離れて都会に出ると、自分がいかにその凡庸さの中で色々な事を感じて育ったか、何気なく毎日そこにあった日常が自分にとって大切であったかという事に気づく。毎日カトリックの学校に通って、別に宗教とかどうでもいいって思っていたのに、ニューヨークで見つけた教会に、心の奥底で渇望していた「故郷との繋がり」を感じて足を踏み入れる。 どんなに馬鹿にしていた故郷や家族、友達でも離れるとその大切さに気づく。何故ならそれは、彼女のアイデンティティの形成に関わって来た重要なものだからだ。そして彼女のクリスティンという名前は、名付けてくれた親との繋がりでもあった。 ニューヨークに移り住んで、自分の事を何もしらない相手に「クリスティン」と本名で名乗りはじめた彼女。最後の母への電話で、「クリスティンって良い名前」と言った彼女は、両親にレディ・バードと呼ぶ事を強要していたことが、名付け親である彼らを少なからず傷つける行為だった事にも気づいたはずだ。 自分の言動が誰かを傷つけていたなんて、思いもしなかった17歳。そして、それに少し気づきはじめた18歳。あの時に感じた心の機微を忘れそうになったときは、ふとまたこの映画を手に取る事になるだろう。