2018年6月29日更新

小津のライバル?知られざる天才・清水宏【役者なんかものをいう小道具】

あまたの人材を輩出した1930年代の日本映画界。その中でも突出した才能を持ちながら、あまり知られていない監督に清水宏がいます。小津安二郎、溝口健二、山中貞雄が天才と呼んだ監督・清水宏を紹介したいと思います。

知られざる天才映画監督・清水宏

清水宏という監督の名前を聞いたことはありますか?1920年代から活躍した映画監督の1人です。 1922年松竹蒲田撮影所に入社し映画監督になりますが、当時、松竹には1年後輩に小津安二郎がいました。作品も性格も全く異なる二人はお互いの才能を認め合い、後にそれぞれの道を進みながらも、よきライバルとして生涯の友となりました。 今回はそんな清水宏監督が活躍した大正・昭和の日本映画の背景と共に、彼の代表的な作品を紹介していきながら、どんな監督・人物だったのか紹介していきます。

清水宏監督とは?

清水宏監督は、1903年静岡県に生まれます。父母の仲が悪く、母方の祖父の家で育ちますが、6歳の時に東京に住む父の下に引き取られました。 主に歌舞伎興行を行っていた松竹が1920年に映画会社を立ち上げると、清水宏監督は1922年、松竹の蒲田撮影所に入社します。わずか2年ばかりの助監督経験を経て監督デビューを果たすのでした。 「役者なんかものをいう小道具」という言葉からもわかるように、とにかくわがままで心の赴くままに行動していたので、彼の人間性においては賛否が分かれますが、作品においては間違いなく巨匠と謳われていました。松竹に入社しデビューから10年で100本近い作品を監督。 その中で「大学の若旦那」シリーズなどのヒット作を生み出し、会社にも多大なる利益をもたらした監督なのでした。 今回は、そんな清水宏の監督作を9本紹介します。

松竹撮影所の移転!蒲田から大船へ 映画『有りがたうさん』

1936年松竹は本格的にトーキー映画への参入を決めますが、録音の環境を整えるため撮影所を大船に移転します。この年、清水宏監督初のトーキー映画『有りがたうさん』を発表。 本作は撮影所移転後初にも関わらず、リアリティにこだわる清水監督の意向でオールロケ撮影になりました。あるがままのものを好み、自然の風景や素のままのお芝居などに重きを置いた監督ならでは。 原作は川端康成の「掌の小説」の中の短編「有難う」ですが、脚本は清水監督によってかなりの改変がされています。お客に「ありがたう」といって感謝することから「有りがたうさん」と呼ばれて親しまれている定期乗合バスの若い運転手とそこで出会う乗客やすれ違う人々との交流を描いたお話です。 主演はその頃はまだ新人俳優だった上原謙が務めました。素のままのお芝居をする上原は清水監督のお気に入りで、芝居じみたものを極力排除したい清水監督の意図が窺えますね。 ちょうどこの年、日本映画監督協会が設立され、これまではなかった他社の監督・溝口健二や山中貞夫などとの交流の場を設けられることとなります。

新生・松竹大船作品 映画『風の中の子供』

映画『風の中の子供』は清水宏監督作品の中でも広く知られている作品です。朝日新聞に連載されていた坪田譲治の児童文学が原作と言われています。 いつもならば原作から大きな改変をして映画化する清水監督。今回は原作への信頼が強かったようで、そのまま映画化することを心掛けました。 父親が無罪の罪で逮捕される中、過酷な世の中を生きる兄弟の姿を描いた作品です。この主役の子供たちの素直さや素朴さが多くの観客に感動を与えました。 本作に出演する子供たちだけでなく、清水監督は子供の演出が実に巧かったそうです。子供たちとのコミュニケーションを取るために、監督自身も一緒になって遊びました。 本作はヴェネチア国際映画祭に出品するも無冠に終わりますが、各国からは高い評価を得た作品でした。

清水宏お得意の設定とは?【『按摩と女』と『簪』】

映画『按摩と女』、映画『簪』は設定がとてもよく似ています。旅と温泉とそこに集う人々の交流。いずれも清水監督が好んだ設定でした。ここではその両作品を紹介します。

映画『按摩と女』

映画『按摩と女』は、渡り鳥のように、暖かくなるとある温泉場にやってくる按摩家業の徳市が、東京からやってきた謎の女に恋心を抱いてしまうという物語です。清水宏監督のオリジナル脚本で、按摩である徳市やその仲間、温泉場で出会う人々の交流をユーモアたっぷりに、しかし切なく描いています。 謎の女に映画『犬神家の一族』の高嶺三枝子、徳市に映画『暖流』の徳大寺伸が演じています。本作は、2008年石井克人監督、草彅剛主演にて映画『山のあなた~徳市の恋~』としてリメイクされました。

映画『簪(かんざし)』

映画『簪』は井伏鱒二小説集「おこまさん」中の「四つの湯漕」が原作。本作も清水監督の世界観に見事なまでに塗り替えられていきました。 夏休みの温泉宿を舞台に、様々な人々の人間模様をユーモラスに描いています。湯船に落としてしまった簪がきっかけに惹かれ合う男女を映画『愛染かつら』田中絹代と映画『東京物語』の笠智衆が演じています。 田中絹代は、かつて清水監督と「試験結婚」という形で結婚し、わずか2年で離婚しました。

児童映画の巨匠が手掛けた映画『みかへりの塔』 

これまで清水宏が監督した映画『風の中の子供』や『子供の季節』などの子供たちがメインの作品が認められ、その延長線上に制作された作品が、『みかへりの塔』です。大阪府河内にあった非行児童救護施設「修徳学院」の院長・熊野隆治の手記が原作。 その手記のエピソードを取材しながら清水監督が脚本にしていきました。学院のシンボルだった塔の名が「みかへりの塔」なのです。 本作は、学院の井戸がひとつしかなく困っていた院長の発案で、子供たちの力だけで水路を引こうとするというお噺。何かを成し遂げることの喜びや自信などが子供たちの歓喜の声や表情に生き生きと現れている作品です。

戦時中や戦後の清水宏監督は? 映画『蜂の巣の子供たち』

戦時中、清水宏監督の映画作りは思うようにいきませんでした。戦時体制強化のため「期待される人間像」という枠でしか映画を作ることができず、彼の求める映画はどんどん孤立していきます。 そして会社では他の監督の反感や嫉妬が根強くあり、とうとう下加茂撮影所へ左遷という形へ。その後、清水宏は松竹を辞め、二度と戻ることはありませんでした。 そんな状況の中、終戦を迎え清水監督が立ち上げた独立プロ・蜂の巣映画部で製作した作品が、『蜂の巣の子供たち』なのです。清水監督は伊豆に土地を買い、そこで戦争孤児など引き取り、彼らの映画を作りました。 本作は下関から大阪の「みかへりの塔」まで向かう復員兵と彼を慕う子供たちの旅の物語です。以前制作した映画『みかへりの塔』から着想を得ていることは間違いないでしょう。

新東宝作品『小原庄助さん』と『しいのみ学園』

映画『蜂の巣の子供たち』は東宝で配給され大きな反響を呼びました。その成功もあってか新しい会社で映画製作に携わります。 新東宝(現:国際放映)が製作した代表的なところで、『小原庄助さん』や『しいのみ学園』などがあります。

映画『小原庄助さん』

映画『小原庄助さん』は民謡「会津磐梯山」の中の「朝寝、朝酒、朝湯が大好きで、それで身上つぶした」の小原庄助さんの話を、清水宏がコメディタッチでオリジナル脚本にしました。小原庄助さん役を戦前の時代劇スター・大河内傳次郎が演じることに。 清水監督は大河内のような上手な俳優を好まないこともあり、撮影現場では衝突ばかりだったようです。監督からすると気乗りしない現場だったので、助監督が「ヨーイ、アクション」と声を掛け役者の芝居を付けましたが、大河内には屈辱的だったと言います。 そんな二人が作った映画でしたが、作品の出来栄えは非常によかったというのは皮肉なものですね。

映画『しいのみ学園』

児童心理学や教育学の教授であった山本三郎が、二人の息子が小児マヒに冒されたのをきかっけに、障害を持つ子供のための施設「しいのみ学園」を設立します。山本が綴ったその体験記を原作としたのが映画『しいのみ学園』です。 『みかへりの塔』、『蜂の巣の子供たち』に続く児童映画三部作となり、より愛情や助けを必要とする子供たちへの教育がテーマとなっています。山本先生役を宇野重吉が演じ、学園で働くかよこ先生を香川京子が演じています。 戦前はあれだけ多くの映画を作ってきた清水宏監督。戦後は、仏像に魅せられて京都や奈良の仏閣を巡っていたといいます。自分の生い立ちなど何か思うところがあり、意義にある作品作りをしていったような気がします。

清水宏最後の映画『母のおもかげ』

1955年、溝口健二に誘われて大映と契約を結ぶことになります。そこで何本かの映画を作りますが、母と子をテーマにした作品が少なくありません。 映画『母のおもかげ』もそのひとつで、清水宏の映画における最後の作品となりました。水上バスの運転手をしている父を持つ少年・道夫は幼くして母を亡くしてしましたが、ある日、新しい家族ができることに……。 シンプルでありながら母と子の愛を描いた珠玉の作品です。本作でも、揺れ動く少年の心や戸惑う母の心情などを細やかに描いて、これぞ清水作品の真骨頂と言うにふさわしい映画となりました。

最後の最後まで監督として生きた清水宏

清水宏という監督ほど評価が分かれる監督はいないと言われています。戦前と戦後、生前と没後でかなりかけ離れた評価なのです。 それは彼の性格的なところが起因しているとも言われています。とにかくわがままで、彼自身が自然そのもので、他の人には理解できない部分があったのかもしれません。 特に助監督にとても厳しかったと言われていますが、彼のお陰で監督になった人物に映画『ゲンセンカン主人』の石井輝男などがいます。石井は清水監督のことを「オヤジ」と慕っていました。 1966年、自宅で雑誌を読んでいた最中に心臓麻痺のため亡くなりました。その数時間前まで、新作映画の企画の話をしていたと言います。 その際「子供心の純真さを描いてもう一度仕事をしてみたい」と語っていた監督は、その夢空しく、静かに息を引き取りました。