2018年10月5日更新

孤高の「撮影者」木村大作の伝説6選【『散り椿』監督・撮影】

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日本が誇る希少な映画人・木村大作

2018年9月3日夜(日本時間4日)、第42回モントリオール映画祭にて、映画『散り椿』がグランプリに次ぐ審査員特別賞を受賞しました。この作品の監督は、降旗康男監督作品などのカメラマンとしても広く知られている木村大作です。 映画『劔岳 点の記』で監督デビューも果たし、監督作品としては本作が3作目となる木村監督。いかにしてカメラマンから映画監督への道を目指したのか、映画の世界だけでなく各方面からも支持されているその人となりを紹介していきます。

カメラマンから映画監督へ 木村大作とはどんな人?

木村大作は1939年東京に生まれ、1958年にボイラーマンとして東宝に入社しました。その1か月後、黒澤明監督作品の撮影助手になり、初仕事として映画『隠し砦の三悪人』の現場へ。 以後、映画『用心棒』など撮影助手として次々と黒澤作品を担当し、33歳という若さで須川栄三監督作品『野獣狩り』でカメラマンデビューしました。その後、東宝が映画製作から撤退し始めたのを機に、他社出身の監督たちとタッグを組むことに。 そこで、後に黄金コンビと呼ばれる降旗康男監督と出会い、映画『駅 STATION』や『鉄道員(ぽっぽや)』などを担当しました。その実力が認められて日本アカデミー賞の常連となり、最優秀撮影賞を5回も受賞。 そして2009年、映画『劒岳 点の記』で70歳にして初監督。もちろん撮影も担当し、以後の監督作も全て撮影を兼任しています。2014年には監督2作目『春を背負って』が公開。そして2018年 、3作目となる映画『散り椿』が公開されます。

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映画『散り椿』とは?

映画『散り椿』は、『蜩ノ記』で知られる葉室麟の同名小説が原作です。 かつて一刀流の平山道場四天王と呼ばれた瓜生新兵衛は、藩の不正を訴えたにも関わらず故郷を追われてしまいます。 長年連れ添い病に臥した妻の最期の願いを叶えるために帰藩した新兵衛は、ある真相に辿り着きます。そこで、平山道場時代の友・榊原采女と対峙することになるのですが……。 主演は、降旗康男監督の映画『追憶』で木村と仕事をしている岡田准一。岡田演じる新兵衛の妻には、映画『俳優 亀岡拓次』の麻生久美子、采女に映画『人魚の眠る家』の西島秀俊など豪華キャストが集結しました。 脚本は映画『蜩ノ記』の小泉堯史監督。音楽は映画『阿弥陀堂だより』をはじめとし小泉作品を多数手がけている加古隆というこれ以上ないスタッフ陣となりました。 散り椿という花は、花びらが一片ずつ散るように落ちていくことからその名がついたと言われています。鮮やかさを保ったまま散る潔さから「武士(もののふ)椿」と呼ばれることもあり、この物語をよく現わしているタイトルですね。

木村大作伝説1:ピントを勘だけで送っていた!?

木村大作は東宝に入社後、撮影部に配属され黒澤明監督の作品に多く携わってきたのですが、その時はまだ撮影助手でした。撮影助手には、カメラのピントを合わせる大事な仕事があります。 2018年現在のようにデジタルカメラが普及していたわけではなく、当時は35mmフィルムにアナログなフィルムカメラを回していたので、レンズのピントに関しても完全な手動になります。木村はこのピント合わせの天才と言われていたのです。 特に、被写体となる人物などがカメラに向かって歩くカットを遠くから撮る場合、被写体の距離が変わるとすぐにピントが合わなくなるため、ピント送りには熟練した職人技が必要でした。 普通ならスケールを使って、カメラから対象の距離を測ってピントを割り出すところを、木村は自分の感覚で決めていました。何度も何度も試行錯誤して、自分の勘を磨いていったそうです。 木村は絶対にピントは外さないという気持ちで常にカメラと向き合ったといいます。まさにプロの仕事ですね。

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木村大作伝説2:カメラマンデビューでいきなりのチャレンジ精神!

木村大作は、映画『野獣死すべし』などの須川栄三監督の映画『野獣狩り』にてカメラマンデビューを果たします。その時の木村は33歳で、カメラマンとしてはとても早いデビューでした。 そこでいきなり、作品の全ての場面で三脚などを使わず、手持ちカメラによる撮影をすることを提案します。加えて照明も自然光だけを使うことを提案し、実現させてしまいます。 仕事を奪われた照明技師が無断でこっそりライトを当てたことがありました。木村よりも年上のベテランスタッフであるにも関わらず、木村は怒鳴りつけたのだそうです。 カメラマンとしてのこだわりの強さは若い頃も今も何も変わっていないようですね。

木村大作伝説3:降旗康夫と木村大作に打ち合わせはいらない!

映画『駅 STATION』で木村大作が撮影を務め、降旗康男監督と初めてタッグを組んだときから、この二人は特別な打ち合わせをしないのだそうです。木村は、前から降旗監督の作品を見ていたため自分の方向性は決まっているので、それを実践しただけだといいます。 降旗監督からは異論がなかったのでこれでいいのかなと進めていたそうです。以後、二人の関係性は変わりません。 木村はいいます。「事前の打ち合わせは危険な部分もあり、言葉で表現できないこともあるため、それなら行動した方がいい」と。 自分が先に行動することで、降旗監督の狙いや考えていることがわかるのだそうです。互いの信頼関係があればこそですよね。

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木村大作伝説4:記念すべき初監督作は、最も過酷だった!?

木村大作監督デビュー作は、新田次郎原作の映画『劔岳 点の記』。明治時代、日本地図の中で空白になっていた前人未踏の剣岳の頂上を目指した測量隊が、目的地に辿り着くまでの過程を描いた作品です。 本物の自然に徹底的にこだわろうと決めていたため、撮影には最低でも2年。200日は山に籠ることが前提で撮影が行われました。 スタッフ数は最低限にとどめ、それぞれの役割を超えてみんなで機材などの荷物も運びました。命の危険のある過酷な自然環境での撮影だったといいます。 撮影もストーリーに合わせて順番に撮ることに。そうすることで、キャストも実際の測量隊と同じ環境下となり、自然とリアリティのある演技になっていったのです。 撮影に参加したあるスタッフがこういったそうです。「この映画に関わって、映画づくりを学ぶ以上に、人はどのように生きていくべきかについて学んだ」と。 撮影は過酷だったでしょうが、得るものは大きかったのではないでしょうか。木村作品ならではですね。

木村大作伝説5:映画宣伝だって自分でやります!

『劔岳 点の記』の上映時には、木村監督が自ら日本一周の長期単独キャンペーンを行いました。 なんと、この企画のために自家用車を購入し、その車に映画『劔岳 点の記』のプリントを積み込み、47都道府県すべて回って上映や講演を行いました。木村監督は当時、69歳という高齢に加えて、キャンペーンを行ったのは冬の真っ只中。 配給会社や関係者の心配をよそに、車を劔岳専用車としてラッピングし、走行距離2万キロという快挙に単独で臨んだのです。やはり木村大作はただ者ではありませんね。

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木村大作伝説6:キャストへの愛!映画への愛!電柱も抜くほどに!

時代劇は通常、専用のスタジオで撮影します。ロケの場合だと、風景は現代のそれとなってしまうため、舞台となっている時代を表現するのがなかなか難しいというのが大きな理由のひとつです。 映画『散り椿』では、リアリティにこだわり富山県でのオールロケ撮影となりました。その中で、木村監督は、なんと電柱を抜いて移動させたというのです。 2018年現在、もし電柱が撮影の妨げになっていても、後からCGで消すという作業が一般的だと思われます。それを、演じる俳優のために抜いたというのです。 俳優に「なんだ、こんなところで撮影するのか」と思われたら失敗だ、と考えた木村は、主演の岡田准一が現場に入る前に富山県にお願いして抜いてもらったそうです。 これも映画や俳優への思いがそうさせるのでしょうね。

木村大作という生き方

木村大作は、いい映像を取るためには妥協を許しません。常に本物を求めています。 それはカメラマンという立場であっても監督という立場であっても変わりません。そのこだわりの強さから、これまでも監督やスタッフとの衝突も数多くあったそうです。 そのうち、50代は仕事がなくなり交通整理のアルバイトもしました。そんな中、カメラマンとして仕事がないのなら、自分で撮ればいいのだということで監督を始めることになったのです。 「非常識でなければ売れない。そのために争うことを恐れるな」と彼はいいます。 それが、これまで彼が数多くの映画と関わってきた中で得た自分の道なのでしょう。常に本物を追い求める強い意志があるからこそ、人は彼の作品や言葉に胸打たれるのかもしれませんね。