オードリー・ヘプバーンについてあなたの知らない10のこと

2017年7月6日更新

『ティファニーで朝食を』『ローマの休日』『シャレード』など数々の名作に出演、ハリウッド史上最も愛された女優のひとりオードリー・ヘプバーン。今回はオードリー・ヘプバーンについてあなたの知らない10のことを紹介します。

1.オードリー・ヘプバーンはセカンドチョイスが多い女優だった!?

オードリーヘップバーン

オードリー・ヘプバーンといえば、世界で最も人気のある女優のひとりですが、いくつかの出演作品はヘプバーンはファーストチョイスではなかったそうです。

たとえば、『ティファニーで朝食を』(1961)の原作者トルーマン・カポーティはホリー役にマリリン・モンローを希望していたため、オードリー・ヘプバーンはホリー役のファーストチョイスではありませんでした。

今でこそ『ティファニーで朝食を』はヘプバーンの代表作とされていますが、原作のホリーとヘプバーンの演じたホリーはかなり異なるキャラクターになっています。

原作を読めば、ヘプバーンがファーストチョイスではなかった理由が簡単に想像出来るはずです。

また、もうひとつの代表作『ローマの休日』アン王女役もヘプバーンがファーストチョイスだったわけではありません。エリザベス・テイラーがファーストチョイスだったと言われています。

2.バレリーナになるのが夢だった!?

パリの恋人

オードリー・ヘプバーンは5歳の時にバレエのレッスンを始め、バレリーナになることを夢見ていたそうです。

1940年代後半、成長したヘプバーンは名門ランベール・バレエスクールに入学、モデルのアルバイトをしながらバレエレッスンを受けていました。

バレエの才能はあったものの、身長の高さや身体の弱さがバレリーナとしての成功を妨げ、バレエの世界でトップになることを断念したそうです。

その後、オードリー・ヘプバーンは女優の道へと進み、『パリの恋人』などでダンスの才能をいかんなく発揮することになります。

3.バイリンガルだった!?

オードリー

オードリー・ヘプバーンの父ジョセフはボヘミア生まれのイギリス人、母エラはオランダの貴族、ヘプバーン自身はベルギーで生まれました。

幼少期にイギリス、ベルギー、オランダを行き来していたこともあり、ヘプバーンは英語とオランダ語を流暢に話すことが出来たそうです。

また、海外に出る機会が多かったため、スペイン語、イタリア語、フランス語まで話すことが出来たと言われています。

4.レジスタンスに協力していた!?

生き方

1939年、当時イギリスに住んでいたヘプバーンは第2次世界大戦が勃発をきっかけに母親と共にオランダのアーネムへと移ります。

オランダは中立国のままだというかすかな希望を持っていたようです。

しかし、すぐにドイツ軍がオランダ侵攻を開始、イギリス人だと分かる名前だと危険な目に遭うため、ヘプバーンは”エダ・ヴァン・ヒームストラ”というオランダ人の偽名を使っていたと言われています。

その間、ヘプバーンはオランダのレジスタンスに資金提供をしたり、荷物やメッセージを送る援助をしていたそうです。

食糧が底につくと、チューリップの球根から作った粉でケーキやビスケットを焼いて飢えをしのぐなど、かなり厳しい時を過ごしていました。

5.げんをかつぐ人物だった!?

ローマの休日

オードリー・ヘプバーンはげんをかつぐ女優だったことで有名です。

たとえば、映画の撮影で使用する楽屋番号に強いこだわりを持ち、いつも55番をリクエストしていたそうです。そのため、『ローマの休日』『ティファニーで朝食を』『パリで一緒に』などでヘプバーンが使用した楽屋の番号は55だったと言われています。

なぜ55なのかというと、単に彼女のラッキーナンバーだったからです。

また『ローマの休日』でアカデミー主演女優賞にノミネートされた時には、『ローマの休日』の撮影で使用したドレスを“ラッキードレス”と名付け受賞式で着用していました。

オードリー・ヘプバーンは『ローマの休日』でアカデミー最優秀主演女優賞を獲得、ラッキードレスの効果かもしれません。

6.鹿を飼っていた!?

緑の館

1959年公開、オードリー・ヘプバーン主演映画『緑の館』にピピンという小鹿が登場します。

撮影前、ヘプバーンはその小鹿にイップと名付け、哺乳ビンでミルクをあげるなどして絆を深めていたそうです。

その間にすっかりイップにメロメロになって離れることが出来なくなったヘプバーンは小鹿を引き取ることにしたそうです。

7.晩年の趣味はガーデニングだった!?

晩年様々な健康問題を抱え、段々と表舞台に出る機会が少なくなっていったオードリー・ヘプバーン、そんな彼女の最後の映像作品は7つの国を渡り、各国の優れた庭を紹介するドキュメンタリー番組でした。

このドキュメンタリー番組は1990年に撮影されていましたが、オンエアーされたのは1993年1月21日。オードリー・ヘプバーンが亡くなった翌日でした。

90年代著しく体が衰弱したヘプバーンの楽しみはスイスの自宅の庭を散歩することだったと言われています。

8.ユニセフを38年支援し続けた!?

悲惨な戦争体験をしていたこともあり、オードリー・ヘプバーンは積極的にチャリティ活動を行う人物でした。

1954年、ユニセフの支援を開始したヘプバーンは自らの目で発展途上国の現状を知るために様々な国へ足を運びました。そこで目の当たりにした劣悪な環境や悲惨な状況に大変ショックを受けたそうです。

1988年、オードリー・ヘプバーンはユニセフの親善大使に任命されることになりますが、亡くなる1993年までその任が解かれることはありませんでした。

9.『マイ・フェア・レディ』の歌声はヘプバーンのものではない!?

マイ・フェア・レディ

オードリー・ヘプバーンはあまり歌が得意な方ではなかったため、歌は吹き替えで行うことがよく検討されていたそうです。

『ティファニーで朝食を』の中にホリーが“ムーン・リバー”を唄う場面がありますが、その時はオードリー・ヘプバーン自身の歌声が採用されています。監督のブレーク・エドワーズが少しずれたヘプバーンの歌声がホリーには合っていると判断したためです。

一方、1964年『マイ・フェア・レディ』の歌声はヘプバーンのものではなく、マーニー・ニクソンが歌の吹き替えをしていました。オードリー・ヘプバーンは撮影のために歌をレッスンを積み、自らの歌声が採用されるものと信じていたため、吹き替えを知ったときは激怒したそうです。

後に、もしも吹き替えのことを知っていたら『マイ・フェア・レディ』には出演していなかったとヘプバーンは語っています。

10.コンプレックスだらけだった!?

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オードリー・ヘプバーンといえば、美しく、スタイリッシュ、ハリウッド史上最も愛された女優のひとりです。

しかし、ヘプバーンは多くのコンプレックスを抱えていたことでも有名、“大きな鼻”“大きな足”“貧乳”“角ばった肩”などについてよく不満を漏らしていたそうです。

彼女がコンプレックスに思っていた部分や不完全さは欠点ではなく魅力、ここまでアイコニックな存在となった大きな要因です。

オードリー・ヘプバーンは自分自身の本当に魅力に気づいていなかったのかもしれません。

かつてこんなことを言っていました。

“私みたいな顔で映画に出られるとは思っていなかったわ。”
引用:whatculture.com