2022年5月9日更新

オードリー・ヘップバーン出演のおすすめ映画作品12選 彼女はなぜ永遠にロールモデルなのか

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『ローマの休日』オードリー・ヘプバーン
©Paramount Pictures/Photofest/zetaimage

「永遠の妖精」と呼ばれ「最も偉大な女優50選」第3位にも選ばれたハリウッド黄金期の映画スター、オードリー・ヘップバーン。ファッションアイコンとして輝き、ユニセフ国際親善大使として活動を続けた人生は、今なお後世に影響を与えています。 2022年5月6日にはドキュメンタリー映画『オードリー・ヘプバーン』も公開。この記事では、オードリーのプロフィールや代表作、伝記映画の内容を紹介するとともに、名言やトリビアも併せて解説し、その人となりに迫っていきます。

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伝説の女優オードリー・ヘップバーン

『ティファニーで朝食を』オードリー・ヘップバーン
© Paramount Pictures/Photofest/Zeta Image

オードリー・ヘップバーンは1929年5月4日、ベルギーのブリュッセル生まれ。5歳のころからバレエを習い始め、10代でウエスト・エンドの舞台に立ちました。 スクリーンデビューは1948年の映画『オランダの七つの教訓』のスチュワーデス役で、その後、1953年の『ローマの休日』の主人公アン王女役でアカデミー主演女優賞を受賞。 その後も『麗しのサブリナ』、『ティファニーで朝食を』、『マイ・フェア・レディ』など歴史に残る名作に出演し続け、1967年の映画『暗くなるまで待って』で女優業を引退します。 70年代以後は家族との生活やユニセフの活動が中心となり、1993年に虫垂癌でこの世を去りました。

代表的な出演作12選

ここからはオードリー・ヘップバーンが出演した名作を公開した順番に紹介していきます。

1.『ローマの休日』(1953年)

オードリー・ヘップバーンの最高傑作に挙げる人も多い名作

ローマの休日
© Paramount Pictures/zetaimage

1953年に公開された『ローマの休日』では、オードリーは異例の新人抜擢でありながらアカデミー主演女優賞を獲得。ローマに来たアン王女はひょんな事から新聞記者のジョーと出会い、束の間の自由な時間を満喫するのでした……。 トレビの泉やスペイン広場、真実の口など数多くのローマの観光名所が登場し、今なお聖地としても大人気です。愛くるしさと気品を兼ね備えたアン王女役は、オードリーの魅力を最大限に引き出しました。

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2.『麗しのサブリナ』(1954年)

ハンフリー・ボガートとの共演による超一流のコメディ映画

『麗しのサブリナ』ハンフリー・ボガート、オードリー・ヘプバーン、ウィリアム・ホールデン
©︎ Paramount/Photofest/zetaimage

戯曲を映画化し、1954年に公開。裕福な一家のお抱え運転手の娘の名はサブリナ。彼女はその家の次男に失恋をしてパリに向かいます。その後彼女は……。 富豪兄弟の間で揺れ動く娘サブリナを、可憐に美しく演じたオードリー。サブリナのエレガントなファッションが話題となり、ファッションアイコンとして注目されるようになった作品です。 本作を通してジバンシィとオードリーが初めて出会い、後のファッション界に大きな影響を及ぼすことになりました。

3.『昼下りの情事』(1957年)

オードリー・ヘップバーン×ビリー・ワイルダーに外れなし!

『昼下りの情事』オードリー・ヘプバーン
©︎ Allied Artists Pictures/Photofest/zetaimage

小説を原作にしたロマンティック・コメディである『昼下りの情事』は1957年に公開。私立探偵の父のもとへ、ある男が妻の浮気調査の結果を聞きにやってきます。彼が帰り際に残した言葉を聞いていた娘アリアーヌは……。 『麗しのサブリナ』に次ぐビリー・ワイルダー監督作2本目の出演で、今作もジバンシィがオードリーの衣装を担当しています。シフォンスカーフを三角に折って頭にかぶり、両端を前で交差させて後ろで結んだ「アリアーヌ巻き」が流行しました

4.『戦争と平和』(1956年)

夫と共演し、ロシア貴族の娘を可憐に気高く演じた大作

『戦争と平和』オードリー・ヘップバーン、メル・ファーラー
© Paramount Pictures/Photofest/Zeta Image

ロシアの文豪トルストイの小説を原作とし、1956年に公開した大作映画『戦争と平和』。19世紀前半のナポレオン戦争の時代を背景にロシア貴族の3家の興亡を描いた作品で、映画ではナターシャ、ピエール、アンドレイの3人を中心にした物語として展開します。 当時の夫のメル・ファーラーと共演し、オードリーは3家の1つであるロストフ伯爵家の娘ナターシャを演じました。このナターシャ役で、英国アカデミー賞とゴールデングローブ賞にノミネートされています

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5.『パリの恋人』(1957年)

オードリーがかわいい!音楽が素晴らしい!

『パリの恋人』オードリー・ヘプバーン
©︎ Paramount Pictures/Photofest/zetaimage

オードリー初のミュージカル映画として、1957年に公開された作品。古本屋に勤めるジョーは、ファッション雑誌のモデルを頼まれる事に。最初は躊躇していた彼女でしたが……。 共演は、ハリウッドのミュージカル映画全盛期を支えた名ダンサー、フレッド・アステア。一方、オードリーも幼少期に培ったバレエの能力を活かし、見事なダンスを披露しています

6.『尼僧物語』(1959年)

戦争の実体験も彷彿とさせる、実在の尼僧を演じた伝記映画

『尼僧物語』オードリー・ヘップバーン、ピーター・フィンチ
© Warner Bros./Photofest/Zeta Image

実在の元尼僧の半生を描いた小説を原作に、1959年に映画化された『尼僧物語』。ベルギーの医者の娘ガブリエルは、尼僧になる決意をして修道院に入ります。厳しい戒律生活の末にシスター・ルークとなったガブリエルは、念願だったベルギー領コンゴで看護師として活動を始めますが……。 ナチスに父を殺され、僧職を捨てて祖国を守る戦いに身を投じるか、葛藤に悩むシスター・ルークを好演したオードリー。彼女の実際の戦争体験が重なるところもあり、撮影前に尼僧と看護師の両方の役作りに励んだといいます。

7.『ティファニーで朝食を』(1961年)

ヒロインが最後に選んだものは?

『ティファニーで朝食を』
©︎ Paramount Pictures/Photofest /zetaimage

トルーマン・カポーティの小説を原作に、1961年に公開された作品。華やかな世界に憧れるホリーは、一流のジュエリーブランド「ティファニー」のウィンドーを見ながら朝食にクロワッサンを食べるのが日課で……。 それまで清純派としてエレガントな役柄を演じてきたオードリーが娼婦のホリーを演じたことで、自由に生きる女性像が生まれた画期的な作品。冒頭でホリーが着ていたジバンシィの黒いカクテルドレスは、映画に登場するドレスとして最も有名なものの1つとなりました。

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8.『シャレード』(1963年)

オードリー・ヘップバーンが名コメディエンヌぶりを発揮

『シャレード』
© Universal Pictures/Photofest/zetaimage

ケーリー・グラントと共演した、1963年公開のロマンティック・サスペンス。旅先で富豪の夫に離婚を告げようと決意したレジーナ。しかし自宅に戻ってみると、夫の姿はおろか家財一式がなく……。 英国アカデミー賞で、3度目の最優秀主演英国女優賞を受賞した作品。オードリーの作品にはお馴染みのパリを舞台にしたサスペンスで、ジバンシィがデザインしたイエローや深紅のドレスなどハイファッションも見どころの1つです。

9.『マイ・フェア・レディ』(1964年)

オードリー・ヘップバーンのミュージカル映画といえばこの作品

『マイ・フェア・レディ』オードリー・ヘプバーン、レックス・ハリソン
© Warner Bros./Photofestt/zetaimage

同名のミュージカルを映画化し、1964年に公開。下町生まれの花売り娘イライザの訛りはひどく、言語学のヒギンズ教授は彼女を立派なレディにできるかどうかで、ピカリング大佐と賭けをすることに……。 オードリー主演の最も有名なミュージカル映画で、彼女の演技とファッションは高い評価を受けました。ところが歌がほとんど吹き替えられ、アカデミー賞のノミネートも逃すといった事態になったことも有名。それでも、本作がオードリーの代表作の1つであることには変わりありません。

10.『おしゃれ泥棒』(1966年)

オードリー×ジバンシィの集大成的作品

『おしゃれ泥棒』オードリー・ヘプバーン、ピーター・オトゥール、イーライ・ウォラック
© 20th Century Fox Film Corporation/Photofest/zetaimage

1966年に公開されたコメディ作品。美術品収集家として知られるボネの裏の顔は贋作作家。偽物の美術品を競売にかけている事を知るボネの娘ニコルは、父の正体がバレるのではないかと気が気でなく……。 『ローマの休日』のウィリアム・ワイラー監督作で、『アラビアのロレンス』のピーター・オトゥールと共演。オードリーの衣装はもちろんジバンシィが手がけ、劇中に登場する宝石はカルティエが担当しました。全身レースのドレスとアイマスクのミステリアスな姿も印象的!

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11.『いつも2人で』(1967年)

後期オードリー・ヘップバーンの最高傑作という評価も

『いつも2人で』アルバート・フィニー、オードリー・ヘプバーン
© Twentieth Century Fox Film Corporation/Photofest/zetaimage

『いつも2人で』は1組の夫婦の12年間の軌跡を6つの時間軸を交錯させて描いた、オードリー後期の傑作として名高いヒューマンドラマ。結婚の困難な一面を描き、これまで恋の喜びを演じてきたオードリーが、成熟した大人のドラマを見せました。 『パリの恋人』と『シャレード』に続く、スタンリー・ドーネン監督との3作目。1954年から1966年までを舞台としたロードムービーで、オードリーの髪型と乗っている車で時代を反映しています。

12.『暗くなるまで待って』(1967年)

オードリー・ヘップバーンが本格的に活動していた時期の最後の作品

『暗くなるまで待って』リチャード・クレンナ、オードリー・ヘプバーン
© Warner Bros./Photofest/zetaimage

『暗くなるまで待って』は舞台劇を映画化したサスペンス・スリラーで、1967年に公開。 写真家のサムはある日、見知らぬ女から人形を受け取ります。しかしその人形の中にはヘロインが隠されており、ヘロインを狙う犯罪グループの首謀者ロートに狙われてサムの妻スージーが巻き込まれてしまうのでした。 オードリーはこの作品で盲目の女性スージーを演じました。撮影前には点字を覚えたり、視覚障害者の施設で数週間の訓練を受けたといいます。

伝記映画『オードリー・ヘプバーン』が公開!愛と孤独に悩んだ裏の顔

オードリーがこの世を去って早30年近く。2022年5月6日には、彼女の人生とその実像に迫るドキュメンタリー映画『オードリー・ヘプバーン』が公開されました。世界中から愛される女優が、私生活では愛を得られず、後半生は愛を与える人生を歩んだ様が記録されています。

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世界中から愛されても孤独だった

オードリーがまだ幼かった1930年代、両親がイギリス・ファシスト連合に参加。父ジョセフはナチズムの過激な信奉者となり、家庭を捨てて出て行ったといいます。 母エラの故郷であるオランダ・アーネムへ移り住んだオードリーは、ドイツ占領下のオランダという過酷な環境の中で育ち、飢えをしのぎながら生き延びました。 そんな幼少期を過ごしたオードリーは、父の裏切りと戦争体験という過去のトラウマと生涯向き合うことに。愛に飢えていた彼女は、私生活で何度も離婚を繰り返し、幾度も愛に裏切られてきたのです。

愛を与える道を選んだこと

2度の結婚を経てオードリーは、愛を受ける側から与える側の人間への変わっていきます。後半生をかけて続けたユニセフの活動では、世界中の子どもたちのために自分の名声と生涯を捧げました。 自ら行動し幸せを多くの人に届けることで、過去のトラウマや孤独を乗り越え、自らも真の幸せを掴んだオードリー。そんな彼女の生き様は今も多くの女性に勇気を与え、信念を持って生きる女性のロールモデルであり続けています。

オードリー・ヘップバーン名言集

わたしにとって最高の勝利は、ありのままで生きられるようになったこと、自分と他人の欠点を受け入れられるようになったこと

ありのままでいることほど難しいことはないでしょう。誰もがありのままの自分をさらけ出したいのに着飾ったり演技をしてしまいます。自分と他人の欠点を受け入れられたとき、オードリーの言う最高の勝利を感じられるのかもしれません。

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美しい目が欲しいなら、人の良いところを探しなさい。美しい唇が欲しいなら、優しいことだけを話しなさい。落ち着きが欲しいなら、自分はひとりではないということを胸に、歩きなさい

このセリフを聞いてドキッとした人も多いはず……「目には目を」の美しいバージョンですね。人間誰もが欠点や悪い部分に目や耳が行きがちです。前のセリフもそうでしたが、オードリーの名言には気持ちを前向きにしてくれるパワーを持ったものが多いですね。

愛する力は筋肉と同じで、鍛えなければ衰えるの

2度の結婚と離婚を経験したオードリー。最後の伴侶となったオランダ人俳優のロバート・ウォルダーズとは結婚はせず、最高のパートナーとして人生を共にしたといいます。 愛する力は生まれながらにして備わっているけれど、鍛えなければ筋肉と同じように衰える――愛することを探求し続けたオードリーならではの名言です。

成功は誕生日みたいなもの。待ちに待った誕生日がきても、自分はなにも変わらないでしょ

成功に一喜一憂せず、変わらず日々を誠実に生き続けることこそがオードリーの最大の強さだったのかもしれません。

私を笑わせてくれる人を私は大事にします。正直なところ、私は笑うことが何よりも好きなんだと思う。悩ましいことが沢山あっても笑うことで救われる

世界中を虜にしたオードリーの笑顔。彼女の笑顔がこんなにも魅力的なのは、彼女が人生を本当の意味で楽しく前向きに生きる素晴らしさを私たちに訴えかけてくれていたからかもしれません。

最も可愛い女の子は、幸せな女の子だって信じてる

オードリーは笑うことやキスすること、ピンクの服など自分を幸せな気持ちにしてくれることを大切にしました。いつも幸せそうだったオードリーだからこそ、世界中の人々が惹きつけられたのでしょう。

幸せばかりじゃない オードリーの人生裏話

コンプレックスだらけだった

オードリー・ヘプバーン
©︎Supplied by WENN.com

オードリーといえば、美しくスタイリッシュで、ハリウッド史上最も愛された女優の1人。しかし、彼女は多くのコンプレックスを抱えていたことでも有名です。大きな鼻、大きな足、貧乳、角ばった肩などについてよく不満を漏らしていたそう。 彼女がコンプレックスに思っていた部分や不完全さは欠点ではなく魅力であり、ここまでアイコニックな存在となった大きな要因です。オードリーも途中からは自分なりの魅力に気づいたようですね。

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かつての夢はバレリーナ

『パリの恋人』オードリー・ヘップバーン、フレッド・アステア
© Paramount Pictures/Photofest/Zeta Image

オードリーは5歳の時にバレエのレッスンを始め、バレリーナになることを夢見ていました。1940年代後半、成長したヘプバーンは名門ランベール・バレエスクールに入学。モデルのアルバイトをしながらバレエレッスンを受けます。 バレエの才能はあったものの、身長の高さや身体の弱さがバレリーナとしての成功を妨げ、バレエの世界でトップになることを断念。その後オードリーは女優の道へと進み、『パリの恋人』などでダンスの才能をいかんなく発揮することになります。

少女時代はレジスタンスに協力!?

1939年、当時イギリスに住んでいたオードリーは、第2次世界大戦の勃発をきっかけに母親と共にオランダのアーネムへと移ります。オランダは中立国のままだというかすかな希望を持っていたようです。 しかしすぐにドイツ軍がオランダ侵攻を開始。イギリス人だと分かる名前だと危険な目に遭うため、オードリーは「エダ・ヴァン・ヒームストラ」というオランダ人の偽名を使っていたといわれています。その間オランダのレジスタンスに資金提供をしたり、荷物やメッセージを送る援助をしていたそうです。 食糧が底につくと、チューリップの球根から作った粉でケーキやビスケットを焼いて飢えをしのぐなど、かなり厳しい時を過ごしていました。

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本命じゃなかったオードリー・ヘップバーン

『ティファニーで朝食を』
© Paramount Pictures/zetaimage

世界で最も人気のある女優の1人であるオードリーですが、いくつかの出演作品はファーストチョイスではなかったとか。例えば、『ティファニーで朝食を』の原作者トルーマン・カポーティは、ホリー役にマリリン・モンローを希望していたそう。 今でこそ『ティファニーで朝食を』は代表作とされていますが、原作のホリーとオードリーの演じたホリーはかなり異なるキャラクターになっています。原作を読めば、彼女がファーストチョイスではなかった理由が簡単に想像できるはず。 また『ローマの休日』のアン王女役も、オードリーではなくエリザベス・テイラーがファーストチョイスだったといわれています。

『マイ・フェア・レディ』の歌声はヘプバーンのものではない

マイ・フェア・レディ
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オードリーはあまり歌が得意な方ではなかったため、歌は吹き替えで行うことがよく検討されていたそうです。 『ティファニーで朝食を』の中に、ホリーが「ムーン・リバー」を唄う場面がありますが、その時はオードリー自身の歌声が採用されています。監督のブレーク・エドワーズが、少しずれた彼女の歌声がホリーには合っていると判断したためだとか。 一方、『マイ・フェア・レディ』の歌声はオードリーのものではなく、マーニー・ニクソンが歌の吹き替えをしていました。オードリーは撮影のために歌をレッスンを積み、自分の歌声が採用されるものと信じていたため、吹き替えを知ったときは激怒したそう。後に、もしも吹き替えのことを知っていたら『マイ・フェア・レディ』には出演していなかったとも語っています。

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ユニセフを38年支援し続けた

悲惨な戦争体験をしていたこともあり、オードリーは積極的にチャリティ活動を行いました。1954年ユニセフへの支援を開始したオードリーは、自らの目で発展途上国の現状を知るために様々な国へ足を運んでいます。そこで目の当たりにした、劣悪な環境や悲惨な状況に大変ショックを受けたとか。 1988年にユニセフの親善大使に任命されることになりますが、亡くなる1993年までその任が解かれることはありませんでした。

映画の中だけじゃない!永遠に憧れの女性オードリー・ヘップバーン

スター女優としてハリウッド黄金期に活躍し、映画史にもその名を刻んだオードリー・ヘップバーン。いまだ偉大な映画スターとして燦然と輝くアイコンではありますが、彼女の偉業は女優業だけではなく、人生をかけて“愛を与え続けた”その生き様にあります。 オードリー・ヘップバーンは、これからも信念を持って活動する女性のロールモデルとして、永遠に生き続けるでしょう。