2017年7月6日更新

「マッサン」のモデルになった竹鶴政孝の熱くて数奇な人生まとめ

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マッサン

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幼少期〜スコットランド

幼少時代

酒造業・製塩業を営む竹鶴家の四男五女の三男として生を受ける。ちなみに竹鶴家は広島県賀茂郡竹原町(現・竹原市)の大地主だったことから、「おぼっちゃん」として育てられた。中学時代の同級生に、のちに総理大臣となる池田勇人氏がいて、お互い年を取るまで交流が続いたという。

「怪我の功名」

好奇心が強く、わんぱくだった彼は生傷が絶えなかったそう。しかし8才の時、階段をころげ落ちて鼻を大怪我。大きな鼻がさらに大きくなり、人が感じない匂いを感じ取れるようになったそう。その後ウィスキーづくりに役立つことになったのでまさに怪我の功名ですね。

運命の出会い

その後、進学して大阪高等工業学校(現在の大阪大学)の醸造学科にて学ぶ。ここまでは実家の酒造を営むつもりだったのかもしれません。しかしそこで運命の出会いが。そう「ウイスキー」との出会いでした。

そしてスコットランドへ

当時の日本では珍しかったウイスキーなどの洋酒に興味を持った政孝は、異例とも言える卒業を待たずにして当時洋酒業界の雄であった大阪市の摂津酒造 (摂津酒精醸造所) に入社を決めてしまう。後日談として、両親は実家を継いでもらえるとばかり思っていたようで相当ガッカリしたそう。 摂津酒造は純国産のウイスキー造りを始めることを計画。そこで評判の「赤玉ポートワイン」を製造した政孝にスコットランド留学をして本場のウイスキーを学んでくるよう命が下り、スコットランドへ。

スコットランドで当時では異例の国際結婚

リタとの結婚

スコットランド・グラスゴー大学にて学んでいた政考に、ウイスキーに次ぐ運命の出会いが。大学で友人に頼まれ柔道を教えていたところ、教えていた学生の姉であるジェシー・ロバータ・カウン(通称リタ)と恋仲となり、結婚することを決意。

プロポーズ

プロポーズの際、政考はスコットランドに留まることも考えていたそうですが、その旨をリタに伝えると、「マサタカさんは大きな夢に生きていらっしゃる。私はあなたの夢を共に生き、お手伝いしたいのです」と彼女は答えた、という素敵なエピソードも。

周囲の反対

しかし、当時ではまだまだ異例中の異例だった日本人とスコットランド人の結婚に、リタの両親含め周囲が猛反対。それでも周囲を押し切って結婚した二人は、教会などで家族等に祝福されて盛大に祝われるようなものではなく、登記所で2名の証人と登記官の前で宣誓するだけの寂しい結婚式だったとのこと。その後、ウイスキー留学を終え、帰国する際にリタも連れていくことに。

英国副首相も賛辞

もちろん留学中恋愛にうつつを抜かしていたわけではありません。1962年英国の副首相・ヒュームが来日した際のスピーチでは政考についてこんなことを行っています。 「50年前、ひとりの頭の良い日本青年がやってきて、一本の万年筆とノートで英国のドル箱であるウイスキーづくりの秘密を盗んでいった」

日本帰国〜山崎工場工場長に

一時期、教師に。

ここまでは順風満帆な人生でしたが、当時の日本はまさに第一次世界大戦後の戦後恐慌中。摂津酒造も資金繰りが悪化し、ウイスキー製造という新規事業を断念。そのため、政考は摂津酒造を退職し、桃山中学(現:桃山学院高等学校)にて化学の先生となり教鞭を取って生活費を稼いでいました。

寿屋の工場長に抜擢。

ワイン販売などで業績を上げていた寿屋(現サントリー)が本格ウイスキーの国内製造を企画する。創業者で社長である鳥井信治郎がスコットランドからウイスキーのプロフェッショナルを招聘しようと試みたところ、「わざわざ呼び寄せなくても、日本には竹鶴という適任者がいるはずだ」という回答を受け、政考は寿屋のウイスキー製造工場(山崎工場)の初代工場長となる。ちなみに山崎工場の設計から政考は関わったと言われています。

ウイスキーを極めるために北海道へ

工場長になってから10年後、よりウイスキー作りに合った風土で製造したいと言う想い、後進が育ってきたこと、元々の10年と言う約束は果たしたことを理由に、寿屋を退職。北海道余市町でウイスキー製造を開始することを決意し、北海道へ飛び立つ。

北海道〜日本ウイスキーの父となる

まずはりんごジュースから

スコットランドに風土が似ている北海道余市にてウイスキー作りをすることになった政考だが、ウイスキーはすぐに製造できない点と、資金集めの為、地元余市産のリンゴを使ってリンゴジュースを販売する大日本果汁株式会社を設立し、代表取締役専務に就任へ。ちなみにこのリンゴジュースが日本初の100%リンゴジュースと言われているそう。

「ニッカ」の由来は?

北海道に渡ってから約6年。余市での最初のウイスキーを製造し、名前は大日本果汁株式会社の「日」「果」をとり、「ニッカウヰスキー」と命名。その後、商品名から社名となりました。

日本ウイスキーの父

朝日麦酒(株)(現アサヒビール)の手助けもあり、より本格的ウイスキーであるブラックニッカを誕生させます。なお、現在ニッカウヰスキーはアサヒビールの100%子会社。 1969年、勲三等瑞宝章を受章するなど世間的評価も受けながら、生涯ウイスキー一筋で、常に上質な品質を追求し続けたその姿は「日本ウイスキーの父」。今も、その精神は会社に生き残っていて、世界中から評価の高いウイスキーを作り続けています。