三國連太郎の生い立ちとプロフィール
三國連太郎は1923年1月20日、群馬県太田市で生まれました。本名は佐藤政雄です。
母親は広島県呉市で女中奉公していた最中に三國を身ごもり、帰郷の途中に出会った父と結婚しました。つまり、父親は育ての親ということになります。群馬県太田市で生まれてすぐ、父親の故郷である静岡県西伊豆に移り、中学までそこで過ごしました。
その後、密航して中国の青島や韓国の釜山などを放浪し、帰国後、大阪で様々な職を転々としていた頃に徴兵されます。中国の前線に送られ、過酷な戦場をなんとか生き延びました。
終戦を迎えると、早期の復員のために偽装結婚。妻の実家のある宮﨑市で2年間を過ごしたあと、懐妊していた妻と離婚して鳥取へ。そこで出会った別の女性と再婚しました。1950年には一人上京し、闇商売をしていたといいます。
三國連太郎の俳優デビューのきっかけは?
1950年12月東銀座を歩いていたとき、松竹のプロデューサーだった小出孝にスカウトされます。三國は身長が181cmあり、大正生まれの日本人としては大変な長身の持ち主ですから目立っていたことは確かですが、過去に知人の一人が松竹に推薦写真を送っていたという事実もありました。
その後松竹大船撮影所に演技研究生として入所し、翌1951年には木下恵介監督の映画『善魔』に、岡田英次の代役に抜擢。映画デビューを果たしました。芸名となった「三國連太郎」はその時の役名です。本作で第2回ブルーリボン新人賞を受賞しています。
息子・佐藤浩市との関係は?
1952年に2度目の離婚をし、翌年には3度目の結婚をします。この女性との間に生まれたのが、実力派俳優として活躍している佐藤浩市です。
幼い頃に三國は家を出ており、その後まもなく離婚し別の女性と4度目の再婚をしていることから、二人の間には長らく確執があったと言われています。
役者として二人の親子共演は?
1986年、映画『人間の約束』でわずかワンシーンのみの初共演が実現しましたが、不仲は未解消のままだったようです。それは、10年後の1996年公開の映画『美味しんぼ』で、ついに親子の設定で共演した際も変わることはありませんでした。
2000年代に入ってようやく距離は縮まり、2008年にはANAのCMの中で仲睦まじい親子共演が実現しています。
故・太地喜和子との大恋愛は有名
4度の結婚以外にも、数々の女性遍歴はよく知られていますが、中でも有名なのが女優の太地喜和子との関係です。
19歳の時に、41歳の太地と出逢ってすぐに大恋愛に発展し、同棲にまで至りましたが、3カ月で破局したと言います。太地は、映画『飢餓海峡』撮影中の三國を追いかけるため、一時、俳優座を辞めたこともありました。
太地喜和子自身、亡くなるまで数々の男性と浮名を流しましたが、真に愛したのは三國連太郎だけだったと発言しています。
数々の傑作映画に出演した三國連太郎!
『切腹』【1962】
小林正樹監督が、武家社会の矛盾と欺瞞に鋭く切り込んだ本作は、第16回カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞するなど国内外で高く評価され、時代劇映画の傑作として知られています。
主人公の侍・津雲半四郎に扮したのは仲代達矢。三國連太郎は、井伊家の家老である斎藤勘解由を演じ、若くして圧巻の演技をみせています。
2011年には、市川海老蔵を主演に迎え、『一命』の名でリメイクされました。
『飢餓海峡』【1965】
原作は、水上勉の推理小説。青函連絡船の沈没事故とそれにまぎれた殺人事件の犯人にまつわる、一人の遊女と一人の男の哀しい10年間を描きます。監督は内田吐夢がつとめ、日本映画史に燦然と輝く傑作として必ず名前のあがる作品です。
三國連太郎は犯人の犬飼を演じ、遊女の八重には左幸子が扮しました。また事件を追い続けるベテラン刑事役で伴淳三郎が出演しています。大ヒットした本映画化の後、何度もテレビドラマ化されています。
『利休』【1989】
野上彌生子の小説『秀吉と利休』を原作とし、勅使河原宏が監督を務めた本作で、三國連太郎は主人公の千利休を演じました。山崎努、三田佳子、松本幸四郎、中村吉右衛門、岸田今日子ら錚々たる顔ぶれがキャストに抜擢され、利休をめぐる物語を彩ります。
その芸術性は国内外で高く評価され、モントリオール世界映画祭では最優秀芸術貢献賞、ベルリン映画祭フォーラム連盟賞などを受賞、三國はブルーリボン賞やキネマ旬報で主演男優賞を受賞しています。
『大病人』【1993】
大病院を舞台に、医師や看護師、患者ら様々な関係者の巻き起こす騒動をコミカルに描いた、伊丹十三監督の傑作のひとつです。三國連太郎は、ガンで余命宣告された映画監督の向井武平を演じ、日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞を受賞しています。
津川雅彦や宮本信子ら、伊丹作品の常連俳優ももちろん出演しています。
『釣りバカ日誌』は国民的人気シリーズに
1988年に始まり、2009年まで全22作が公開された『釣りバカ日誌』は、国民的大ヒットシリーズとなりました。
西田敏行扮する釣り好きサラリーマン・浜崎伝助と、三國連太郎演じるスーさんことゼネコン会社の鈴木一之助社長は名コンビとなり、二人の絶妙な掛け合いがシリーズの人気を支えました。本シリーズで、第33回日本アカデミー賞会長功労賞を受賞しています。
初監督作『親鸞 白い道』でカンヌ国際映画祭審査員賞
鎌倉時代に生きた一人の僧侶・親鸞の波乱の半生を描いた作品で、企画・監督・原作・脚本のすべてを三國連太郎がつとめました。親鸞には森山潤久が扮し、大楠道代、泉谷しげるらが共演しています。
本作は、カンヌ国際映画祭で栄えある審査員賞を受賞しました。三國は、1972年に一度自主製作で監督業に挑戦していますが、本作が実質的な初監督作品にあたり、見事な快挙でした。
三國連太郎の遺作となった映画『わが母の記』
2012年に公開された原田眞人監督による『わが母の記』が、三國連太郎にとって最後の出演映画になりました。作品は、モントリオール世界映画祭において審査員特別グランプリを受賞しています。
原作は井上靖の自伝的小説。10年間にわたる親子の愛を切々と描く物語で、作家である主人公を役所広司、その母を樹木希林が演じたほか、宮崎あおいら豪華キャストが脇を添えています。三國連太郎は主人公の父を演じました。
公開翌年に惜しまれつつ他界
2012年にはすでに入院、病気療養が伝えられていましたが、2013年4月14日、東京都稲城市にある病院で急性呼吸不全により他界しました。享年90歳でした。葬儀では、長年の確執を乗り越えた息子の佐藤浩市が喪主をつとめました。