2017年9月5日更新

デレク・ジャーマン、厳しさや官能が押し寄せてくる極北の映像作家を紹介

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カラバッジオ

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デレク・ジャーマンのプロフィール

デレク・ジャーマン
デレク・ジャーマンは、1942年1月31日生まれ、イギリス・ミドルセックス州出身。映像作家(映画監督)のほか、舞台デザイナーや作家、園芸家として多彩な才能を発揮した芸術家です。 ロンドン大学キングス・カレッジで美術などを学び、1960年代半ばから画家として活動していました。その後、衣装デザインにも進出し、ケン・ラッセル監督のもとで美術監督などを担当。この頃から演出にも興味を抱き、76年の『セバスチャン』で、長編映画監督デビューを果たします。また80年代以降は、ロックバンドのミュージッククリップの演出でも活躍しました。当時、まだ無名のアーティストを映画音楽に起用し、新たな才能を発掘した人物でもあります。 映画監督としての代表作は、『テンペスト』や『エドワードⅡ』、『BLUE ブルー』など。生前にゲイであることを公表し、1986年にHIVの感染が判明、94年にAIDS合併症で他界(満52歳)しました。

トランスジェンダーなどのLGBTを扱った作風

『セバスチャン』
ゲイ活動家でもあり、死の直前まで『最低同意年齢(同意上の同性間性交渉を合法とする年齢)』の訴訟にも関わっていたデレク・ジャーマン。発表した作品のほとんどは、性的マイノリティであるトランスジェンダーなどのLGBT、その中でも自らと同じゲイを題材に描かれました。 古代ローマ帝国の聖セバスティアヌスが同性愛に耽溺する姿を描いた『セバスチャン』では、全てのセリフがラテン語で交わされました。
『エドワードⅡ』
赤裸々な官能シーンとともに、イングランド国王・エドワード2世の同性愛を描いた『エドワードⅡ』。 荒廃した近未来イメージや官能性豊かな作品は、ゲイ表現の論争を巻き起こしたことも。そこには、国や法、ゲイ差別にHIVウィルスなど、常に何かと戦い続けたジャーマンの内面が現れていると言われています。 時に過激で攻撃的な表現は、それでも彼が愛したものたちへの愛、優しさに満ちています。そして、独特のビデオ編集処理で生み出された映画は、アート・フィルムとも呼ぶべき美しさを湛えています。

日本初紹介作品は『エンジェリック・カンヴァセーション』【1987年日本公開】

日本初紹介作品は、映像と音楽によるイメージ・フィルム『エンジェリック・カンヴァセーション』です。 映像の美しさはもちろんのこと、8ミリで撮影したものをビデオ、35ミリへと転換した荒いモノクロ映像が、デレク・ジャーマン独特の世界観を演出。シェイクスピアの『ソネット』の朗読とともに、愛し合うゲイの男性2人、冒頭の廃墟の窓辺から、岩場・洞窟・泉の風景などが次々と映し出されました。
『エンジェリック・カンヴァセーション』
ジャーマンの自己投影、同性愛を扱った作風が色濃く反映され、その本質がダイレクトに伝わってきます。他の作品と比較しても、本作ほど映像が明るいものはあまりなく、同性愛賛歌ともいえる作品です。

代表作は実在の画家の生涯を描いた『カラバヴァッジオ』【1987年日本公開】

代表作の『カラヴァッジオ』は、イタリア・ルネッサンスの異端の画家、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオの生涯を、デレク・ジャーマンの創作で映画化した作品です。
『カラヴァッジオ』
© Courtesy of Zeitgeist Films
カラヴァッジオの絵画を中心に置き、時に車やタイプライターなど現代の物を織り交ぜつつ、同性愛や殺人を犯した画家として有名な彼の一生を綴った作品。多くの実在の人物の生涯を映画化し、「耽美的」「変質的」と形容されることの多いケン・ラッセル監督の作風を連想させるとも言われています。 本作でも、ジャーマン監督らしい独特の手法が見られ、透明な映像と光と影の使い方が鮮烈です。

オスカー女優ティルダ・スィントンとの関係

ティルダ・スウィントン『カラヴァッジオ』
© Courtesy of Zeitgeist Films
イギリス人女優ティルダ・スウィントンは、1980年代にデレク・ジャーマンと知り合い、彼の代表作でもある『カラヴァッジオ』でデビューを果たしました。 デビュー以来、ジャーマン監督のミューズとして『ザ・ガーデン』など計7作に出演し、1992年公開の『エドワードⅡ』ではヴェネツィア国際映画祭・女優賞を受賞しています。
『The Garden』
ジャーマンの没後も着実にキャリアを重ね、1999年にはハリウッドに進出。『ナルニア国物語』シリーズなどの話題作に多数出演しています。2007年公開の『フェイクサー』ではアカデミー助演女優賞を受賞し、今やオスカー女優のティルダですが、故ジャーマンのことは生涯の師と仰いでいるそうです。 2011年に、3度目の来日を果たした際のインタビューでは、
「いつだってデレクはわたしと共にあると思っているし、彼から教わったすべてが今のわたしの経験に役立っていて、本当に感謝しているわ。彼は今もわたしにとってとても大きな存在なの」
とコメントし、過去の存在として懐かしむ対象ではなく、「今も共に生きている」と語りました。

遺作となった『BLUE ブルー』は”青”一色の異色作【1994年日本公開】

『BLUEブルー』
デレク・ジャーマンの遺作『BLUE ブルー』は、タイトル通り約70分に渡って一面の”青”が映され、そこに音楽とジャーマン自身の朗読を添えた異色作です。 最後の作品に”青”を選んだのは、フランスの画家イヴ・クラインへのオマージュとされています。クラインは、青を、宇宙の神秘のエネルギーに繋がるものとして頻繁に使用。自らの理想である「インターナショナル・クライン・ブルー」を生み出し、特許も取得した人物です。 青一色の映像と音楽が淡々と流れる中で、AIDSによる死期を悟ったジャーマンが語る失明の恐怖や思索、これまでの人生に対する悲痛な言葉の数々。ナレーションを読んでいるその時も、刻一刻と死に向かっていた彼に思いを馳せると、様々な感情が浮かんでくることでしょう。

デレク・ジャーマンが遺した名著『Derek Jarman's Garden』

Derek Jarman’s Garden
デレク・ジャーマンは、自叙伝的な『ダンシング・レッジ』など数冊の本を執筆しており、中でも『Derek Jarman's Garden』は死生観に影響を与える名著とされています。 HIV感染が発覚した1986年、ドーバー海峡に面した村である”ダンジェネス”に移住し、買い取った漁師小屋を改修し残り少ない生涯を過ごしました。1991年からこの世を去る1994年まで、ジャーマンが庭を造る姿を友人写真家が撮影した写真に、本人による感情豊かな文章と詩を添えた作品です。 彼の庭にあるのは、海岸の貝殻や流木、鉄くずのオブジェと遠くに見える原子力発電所など。どこか別の世界のように感じられるその場所で、人生の終わりに何を感じて、何を思っていたのでしょうか。