2018年11月20日更新

【小野寺系】『ワンダーウーマン』最終論考 - 女性ヒーローはDCの救世主となった

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DC映画の救世主、その名はワンダーウーマン

DCコミックスのヒーローたちが映画の中でクロスオーバーする世界「DCエクステンデッド・ユニバース」。おそらくはマーベル・コミックによる同様の企画の商業的な成功を受けて、『マン・オブ・スティール』からスタートしたこのDC実写映画大作シリーズは、マーベル映画に比べると全体的にダークな世界観が影響し過ぎているためか、いまいちファンの評価を得られていない状況にあった。 そんななか本作『ワンダーウーマン』は、150億円の製作費で、アメリカ国内だけで400億円以上を稼ぎ出し、250億円という巨費を投じた『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』と同規模の興行収入を稼ぎ出すという快挙を達成。さらに女性監督による史上最高のヒット作という称号も獲得し、さらに単独ヒーロー映画として、マーベルの『アイアンマン』や『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』をも凌駕するなど、アメコミ映画全体として無視できない一作となった。 ここではそんな『ワンダーウーマン』の魅力や、作品にまつわる問題をたっぷりと伝えていきたい。

まさに“ワンダー・ウーマン”なガル・ガドットの魅力

まず、なんといっても素晴らしいのが、ヒーロー“ワンダーウーマン”を演じた、ガル・ガドットの魅力だろう。『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』において、彼女が演じるワンダーウーマンはすでに登場しており、その重苦しい雰囲気に変化を与えていたことは記憶に新しい。

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ガル・ガドットに宿る複数のイメージ

ワンダーウーマンを主役として躍動させる本作は、初登場時とは別人かと思うほど圧倒的に魅力が増しているように見える。女神のような美しさと、王女のような気品、戦士のようなたくましさに加えて親しみの持てる可愛らしさなど、ガル・ガドットという一人の俳優に備わっているもともとの魅力が、ワンダーウーマンというキャラクターを演じることによっていくつも花開いたのである。 本作では、第一次世界大戦の時代の戦闘が激化するヨーロッパを舞台にしており、ワンダーウーマンが率いるイギリスなどの軍人たちのチームがドイツ軍の兵士と戦闘を繰り広げる様子が描かれるが、男たちを次々に倒していくガドットの身のこなしが見事だ。 彼女の健康的で堂々とした美しい体躯から繰り出される技にも、多くの観客が心奪われたのだ。

社会の歪みを暴き出す女性ヒーロー映画

新しい解釈のワンダーウーマン

ワンダーウーマンの映像化作品といえば、1975年からのアメリカのTVドラマが挙げられるだろう。スーパーマンが新聞記者クラーク・ケントとして生活するときの変装のように、姿を目立たなくする秘書風の黒縁メガネルックは本作でも踏襲されており、その姿で盾と剣を装備してしまう格好がおちゃめだ。 しかし一方ではヒーローとしてのコスチュームは現代的に手直しされ、男性への性的なアピールとも受け取られかねない肌を見せ過ぎるセクシーな要素は、その名残が見えつつも現代風にかなり整理されている。 それもそのはずで、パティ・ジェンキンス監督は本作を現代の女性ヒーロー映画として描いているのだ。あらゆる言語に精通するきわめて優秀な彼女を、「女であるから」という理由でイギリスの軍部のトップが露骨に会議から追い出そうとする場面があるように、当時の差別意識というのはいまも根本的な部分で残っているということは言うまでもないだろう。

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社会に毒されていないダイアナ

ワンダーウーマンこと「ダイアナ」は、ギリシア神話にも記されている、女だけの「アマゾン族」が暮らす神秘的な島で姫であり戦士として育ったため、男女の社会における差別意識というものを最初から意識していない。そのような因習に対してある意味で現代より新しい感覚を持って外の立場から正当な疑問をぶつけ、本作の全ての男たちと堂々と渡り合う。 女は戦わず庇護してもらう存在だということ。女は夫や恋人または雇用主のために着飾ったり献身しなければならない……。本作で男性の秘書を務める女性が「上司の世話を何でも私がしています」と言うと、ダイアナはこともなげに「それって、私の島では奴隷って言うのよ」と言い放つ。男性のみならず、ときに女性までも知らずに納得してしまいがちな社会の欺瞞をダイアナは指摘し、ただそこに彼女が存在するだけで理不尽な社会を暴き出すことにつながるのだ。

ワンダーウーマンのアクションはなぜこうも感動的なのか

ガドット演じるワンダーウーマンの魅力や女性映画としての推進力が最高潮に達したのが、ドイツ軍に支配された村を救うために、戦場における恐怖の無人地帯「ノー・マンズ・ランド」を突き進むという描写だ。この地帯は両軍が弾を避けるために掘った塹壕の間に位置し、お互いの狙撃手が睨みをきかせているため、足を踏み入れれば即座に射撃される。 ワンダーウーマンは両手首に装着した腕輪でライフルの弾をはじき、盾での防御によって激しい機銃掃射を耐え抜く。本作の予告編でもその様子は映し出されていたが、その姿は何故か涙を誘う感動的なものになっている。映画において、女性の登場人物がものすごいパワーで、ここまでの激烈な攻撃を耐えながら前進していくという描写が珍しいというのは確かだ。しかしなぜ、この防御と前進がこれほどまで感動的なものに見えるのだろうか。 それは、この構図やアクションがあたかも社会における“女性の闘い”を象徴的に描いているからであろう。ワンダーウーマンが激しい攻撃に耐え抜く姿は、女性の奮闘や信念を具現化したものなのである。監督によると、一部を除きほぼ実写で撮られているというこの迫真的な映像表現は、芸術的な境地にまでたどり着いているといっていいだろう。

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女性の尊厳を守る“絶対防御”の構え

原作コミックの初回でも、ワンダーウーマンは篭手状のブレスレットで銃弾をはじく描写があり、また腕をクロスさせる姿勢がアイコンとしてコミックの読者やTVドラマの視聴者に認知されていた。このように、直接的な攻撃よりも全身全霊で攻撃を跳ね返す姿というのは、ヒーローとしての彼女の特徴であろう。もちろん本作でもそれは強調されている。

ヒラリー・クリントンの後悔

政治家ヒラリー・クリントンは、大統領選当時、トランプとのTV討論会の放送中に、ステージの上でトランプがぴったりと体を寄せて、首に息を吹きかけてくるというハラスメントを受けたと、回顧録に記している。そのときヒラリーは、何事もなかったかのように振舞って討論会を進めるか、毅然と拒否の態度を示すかについて迷い、結局はトランプの行動を無視することを選択した。だが彼女は、「その選択は間違っていたかもしれない」と今では思っているという。 クリントン氏に限らず、このように不当に尊厳を傷つけようとする行為に対して、「自分さえちょっと我慢すれば終わること」と、大ごとになることを恐れて咄嗟に引いた対応をとってしまう事態は、日常生活の中では当たり前に横行してしまっている。しかしヒラリーがそうであるように、時間が経って、そのときに受けた心の傷が予想以上に深いことに気づき、以後ずっと苦しめられることになる場合もある。 ワンダーウーマンは敵からの攻撃を受け止め、跳ね返すというモーションを見せる。それは自分を傷つけようとする相手に正々堂々と対峙し、「お前の行為には絶対に屈しない」という意志表示である。そこにすがすがしさと感動を覚えるのだ。だからワンダーウーマンは、歴史的にそのような忍耐を経験してきた“女性”にとってのヒーローになり得るのだ。

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『ワンダーウーマン』はフェミニズム映画なのか

ジェームズ・キャメロン監督の批判

そのようなメッセージがありながら、『ターミネーター』や『エイリアン2』などで“強い女性”主人公を描いてきたジェームズ・キャメロン監督は、本作を進歩的な映画ではないと批判している。彼は取材の中で、女性的な魅力を強調せず、内面の問題を前面に顕在化させた(リプリーのような)女性像と、従来のハリウッド映画が欲したような健康的でステレオタイプなセクシーさを持つワンダーウーマンを比較し、「後退している」と発言した。 その批判に対しパティ・ジェンキンス監督は、「主人公がいつでもタフで、問題を抱えていなければ女性の象徴になれないというのは進歩的ではない」と反論した。

パティ・ジェンキンス監督のフェミニズム

これまで映画の大きな魅力となっていた“異性愛”としてのロマンス描写。『マッドマックス 怒りのデス・ロード』や『ズートピア』のような進歩的な映画では、それが“友情”に置き換わって表現されている。たしかに、ハンサムでドリーミーな人気俳優クリス・パインとのロマンティックなシーンがある『ワンダーウーマン』は、そのような作品と比較すると、いままでのハリウッド映画の定型に沿っているといえる。 しかし、同時にそのようなロマンスが果たして女性の尊厳や自立にとって障害になるのか?、そのような男女の構造をはじめから意識しないで心のままに振る舞う方が、じつは新しいんじゃないのか?、というのがジェンキンス監督の言い分であろう。 女性を虐げる男性優位社会のシステムを団結し破壊しようという一部のフェミニズムの考え方に対して、必ずしも対立関係を作らず個人の意志を尊重しようという、「リベラル・フェミニズム」という分類があるが、このタイプのフェミニズムが『ワンダーウーマン』の思想に近いのではないだろうか。ある種の急進的な層からは本作は物足りないのかもしれない。しかし、社会を変革していこうとするフェミニズムのひとつの思想が、本作の根底に流れているということは確かだ。 パティ・ジェンキンス監督は当初、ガル・ガドットを主演にしようとは考えていなかったが、後になって「彼女こそ完璧だ」と思い直したという。それはおそらく監督のなかでも、「強い女」よりも、「自然体な女」の方がワンダーウーマンにふさわしいという思考の転換が起きたからではないだろうか。

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主演俳優ガル・ガドットに向けられる非難?

一方で、主演俳優ガル・ガドットには、ひとつの問題が持ち上がっている。イスラエルで従軍経験がある彼女は、SNS上でイスラエル軍がパレスチナのガザ地区で戦闘を行ったことに対して、支持を表明するメッセージを公開しているのだ。 報道されている通り、ガザ地区ではこの攻撃によって子どもを含めた多くの市民が死亡・負傷している。このことで本作は、レバノン、チュニジア、カタールなど複数の国で上映が禁止される動きが生まれた。 もちろん、主演俳優の主義主張と映画の内容はイコールではないが、大量殺戮の犠牲になる村を救おうと奮闘するヒーローを、市民を攻撃したイスラエル軍を支持するガドットが演じ、喝采を浴びるということには、多少なりとも違和感を持つ観客が出てきても仕方がないように思われる。

“軍神アレス”と「ドクター・ポイズン」

女性だけの島で育ったダイアナと、クリス・パイン演じる軍人、スティーブ・トレバー。原作コミックで二人は第二次大戦の時代に出会うことになっているが、映画ではそれが第一次大戦に変更されている。 それはおそらく、“軍神アレス”という悪役に象徴された、近代兵器を使用した大量殺戮という人類の罪を描くのであれば、人類史上最初の世界大戦から描いた方が良いという判断であろう。 そんな本作で登場する兵器というのが、劇中でも描かれていたように、実際にドイツ軍がベルギーの村で使用したという「マスタードガス」である。これを開発したのは、「毒ガスの父」という異名を持つ、フリッツ・ハーバーという研究者だ。彼はユダヤ教からキリスト教に改宗したドイツ人である。 本作ではその存在が「ドクター・ポイズン」という、原作コミックの初期から登場し、飲料水に毒を混ぜていた女性の悪役に置き換えられている。

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本当の“悪”とは何か

ガスの研究によって、自身も顔面の一部が溶け落ちてしまっているドクター・ポイズンは、「毒ガスの父」同様に、現在の目から見て紛れもなく戦争犯罪者であろう。そんな彼女に対し、ワンダーウーマンは怒りと同時に、哀れみの目を向ける。

ハンナ・アーレントの提唱した悪

ここで思い出すのは、ドイツ系ユダヤ人の哲学者ハンナ・アーレントである。彼女は第二次大戦終結後、大勢のユダヤ人を収容所に送ったアドルフ・アイヒマンという、ナチスに加担した戦争犯罪者の裁判を傍聴した。 そして彼女は、「彼は悪魔ではなく、思考を停止し命令に従っただけの凡庸な人間である」という結論に至り、記事を新聞で発表する。ユダヤ人社会は同胞を虐殺した“悪魔”を擁護したとして、記事を書いたアーレントを非難し、コミュニティーから追放した。ちなみにこの実話は、『ハンナ・アーレント』というタイトルで映画化されている。

ワンダーウーマンがたどり着いた正義

アーレントの主張の真意は、「思考停止こそが虐殺を生む」という点にこそある。戦争犯罪は絶対に許されるものではないが、それを行った民族や人間そのものを“悪魔”だと捉えることは危険である。 それはかつて、ナチスドイツに民族が虐殺された過去を持つイスラエルの軍が、自分たちの正義を信じてガザの市民を攻撃したという事実からも理解できる。ワンダーウーマンがドクター・ポイズンへの怒りを鎮めるという展開は、軍神アレスがささやく“思考停止”への衝動に、ドクター・ポイズンが支配されていることを知ったワンダーウーマンが、自分自身すら“凡庸な悪”に染まりつつあることに気付いたためであろう。 本作は実際の戦争を題材にして、「本物の正義とは、悪とされる存在を一方的に駆逐すればそれでいい、という単純なものではない」ということをアメコミの世界観を使って表現した。言い換えるならば、それは自分の信じる正しさのためにはどんなことも許される、という思考もまた悪であり、それを克服することができる者こそが真のヒーローになれるということ。 そのことが本作『ワンダーウーマン』を、より広い世界に向け開かれた、進歩的なヒーロー映画たらしめていると感じられるのである。

執筆者:小野寺系

小野寺系

映画評論家。多角的な視点から映画作品の本質を読み取り、解りやすく伝えることを目指して、WEB、雑誌などで批評、評論を執筆中。