2018年6月2日更新

映画『焼肉ドラゴン』監督の鄭義信ってどんな人?【日韓両国で絶賛】

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焼肉ドラゴン
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映画『焼肉ドラゴン』原作・監督の鄭義信のプロフィール

鄭義信
©︎ciatr

鄭義信は1957年7月11日生まれ、兵庫県姫路市出身の劇作家、脚本家、演出家です。国籍は韓国で、名前はチョン・ウィシン、日本語で「てい・よしのぶ」と読みます。 同志社大学文学部を中退後、今村昌平監督が創設した横浜放送映画専門学校(現:日本映画学校)美術科を卒業し、松竹で美術助手を務めました。劇団「黒テント」を経て、「新宿梁山泊」の旗揚げに参加し、退団後は映画やテレビ、ラジオの脚本、エッセイなどで活躍中です。 手がけた戯曲は日韓両国で絶賛され、2014年春には紫綬褒章を授与されました。 そして2018年、日韓合同で2008年に公演された戯曲『焼肉ドラゴン』を自ら映画化。監督としてはデビュー作となる本作の公開が決まり、再び注目を浴びています!

在日コリアン三世という生い立ち

鄭義信は「在日コリアン」三世で、祖父母が朝鮮半島から日本へ渡った移民でした。 まだ幼い頃、一家は姫路城の外堀の石垣の上で暮らしていたそうです。その付近は、戦後に在日朝鮮人や貧しい日本人が無許可でバラックを建てて住んだ場所でした。また一時期、両親と離れ兄弟で一人だけ祖母が住む集落で暮らした経験も、人生観に影響を与えたとのこと。 集落は小高い丘にあり、丘から日赤病院の白い壁と火葬場の煙突、刑務所の赤レンガの壁が見える様を、"「生」と「死」と「罪」と「罰」が揃っている"と表現しました。 鄭義信は故郷を「高級石垣朝鮮人集落」と呼び、大人は貧しくてズルかったけれど、自分なりに懸命に生きていた愛すべき人々だと今なら思えると語っています。

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在日コリアンたちのルーツとは

在日コリアンのルーツは、日本が戦前、朝鮮を植民地としていた時代に徴用、徴兵で強制連行された人や新天地を求め移住した人々だと言われています。日本へとやって来た彼らは、「日本名」に改名させられ、激しい差別や偏見に晒されながら暮らしてきました。 時が流れ、文化的な交流や「韓流ブーム」により在日への理解度や両国の関係は変わりつつありますが、今なお根深く残る問題とされています。

劇団「黒テント」に誘われ演劇に転向、劇作家の道へ

松竹で映画の美術助手をしていた頃、劇団「黒テント」に所属する在日コリアンの先輩に誘われ、ワークショップ「赤い教室」に参加しました。 実は高校時代に、姫路市で行われた『阿部定の犬』の公演をひとりで観劇し、ラストで黒テントが外に向かって開く場面に興奮したとのこと。赤い教室の卒業公演後、演出の山元清多に入団の意思を確認され、流されるまま「はい」と返事していたそうです。 入団後すぐの1986年、新人育成企画「タイタニック・プロジェクト」で戯曲を書くことになり、処女作の『愛しのメディア』が完成。先輩に「自分で書いた本だから演出もしろ」と言われ、スタッフも集めなければならず、非常に苦労したと語りました。 鄭義信の作劇の根底にある姫路の原風景、日韓といったテーマは、在日の密航者の女性を描いた処女戯曲から現在まで変わりません。

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劇団「新宿梁山泊」を旗揚げし座付き作家に

1987年には、黒テントの金久美子や「状況劇場」の金守珍らとともに劇団「新宿梁山泊」を旗揚げ、座付き作家になりました。 ここで言う座付き作家とは、劇団の専属となって戯曲を提供する劇作家を指します。在団中は、『千年の孤独』(1988)、『映像都市(チネチッタ)』(1990)や『人魚伝説』(1995)など多くの傑作を発表し、アジア各地で公演が行われました。 この当時は、朝鮮や韓国という具体的な名称を出すのをためらうような社会情勢にあり、劇中ではぼかして表現していたのだとか。後に新宿梁山泊時代の作品を韓国で上演した際、特に『人魚伝説』は300人入れば満員になるテントに何と700~800人もの観客が来てくれて、とても驚いた経験があることも明かしています。 1995年、新宿梁山泊を退団。その後は文学座、オペラシアターこんにゃく座ほかに戯曲を提供し、小劇場からミュージカルまで幅広く手がけてきました。

流山児★事務所の『ザ・寺山』で岸田國士戯曲賞を受賞

劇団「流山児★事務所」の『ザ・寺山』は、伝説として語り継がれる歌人、劇作家の寺山修司没後10年記念公演として1993年に上演されました。 鄭義信は寺山の世界観をベースに、同時進行する2つの異空間・次元の舞台と、"世界の果て"を求める主人公の青年を創造。物語は韓国名の人、身体の一部に障害がある人など、差別され定住できない人々がテントで移動しながら暮らす見世物集団の中で進みます。 イメージ豊かな作品と評され、第38回岸田國士戯曲賞を受賞しました。また、1997年に再演されており、その際は鄭義信自ら演出を担当したそうです。

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初めて映画の脚本を手がけ、出世作になった『月はどっちに出ている』

90年代に入ると、映画の脚本も手がけるようになります。1993年公開の『月はどっちに出ている』では、監督の崔洋一と共同で梁石日の自伝的小説を脚色しました。 在日コリアンのタクシー運転手とフィリピン女性の恋を軸に、東京で生きる在日外国人や様々な人々の姿をシリアスかつ、コミカルに描く悲喜劇。弱者とされがちな在日コリアンをたくましく描いた点が評価され、毎日映画コンクール脚本賞などを受賞しました。 鄭義信は本作のヒットを契機に、映画の中に韓国人・朝鮮人が出てくるのが当たり前になったと評しており、時代の流れも変わりつつありました。 ちなみに、鄭義信は俳優として活動することもあり、作中で大野治役を演じています。

井筒和幸監督の『岸和田少年愚連隊』で関西弁の脚本を担当

1996年に公開された、井筒和幸監督作『岸和田少年愚連隊』。中場利一の自伝的同名小説を、鄭義信と我妻正義の共同脚本で脚色した青春コメディです。 70年代の流行歌とともに、大阪・岸和田で喧嘩に明け暮れる悪ガキコンビと、はみ出し者たちの姿をノスタルジックに描きます。岸和田で大規模ロケが行われ、映画初主演を務めたお笑いコンビ「ナインティナイン」ほか、吉本興業の若手芸人が多数出演しました。 鄭義信は「できるだけ、そこの地域が持っている言葉の強さを大切にしたい」と語ります。そんな彼曰く、関西弁は“たおやかさ”と独特の言葉の強さがあるとのこと。生まれ育ったところの言葉はどちらかというと河内弁に近いため、本作の脚本が書きやすかったそうです。

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映画『愛を乞うひと』で日本アカデミー最優秀脚本賞を受賞

1988年公開の映画『愛を乞うひと』は、下田治美の同名小説を「学校の怪談」シリーズの平山秀幸監督が映画化し、鄭義信が脚本を担当した作品です。 亡き父の遺骨を探し、娘を連れて父の故郷・台湾へ旅立つ女性が「実母からの虐待」という壮絶な過去に向き合う様を通して、母と娘の愛憎を描く人間ドラマ。昭和30年代、まだ日本が貧しい時代の再現度や、ひとり二役に挑んだ原田美枝子が特に高い評価を得ました。 虐待の描写は非常に衝撃的ですが、その凄まじさがラストの静かな感動を際立たせます。 過去と現在を行き来しつつ、親子の絆や愛を問う脚本は、第一回菊島隆三賞、キネマ旬報ベスト・テン脚本賞などを受賞し、日本アカデミー賞では最優秀脚本賞に輝きました。

梁石日の最高傑作を映画化した崔洋一監督作『血と骨』

2004年公開の映画『血と骨』は、『月はどっちに出ている』と同じ梁石日原作、崔洋一監督と鄭義信の共同脚本というタッグで制作されました。 梁石日が父親をモデルに描き、激しい暴力と神話的な色彩を持つストーリーで第11回山本周五郎賞に輝いた小説を、崔洋一監督が構想に6年かけて映画化。金と性欲、支配欲の象徴のような在日コリアンの男と、その家族たちの生き様を描く骨太な人間ドラマです。 戦中、戦後の時代の中で翻弄された人々の壮絶な人生を赤裸々に、かつユーモラスに描いた本作は、コアな映画ファンから強く支持されました。 鄭義信は監督とともに、キネマ旬報ベスト・テン脚本賞を受賞しています。

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「鄭義信 三部作」の『焼肉ドラゴン』を自ら映画化!

2000年代は多くの戯曲を手がけ、新国立劇場に提供した日本の影の戦争後史を描く「鄭義信 三部作」の一つ、『焼肉ドラゴン』が2008年に上演されました。 日韓のコラボ作品で、万博前後の大阪で焼肉屋を営む在日コリアン家族を通して、日韓の現在・過去・未来を描く人間ドラマ。鄭義信は韓国側の強い要望で戯曲の制作を打診され、自身が日韓両国を祖国と確信できない、「棄民」だという自覚を持って臨んだそうです。 そして今回、初演時に毎回スタンディングオベーションが起き、数々の演劇賞に輝いた名作が映画化され、2018年6月22日に公開されます!鄭義信の初監督作となり、一家の三姉妹を真木よう子、井上真央、桜庭ななみが演じ、大泉洋や韓国人俳優が脇を固めました。 芝居も映画も基本的に同じで、書き方に違いはないと語る鄭義信。劇作家に脚本家、演出家、そして映画監督と、様々な顔を持つ彼の今後から目が離せません!