2018年7月21日更新

「漫画の神様」手塚治虫のその功績とは?【ブラックジャック、アトム他】

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生涯を漫画に捧げ、漫画のために生きた漫画の神「手塚治虫」とは

漫画の神と呼ばれる彼のことを、日本の漫画を読む人なら知らない人はいないのではないでしょうか。それほどに偉大であり有名な人物です。 1928年に生まれ、漫画を描き始めてから1989年2月9日にガンで亡くなるまで漫画を描き続けた手塚治虫。漫画をこよなく愛し、漫画に命を捧げたと言っても過言ではないほ漫画というものに情熱を燃やし続けました。 彼の作品は長年に渡って愛されており、近年になってから新たにアニメ化されて脚光を浴びるなどその作品の魅力は衰えることを知りません。今回はそんな漫画界のレジェンドとも言うべき手塚治虫に焦点を当ててみました。

手塚治虫という人物の経歴について

手塚治虫は1928年11月3日、大阪府の豊中市で生まれました。本名は「治」で、明治節に生まれたことにちなんでその名がつけられました。幼少期から漫画を描くことが好きだった手塚は、小学校3年生の時にオリジナルの漫画『ピンピン生チャン』なる作品を完成させていたそうです。 小学校時代はからかわれたこともあったそうですが、漫画が認められると同時に一目置かれる存在になりました。そして、この時期に知り合った同級生の影響でオサムシという名の昆虫の存在を知り「治虫」を名乗るように。 戦時中にも漫画を描き続けた手塚は、新聞の4コマ漫画『マアチャンの日記帳』でデビュー。1946年に同人誌の長編『新寶島』を発表したところ一大赤本ブームとなり、当時医学生だった手塚は、と学業と漫画を両立させる多忙な日々を送ることとなりました。 赤本は大阪で描いていたのですが、その傍らで東京への持ち込みも行っていた手塚。1950年には初の連載漫画『タイガー博士の珍旅行』を手掛け、それに続いて『ジャングル大帝』、『リボンの騎士』などを掲載。 その後、手塚以外にも売れっ子漫画家が登場し苦悩した時期もあったようですが、新しいものを積極的に取り入れ、生涯を通して漫画を描き続けました。

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代表作

手塚の代表作といえば『火の鳥』、『ブラック・ジャック』、『鉄腕アトム』などが非常に有名でしょうか。他にも数多く紹介したいところですが、今回はこの3つに絞ってご紹介していきます。

火の鳥

『火の鳥』はその血を飲めば永遠の命を得られるという不死鳥火の鳥と、火の鳥と関わったことで様々な苦しみや葛藤の中で闘う主人公たちを描いた物語です。 この作品は物語ごとに「〇〇編」と物語が別れており、その舞台は古代から未来、時には宇宙までも舞台になるなど、手塚治虫の独特な世界観が大きなスケールで描かれています。この作品は手塚が漫画家として活動を始めた初期から晩年に至るまで長年描き続けた作品で、彼のライフワークともなっていました。

鉄腕アトム

21世紀を舞台としたSF作品で、原子力をエネルギー源とする少年ロボット「アトム」が活躍する物語です。元々アトムは『アトム大使』という別のマンガの脇役だったのですが、当時の編集長がアトムを主人公にしたらいけるのでは、とアイデアを出したことでこの作品が生まれました。 人の心を持つが故に時にロボットとしての自分に苦悩する、という人間味のあるアトムの姿を描いた本作品。2020年現在、ロボット開発をしている人たちの中にはこの作品に影響を受けた人も多く、日本のロボット技術の革新にも一役買っていると言われています。

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ブラック・ジャック

『ブラック・ジャック』は天才医師を主人公とした漫画ですが、主人公は医師免許を持っていない上に、患者に高額な医療費を請求するという、変わり者の男。 手塚曰く、この漫画は「その患者を幸福にできるのか、という医師としての葛藤を描いた」ものであるとコメントしており、医療漫画であると同時にヒューマンドラマとしての一面も持った作品となっています。 この作品はアニメ化、実写化など日本以外のメディアも含めいろいろな媒体で使われており、医療漫画を開拓したものとして大きな影響を与えています。

手塚治虫の名言その1:「人を信じよ。しかし、その百倍も自らを信じよ」

この名言には少し続きがあり「時によっては、信じきっていた人々に裏切られることもある。そんなとき、自分自身が強い盾であり、味方であることが、絶望を克服できる唯一の道なのだ」と、続いています。手塚は漫画家としてはずっと前線で走り続けてきたイメージがありますが、落ち込み絶望した時期もありました。 漫画家というのはアーティストでもあり表現者でもあります。自らの作品を発信する時、それが非難されることもあれば反対されることもあるでしょう。この言葉はそんな絶望を味わった時こそ、自分を信じることが大切なのだ、という言葉。 これは手塚自身の座右の銘だったとも言われています。自分を信じろ、とはよく聞く言葉ではありますが苦悩を味わった人から聞くと重みを感じますね。

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手塚治虫の名言その2:「ダメな子」とか、 「わるい子」なんて子どもは、 ひとりだっていないのです

この名言も続があり「もし、そんなレッテルのついた子どもがいるとしたらそれはもう、その子たちをそんなふうに見ることしかできない大人たちの精神が貧しい」となっています。 手塚は「子どもに殺しを教えることだけはごめんだ」という発言もしており、善悪についてや教育のことについてもいろいろと考えていたようです。子供の善悪の判断というのは、養育者や周囲の大人にの価値観によって決められると良く言います。 いつの時代になっても心に響きそうな名言ですね。

手塚治虫の仰天エピソードの数々

こちらもまた天才故に数えきれないほどのエピソードがありますが、其の1つに下書きなしでペンで描いていたというエピソードがあります。通常は下書きをしてそこにペンを入れるのが常ですが、あまりにも忙しかったとはいえ、直接描いて仕上げるとは流石といったところでしょうか。 漫画を描くことには本当に熱心で睡眠時間も3時間ほどしかなかったという手塚。NHKの取材が来た際には3日間寝ずに漫画を描いてスタッフを驚かせたのだとか。食事も漫画を描きながら片手間に摂っていたなど、常に漫画第一の生活を続けていました。 また、お茶目なエピソードとして漫画家の松本零士がアシスタントに来た時にチョコレートの入ったうどんを食べさせというものも。意外とユニークな一面もあるようです。

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手塚治虫が創り出した功績の数々

『鉄腕アトム』
©NBC/Photofest/zetaimage

功績もまた数えきれないほどあるのですが、まず、ストーリー漫画というものを作り上げたのは彼です。それまでも4コマのようなものやギャグはありましたが、ストーリー性のある漫画はなく、手塚の作品に影響を受けた漫画家は数知れず。 また、今では当たり前となった漫画アシスタントは実は手塚が発祥。時にはアシスタントではなくて編集者がベタ塗を手伝っていたこともあったそうです。それから、こちらも定番となっている30分の連載アニメ放送というのも、手塚が考え出したもの。手塚が活躍していた当時では『鉄腕アトム』が、そのスタイルで放送されていました。 こうして考えると昨今当たり前のようになっいる漫画界の基礎は手塚によって作り上げられたものが多数あるようです。

漫画を愛し過ぎた男・手塚治虫

手塚治虫の伝説、そしてエピソードの数々、いかがだったでしょうか。それにしても、知れば知る程恐ろしい人ですね。60歳でガンで亡くなったそうですが、最後までペンを持ち続け「仕事をさせてくれ」と言いながら亡くなったといいます。彼にとって漫画とは命そのものだったのでしょう。 絵を描く技術も違う作風の漫画家の絵もさらりと描写出来る程素晴らしかったのだそうです。2020年現在も色褪せない「手塚治虫」のネームバリュー。今後も数々の伝説と共に愛され続けてほしいですね。