2019年1月28日更新

映画『ミスト』ネタバレ考察 最悪のラストは希望のメッセージだ!

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ミスト、映画
(C) 2007 The Weinstein Company

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鬱映画の代表格!『ミスト』のラストが衝撃的すぎる【ネタバレ注意】

『ミスト』は、スティーブン・キングの中編小説『霧』を、『ショーシャンクの空に』、『グリーンマイル』などで知られるフランク・ダラボン監督が映画化した作品です。2007年にアメリカ公開、日本でもその翌年公開され、“震撼のラスト15分”という触れ込みで大きな話題を呼びました。 確かに、ラスト15分はかなり衝撃的!鬱映画の代表格と呼ばれても仕方がないような、救いのない終わり方です。しかしなぜあのようなラストになったのか、脚本も手掛けているダラボン監督の意図は何だったのかが気になります。 そこで、今回は賛否両論が起こったラストにフォーカスして、本作が伝えたかったテーマを掘り下げていきたいと思います。果たして『ミスト』は、ただの救いのない「鬱映画」なのでしょうか?

映画『ミスト』はどんな作品だったのか?

『ミスト』は「鬱映画」で検索すると必ず出没するほど、世間一般的にも“後味の悪い”作品として一定の評価を受けているようです。 ジャンルとしてはSFホラーの位置付けですが、未知の怪物に襲われるモンスター・パニック映画とも、群集心理が恐ろしいスリラー映画ともいえます。 前述のように賛否両論があり、特にラストの評価は二分されています。映画評論サイト「Rotten Tomatoes」では、レビュー数142件で支持率が72%でした。まずまずの評価といえますね。

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あらすじと賛否両論のラストを振り返り!【ネタバレ】

謎の霧の中、スーパーマーケットに閉じ込められた人々。そして霧の中から襲ってくる未知の怪物たち。そうして恐怖の中、戦う者たちと神の裁きを信じる者たちとに二分され、対立が生まれます。 息子ビリー(ネイサン・ギャンブル)が怪物の生贄にされそうになり、スーパーマーケットから脱出することを決めた主人公デヴィッド(トーマス・ジェーン)。彼とともに脱出した人々は新任教師のアマンダ(ローリー・ホールデン)とベテラン教師のアイリーン(フランシス・スターンハーゲン)、店長のバド(ロバート・トレヴァイラー)と副店長のオリー(トビー・ジョーンズ)、そして一番最初に霧の中で怪物に襲われた初老の男性ダン(ジェフリー・デマン)です。 しかしオリーは大型の怪物に捕まり、バドは車までたどり着けず店内へ戻ります。なんとか車に乗り込めたのは残りの5人。デヴィッドはオリーが遺した銃をボンネットの上から取って、やむなく出発しました。 ガソリンが続く限り走り、できれば霧を抜けたいという思いで走っていたデヴィッドたち。しかし無念にも霧が晴れることもなく、ガソリンが尽きます。

そこまでの道中、蜘蛛の糸に巻かれて死んでいる妻や、スクールバスの中で息絶えた子どもたちの姿を見てきた彼らは、出来る限りのことはやり尽くしたという表情を浮かべて最期を悟ります。 デヴィッドの手には銃と4発の弾丸。5人では足りないとわかっていて、デヴィッドは自分以外の4人に銃口を向けるのです。そう、息子ビリーにも。 一人残されたデヴィッドは絶望の中、自ら車を出て怪物に「来い!」と叫びます。しかしそこに現れたのは、戦車とジープに乗った生存者たち。霧が晴れていき、呆気にとられるデヴィッドを尻目にエンドロールが流れるのです。

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『ミスト』は原作と映画のラストが違う?!

監督がラストシーンに込めた想いとは

キングの原作は実は映画のラストとは違い、少し希望を覗かせるエンディングになっています。車でスーパーマーケットを脱出するところまでは同じですが、最後は雑音だらけのラジオから、ある街の名前と“ホープ(希望)”という言葉を聞いて終わるのです。 しかし、キングはダラボン監督が原作とは違うラストを提案した際、賞賛したといいます。キングは「このエンディングは衝撃的だ。これは恐ろしい。しかしホラー映画を見に行く人たちは、必ずしもハッピーエンドを望んでいるわけではない」と「USA Today」のインタビューで語っています。

ダラボン監督が本当に意図したところは、単なるバッドエンドではなかったと思われます。逆説的ですが、デヴィッドにはどれほどの絶望的な状況下に置かれても、最後の最後まであらゆる可能性を信じて、生きることを諦めないでほしかったのではないでしょうか。ましてや、自分の子を殺めるなんて! この想いは、生存者たちの中にいた、スーパーマーケットから一番最初に出て行った女性に託されているように感じます。8歳の子が家で待っていると言って出て行った女性は、無事に霧の中から子どもたちを救い出したのです。この女性がデヴィッドを見る眼差しは、憐れみとも蔑みともとれます。

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どうすれば主人公は最悪のラストを避けられたのか?

では、主人公デヴィッドは一体どうすれば良かったのでしょうか?息子を自らの手で殺めるという最悪のラストは、どうしたら回避できたのでしょう。そのターニングポイントを考察してみます。 まず思い出されるのは、ビリーがデヴィッドに「怪物に僕を殺させないで」とお願いし、約束したこと。この約束を、究極の選択を迫られた状況では「怪物から守る」という意味には取れなかったことが、あのラストへ繋がった一つのポイントです。 次に霧の中、車で脱出する時にオリーが落とした銃を手に取ったこと。あの時、銃など目もくれずにすぐに出発していれば、少なくとも銃で自殺するという選択肢はなくなっていたはず。 車の中の5人は、まるで祖父母と夫婦と子どもといった“擬似家族”のようでした。度々絶望的な現状を見てきたとしても、たとえ周りの人々が諦めていたとしても、家長である父=デヴィッドがすべてを諦めて引き金を引いてはいけなかったのではないでしょうか。 デヴィッドがビリーのためにも生きることを諦めずに、もう少し忍耐強く待って、未来に希望を持っていれば、あのラストは絶対に避けられたのです!

父性と母性が対峙する味わい深いラストシーン

息子のビリーと、助かった女性の娘が同じ8歳だったことは、非常に示唆的でした。娘も「弟の面倒を見るのを忘れてしまう」と不安がっていた女性ですが、それ故に子どもたちを放って置けないと決意して出て行ったわけです。 ビリーはずっと怪物を恐れて泣いていて、常にぐったりした様子。しかしデヴィッドは怪物と戦うことを選んで、いつもビリーのそばにはいませんでした。 このことから、自らの命を賭して母は守り父は戦うという構図が浮かび上がります。ラストシーンは、デヴィッドの父性と助かった女性の母性が対峙し、明暗が分かれたように見えました。 デヴィッドの視点で見ていると絶望的な結末ですが、不条理の中にも勝利=子どもの生存を勝ち取った人物がいたという、ある意味衝撃的なラストであることがわかります。感情移入する人物によってまったく違ったラストになるという、なかなか味わい深い作品なのです。

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『ミスト』はただの鬱映画じゃない

絶対的な絶望のその先に見えるもの

「鬱映画」というとまったく救いがなく、答えがないまま終わるイメージが付きまといます。しかし『ミスト』の場合、その絶望的なラストを逆説的にとらえると、生きることを諦めると後悔しかないと、かなり強めに答えを示しているのです。 絶対的な絶望の先に何が見えるのか、それは徹底的に死力を尽くした後でしかわからないのかもしれません。