アカデミー賞監督も評価!『ある惑星の散文』はコロナ時代の今観るべき映画
深田隆之監督による映画『ある惑星の散文』(2018年)が、2022年6月4日から劇場公開中だ。 深田監督は『ドライブ・マイ・カー』(2021年)でアカデミー賞を受賞した濱口竜介監督の短編集『偶然と想像』(2021年)で助監督を務めた人物である。映画監督の他に、映画上映イベント「海に浮かぶ映画館」の館長(プログラムディレクター)としても活動している。 本作はそんな深田監督による初の劇場長編作。「海に浮かぶ映画館」で上映されてから実に4年の年月とクラウドファンディングを経て、遂に劇場で上映されることが決まった。 今回ciatr編集部では、2022年6月5日に開催された深田監督と濱口監督の対談イベントでの2人のコメントを交えながら、本作の魅力について独自の視点で紹介していく。
『ある惑星の散文』あらすじ
脚本家を志すルイは、海外の映画祭に行っている映画監督の恋人アツシの帰りを待っていた。スカイプ越しに会話を交わす2人だが、アツシは次回の映画はルイではなく映画祭で繋がった脚本家と一緒に進めると伝えてきて……。 一方、芽衣子は精神疾患によって舞台俳優の活動を離れカフェで働いていた。そこへ急に兄のマコトがやってくるが……。人生の岐路に立つ女性2人が織りなすささやかな物語。
観るたびに、新しい風景が浮かび上がってくる
今回の対談イベントは、深田監督と濱口監督が本作のロケ地についてや撮影の裏側、作品のテーマについてざっくばらんに語り合うフリートーク形式で行われた。 実は、濱口監督が本作を視聴するのは今回で4回目だそう。これまでに3回PC画面で本作を視聴したことがある濱口監督は、「今日が1番面白かった」と率直な感想を述べた。 濱口監督曰く「1回目は率直に言うと退屈したところもあるのが正直なところ。でも2回目、3回目と観ていると、風景の中でうごめいているものや、聞こえてくるもの、それらが舞台になっているのが段々と分かってくる。そして劇場でみると細部が見えてくるので体験として1番充実していた。」のだと言う。 回を重ねるごとに作品の見方が分かってくる。筆者も作品を視聴したのは3回目だったが、確かに噛めば噛むほど味の出て、だんだん分かってくる、そんな作品なのだ。これについては、是非皆さんにも劇場で体験してほしいと思う。
監督が度々話題に挙げている本牧とは?
『ある惑星の散文』の舞台となっている横浜市の本牧(ほんもく)。初めて聞いたという人も多いであろうこの地域だが、濱口監督と深田監督にとっては何やら思い入れがある場所らしい。 濱口監督は以前も、「横浜に通い、ロケハンも撮影もして来た者として、本牧あたりの無機質で何処か人間の存在を小さく感じさせる「あの風景」を写し取る詩的な感性に素直に驚く。」と残している。今回のイベントでも「深田監督は本牧の撮り方、写し方を理解している」と称賛していた。
それに対し深田監督は「場所と人を等価値に置きたいという感覚があった」とコメント。そのため普通はシナリオが出来てからするロケハンを、彼は同時並行で進めていたと話した。 本牧で育った筆者の友人によると、本牧は「距離は桜木町や繁華街に近いのに、鉄道計画が中止になったので交通手段がバスしかなく、都会から隔離された空間」なのだという。 進みたいのに簡単には抜け出すことができない歯痒さ、世の中から取り残されているという焦り。そしてそんな小さな存在の自分でも、誰かに覚えていてほしいという静かな欲望……。 そんなメッセージをスクリーンの隅々まで表現する登場人物たちの相棒として、陸の孤島・本牧が選ばれたのだ。
「他者との距離」について
「身体の距離は心の距離」という言葉をコロナ禍前はよく耳にした。実際、6年前に撮影された本作でも物理的な距離が心の距離を遠ざける大きな要因として描かれている。 作中に登場する恋人のルイとアツシの間には、日本と海外という物理的な壁があった。 勿論他にも離れた理由はあるだろうが、ルイがアツシとの間に明らかな「距離」を感じたのは、目線すら合わなくなった画面上のアツシと対峙してしまったからだろう。 しかしコロナが蔓延して2年が経過した今、物理的な距離と感情の距離は、よりあべこべになっていったと感じる。 近くに住んでいても、会うことがなくなった誰かがいる。逆に世界の反対側にいても、ワンクリックで繋がって夜通し話せる相手もいる。心の距離を左右する上で「物理的に近いかどうか」は段々と重みを失って、その代わりに「繋がろうという意思の強弱」が重要性を帯びてきた。 既に大幅に規制が緩和された国もある一方、日本では取り残されたように歪な他人との間を保ったまま、また今日が過ぎ去っていく。 この国にいる限り、私達の物理的な距離は、まだ当分コロナ以前に戻ることはないのだろう。もはや一生ないのでは無いかと感じることもある。本作はそんな世の中で、“自分が誰とどのように、どんな距離感で繋がっていたいのか”を改めて考えるきっかけとなった。
「停滞した時間」の先にあるもの
本作のもうひとつのテーマとして描かれているのが「停滞した時間」だ。 特別なドラマは起こらない、むしろ退屈とも言える日常の風景の中で、2人の女性の自我をひしひしと感じた。 自分はもっと認められるはず、誰かになれるはず、忘れられない存在になれるはず。そんな自尊心だけは立派にあるのに、それでも理想の自分と現実の自分の間にある溝から目を背け続けることもできなくて。まるで自分を外側から俯瞰しているような気持ちにさせられて、少しむず痒くなる。 そんな誰しもが経験しうる「停滞した時間」の中で、スクリーンの中の彼女たちは必死に前に進もうとした。そして、正解か不正解かはともかく、彼女達なりの一歩を踏み出した。 私達の時間に価値を与えるのは、何かを成し遂げたという結果でも、周りからの評価でもない。どんなに無意味に感じる時間でも、そこには確かに自分の感情が存在している。それと真正面から向き合った時、自分の納得いく「次の一歩」が見えてくるのではないだろうか。
理解されたいのに理解しようとしない矛盾
先ほど登場人物達の自我を感じたと述べたが、中でも特に印象的だったシーンがある。それは芽衣子が働いているカフェでの何気ない1コマだった。 芽衣子に気があるのであろう同僚の菅原が、彼女を舞台に誘うシーン。 そんな菅原に対して芽衣子は「菅原君いい作品とか分かるの?面白いなら一緒に行ってもいいよ」と一掃する。 君に演劇の何たるかがわかるはずないという皮肉めいた台詞。たったこの一言が、ずっと頭に残っている。 私達はいつだって矛盾している。他人に理解されたいのに、自分のことをわかっているなんて思われたくない。自分の気持ちは大切にして欲しいのに、他人の気持ちは片手間であしらう。 ルイも芽衣子も、そんな矛盾した感情を併せ持っていた。自分勝手な人達だな、なんて思うが、自分も同じようなものかと思うと、口をつぐんでしまう。 彼女らは、美しくて詩的な感情だけでできた物語上だけのキャラクターではない。どこまでも「普通の誰か」であり、視聴者の自己を投影する写し鏡なのだ。 どうしたっていつの間にか自分自身と向き合うことになる、それが『ある惑星の散文』最大の魅力なのだと筆者は考える。
深田監督の過去作『2020年4月2日3分48秒』はシアタープラスで配信中
今回は深田監督の初劇場長編作『ある惑星の散文』について、筆者独自の視点からレビューを行った。 この記事を執筆するにあたって本編を何度もみかえしたのだが、その度に垣間見える新しい一面に驚かされる、そんな作品だった。この記事のように、作品の解説やレビュー、ロケ地に対する深田監督のこだわりなどを読んでから改めて視聴するとまた違った風景が浮かび上がってくるかもしれない。 『ある惑星の散文』を鑑賞してもっと深田監督の作品が知りたくなった人は、ぜひ彼の過去作である『2020年4月2日3分48秒』(2020年)もおすすめしたい。 タイトルの通り3分48秒の短い動画だが、そこに彼の世界が詰まっている。本作は現在シアタープラスで配信中だ。
『ある惑星の散文』作品概要
監督・脚本:深田隆之 キャスト:富岡英里子、中川ゆかり、ジントク、渡邊りょう 他 映画祭入選情報: ・第33回ベルフォール国際映画祭 長編コンペティション部門ノミネート ・第12回ランデブー映画祭(フロリダ) ・第12回福井映画祭 ・アメリカオレゴン州ポートランド美術館の日本映画特集にて上映
『2020年4月2日3分48秒』作品概要
監督・テキスト:深田隆之 キャスト:清水みさと