2018年9月23日更新

【連載】カルト(少数の熱烈な信奉)を産む映画たち#20『ダーク・スター』【日曜更新】

『ゼイリブ』(1988年)『遊星からの物体X』(1982年)がリバイバル上映されるなど、今も注目を集めるジョン・カーペンター。彼の処女作『ダーク・スター』(1981年)もカルトな人気を集めていますが、後の作風とかなり異なる映画です。この作品とその舞台裏に見える彼の原点を紹介していきます。

「カルトを産む映画たち」とは?

「カルト(少数の熱烈な信奉)を産む映画たち」とは、有名ではないかもしれないけれど、一部の人には熱烈に愛される映画を紹介していく連載です(毎週日曜更新)。

ゆる~い脱力系SF映画、『ダーク・スター』とはどんな映画?

人類が宇宙に進出した未来、宇宙船ダーク・スター号は宇宙の彼方で孤独な任務を果たしていた!と始まる『ダーク・スター』。彼らの任務は邪魔な不安定惑星の破壊(広大な宇宙で本当に必要な任務?)、4人+1人(冷凍保存中の艦長)の日常は長い宇宙生活にすっかりたるんでいました。 というスラッカー(怠け者)な彼らの日常を描いている本作。宇宙船の機器は故障してゆくが、乗組員としてまともに選ばれたとは思えない彼らには対処不能。問題行動ばかり起こす連中で、引きこもって星を眺めていたり、マスコットにしたエイリアン(……どう見てもビーチボールです)と追いかけっこをしたりの、ゆるい日常が描かれています。 そんなある日搭載している惑星破壊用の爆弾が誤作動。どういう訳か知性を与えられている爆弾に、暴発しないよう必死に説得を試みるが、やがて自我に目覚めた爆弾は自爆。ダークスター号も消滅しますが、それは乗組員が全てから解放される時でもありました……。

本作の当初のタイトルは『The Electric Dutchmen(電気仕掛けのオランダ人)』、またジョン・カーペンターはこの映画を「宇宙でゴトーを待ちながら」と紹介し売り込んだとか。ユーモアに満ちた不条理劇として作られたSF映画なのです。 後のジョン・カーペンター映画と大きく異なる内容ですが、それには様々な理由があり、そして本作制作時の体験が彼に大きな影響を与えている事をご存知でしょうか?それらを紹介しつつ、この映画をひも解いていきましょう。

映画オタク少年だった、ジョン・カーペンター

1948年に生まれたジョン・カーペンター。音楽教師の父を持ち幼い頃から音楽活動をしていた彼は、同時に熱心な映画ファンでもありました。8歳の頃に8ミリカメラを与えられ映画製作を開始、中には40分を越える作品もあったという本格派。もっとも彼自身は「さんざんな出来だった」と語っていますが。 1965年にはSF・ホラー映画のファン雑誌を3冊出版。彼はこの頃を「以前ほど映画を観なくなり、映画に注文をつけるようになった時代」と振り返っています。彼は早熟かつ熱心な映画少年だったのです。

大学進学、アカデミー短編賞受賞映画への参加

1968年、彼は「当時世界最高の映画学校だった」南カリフォルニア大学(USC)映画学科に入学します。実践的に映画を作りを通して様々な技術を学び、ハリウッドの業界関係者が講演し、新作・名作などの様々な映画が上映され、その監督本人がそれを語る機会もある素晴らしい環境でした。

彼の在学中の講師には、ジョン・フォード、オーソン・ウェルズ、アルフレッド・ヒッチコック、そして彼が敬愛するハワード・ホークスなどがいました。講義の後学生は巨匠と身近に語りあう機会もあり、その人間性に触れる事も出来たそうです。 1969年にUSCの学生たちが製作した短編映画『ブロンコ・ビリーの復活』に脚本として参加(同じく脚本に彼の多くの作品に関わるニック・キャッスルもいます)、この作品がアカデミー短編映画賞を受賞します。西部劇の世界に憧れる男を描いた物語には、ジョン・カーペンターの思いが反映されているのでしょうか? 彼に言わせるとこの本作は主要なメンバーが皆で製作した作品で、自分も共同監督のようなものだ、との事。またアカデミー賞はUSCの代表が受け取り、映画の配給収入もUSCのものとなり、学生には映画の製作費すら返されなかったとか。この経験から彼は、次こそは自分たちの物となる映画を作ろうと決意します。

ダン・オバノンと共に『ダーク・スター』製作開始

『ダーク・スター』には共同脚本・編集・出演など様々な形でダン・オバノンが参加しています。ジョン・カーペンターとはUSC入学後に出会い、共にSFファンと知り意気投合。親友となった間柄です。 ダン・オバノンは後に『エイリアン』(1979年)や『スペース・バンパイア』(1985年)といったSF・ホラー映画の脚本で活躍し、『バタリアン』(1986年)では監督も行った人物。ジョン・カーペンターと共に70年代後半~80年代のSF・ホラー映画ブームを築きました。

『ダーク・スター』の様々な要素……『2001年宇宙の旅』(1968年)のパロディ的な物語、後に『エイリアン』のベースとなる設定や展開、そして映画に漂うブラックユーモア……これらダン・オバノンの影響の大きさは、ジョン・カーペンター自身も認めています。 1970年、ダン・オバノン他USCの仲間を集めて『ダーク・スター』の製作が始まります。ニック・キャッスルは?本作のゆるキャラ、ビーチボール型エイリアンの足(!)を演じています。こうして仲間たちと作った『ダーク・スター』は1972年にまず45分の中編映画として完成しました。

劇場公開までの、悪戦苦闘の日々

USCを卒業したジョン・カーペンターの前にジャック・ハリスというプロデューサーが現れ、シーンを撮り足し長編映画にすれば、この映画を配給し劇場公開すると持ちかけます。ジャック・ハリスは『マックイーンの絶対の危機(SF人喰いアメーバの恐怖)』(1965年)という低予算SF映画を製作、大ヒットさせた人物です。

ジャック・ハリスの注文で追加されたシーンもあり、映画は当初の形から変わっていきます。ジョン・カーペンターの話ではハリスが実際に出した金は僅か、作業に時間をかけたのに報酬はゼロ。足りない費用は調達せねばならず、この間彼は成人映画の編集などを行いしのぎます。 様々なハリスの口出しに怒り心頭のダン・オバノン、『ダーク・スター』劇中のモニター画面に「FUCK YOU HARRIS」と入れたのは彼の仕業……と語るジョン・カーペンター。自身は耐えに耐え劇場公開まで辛抱したとの事ですが、その彼もハリスの事を「ハリウッドの、いわばゴミあさり」と手厳しく呼んでいます。

ちなみにジャック・ハリスは同時期に、ジョン・ランディス監督デビュー作であり、特殊メイクの巨匠・リック・ベイカーのキャリアスタートとなった事でも知られる映画『シュロック』(1981年)の製作も手掛けています。 家族や友人から金を集めて制作し1971年に撮影終了させたものの、1973年の米公開まで紆余曲折を経験するジョン・ランディス。『シュロック』の舞台裏にも同様の物語があるのでしょうか?

映画の公開と、ダン・オバノンとの別れ

こうして1974年に完成した劇場公開版の『ダーク・スター』。本作の魅力であり、同時に欠点とも受け取られている間延びしたリズムは、ジャック・ハリスの影響も大きいのです。「最初は理想に書いたような学生映画として始まったが、最後は長い旅をやっと終えた気分だった」とジョン・カーペンターは語っています。 翌1975年にようやく劇場公開された『ダーク・スター』。しかし上映は早々に打ち切られ、これを機に監督の仕事がもらえるとの希望もかなわず、観客が彼の悪戦苦闘を評価してくれる事もありませんでした。「人生の最初の大きな挫折」を彼は経験したのです。

間違いなくこの映画の大きな部分を占めていたダン・オバノンですが、本作の公開後『ダーク・スター』を監督したのは自分だ、と周囲に語り始めます。無論ジョン・カーペンターは否定していますが、彼が参加した『ブロンコ・ビリーの復活』での役割を共同監督の様なもの、と主張する事と似た構図が感じられないでしょうか? ともあれジョン・カーペンターはダン・オバノンの才能を認めつつも、この後彼とは決別し二度と仕事を共にする事はありませんでした。友情で結ばれても、共に映画監督になる目標をもった野心的な2人が衝突するのは当然の結果だったのでしょう。 ジョン・カーペンターは本作公開後の、ダン・オバノンの言葉を語っています。「これもなにかの勉強だよ。俺たちはこれからなんだ。」

『ダーク・スター』の後、変わったもの

ヒットしなかった『ダーク・スター』ですが、作品の持つユーモアを理解した若い観客を中心にカルト的な支持を得る事はできました。しかしジョン・カーペンターはこの時期を「父の支えが無ければ、荷物をまとめて家に帰っていた」と振り返っています。 そして他の映画の脚本の仕事をしながら、1976年に米で公開される映画『要塞警察』を監督します。本作は彼が敬愛するハワード・ホークスの『リオ・ブラボー』(1959年)と同じ設定というオマージュに満ちた作品であり、同時に西部劇の世界を現代に置きかえた映画でもあります。

しかし彼がもっともハワード・ホークスに影響を受けたのは、USC時代身近に接した際のタフな雰囲気であったのかもしれません。ジョン・カーペンターは『ダーク・スター』での経験を通し「映画監督とは、現場で父親的存在になること」を学び、全てをコントロールして映画を作る姿勢を身に付けたのです。その為にはハリウッドの主流から距離を置く事もいとわずに。 次に監督した『ハロウィン』(1979年)の成功が彼の地位を不動のものにしますが、この作品からタイトルに「John Carpenter's」の文字が付けられています。これはこの映画が間違いなく自分のものである、との力強い宣言でしょう。

そして、ジョン・カーペンターの変わらぬもの

ジョン・カーペンターは『ダーク・スター』の有名なラストシーン、宇宙でサーフィンをする姿について質問されると「あれはあの時代のもので、いま同じ事を行っても上手くいかないだろう」と答えています。

しかし彼は後に『エスケープ・フロム・L.A.』(1996年)で、主人公のスネーク(カート・ラッセル)に唐突にサーフィンをやらせています。しかもアメリカン・ニューシネマとヒッピー映画の象徴、ピーター・フォンダと共に! 『エスケープ・フロム・L.A.』の舞台は終身大統領が支配する、道徳の名の下で監視社会と化したアメリカ。その社会からはみ出した者たちの巨大な監獄と化したロサンゼルスでサーフィン。このシーンで『ダーク・スター』のラストを思い浮かべたファンも多いでしょう。

『ダーク・スター』はサーフィンによって、密閉され退屈な宇宙船生活から解放されます。その姿に『ダーク・スター』制作時のゴタゴタから解放された、ジョン・カーペンター自身の姿を重ねるのはファンの思いこみに過ぎないのでしょうか? そしてサーフィンする姿は『エスケープ・フロム・L.A.』で、監視社会への反抗の象徴となりましたが、この映画で描かれたデストピアは現在、妙に身近に感じられないでしょうか?常に自分のスタイルを貫いて作られたジョン・カーペンターの映画は、時代とともに新たな意味を持ち始めています。『遊星からの物体X』『ゼイリブ』のリバイバル上映にはそんな背景もあるのです。 現在新たな視点で評価されているジョン・カーペンターの映画。反骨の映画作家として活躍してきた彼の原点は間違いなく『ダーク・スター』なのです。ぜひそんな視点でこのカルト映画に向き合って下さい。ご鑑賞の際はゆる~く、脱力しながら……。

次回の「カルトを産む映画たち」は?

次回は9月30日に更新予定です!お楽しみに!