イングリッド・バーグマンのプロフィール
1915年8月29日生まれのイングリッド・バーグマンは、ヨーロッパとアメリカで活躍した女優です。
スウェーデンのストックホルムに生まれ、3歳のときに母親が、13歳のときに父親がなくなります。その後、叔母に引き取られますが、その叔母も6ヶ月後に心臓合併症のため死去。5人の子供がいる別の叔母フルダとオットーの夫妻のもとに身を寄せることになります。
17歳のときにストックホルムの王立ドラマ劇場のオーディションを受け、審査員から「これ以上、何十人ものオーディションをするのは時間の無駄でしょう。あなたには天賦の才があります」と言われ、見事合格。国の奨学金を得て入学しました。
「3年間演劇を勉強してからでなければ、外部の作品に出演してはならない」という学校の規則を破り、入学から数ヶ月後に舞台『犯罪』に出演しました。学校側との対立もあり、バーグマンは夏休みに映画スタジオの仕事を受け、1年で学校を退学します。
退学後はプロの女優として仕事を始めました。母国スウェーデンで活躍し、のちにハリウッドに進出しています。
獲得した賞の数々
イングリッド・バーグマンは数々の受賞歴でも有名です。アカデミー賞を主演女優賞2回、助演女優賞1回の計3回受賞しており、ウォルター・ブレナン、ジャック・ニコルソン、ダニエル・デイ=ルイス、メリル・ストリープと並んで歴代2位の受賞回数を誇っています。
アカデミー賞主演女優賞を受賞したのは『ガス燈』(1945)、『追想』(1957)。『オリエント急行殺人事件』(1975)で助演女優賞を受賞しました。
他にも『聖メリーの鐘』(1946)、『ゴルダと呼ばれた女』(1983)でゴールデングローブ賞主演女優賞を受賞、舞台『ロレーヌのジャンヌ』でトニー賞主演女優賞、『ねじの回転』(1960)、『ゴルダと呼ばれた女』(1982)でエミー賞主演女優賞を受賞しています。
彼女の魅力は自然な美
バーグマンのハリウッドでの評判は非常に良いもので、「メイクアップを必要としない非常に自然体の他に類を見ない女優」と言われていました。バーグマンはハリウッドのメイクアップアーティストによって、誰だかわからなくなるような厚化粧を施されることを非常に恐れていたといいます。
映画プロデューサーのデヴィッド・O・セルズニックはこのことを理解しており、彼女の天性の美貌がメイクをした他のハリウッド女優たちに劣らないと確信し、メイクアップアーティストたちにバーグマンのことはそっとしておくように、と指示していました。
また、気取らない性格も映画業界で気に入られ、セルズニックは彼女の印象を次のように語っています。
『風と共に去りぬ』には4人の映画スターが出演していて、みんな最上級の控え室を占有しているから、彼女にはもっと小さな控え室しか用意できなかった。それでも彼女は今までこんなに豪華な控え室は初めてだといって大喜びだったよ。まったく気取ったところのない稀有な女優だから、彼女を売り出すときには重々しさを付け加えるようにすべきだね。
容姿も性格も清らかなバーグマンは、他のハリウッド女優とは一線を画す存在だったようです。
スウェーデンでの経歴
イングリッド・バーグマンは、1935年にスウェーデン映画『ムンクブローの伯爵』で本格的に映画デビューしました。その後スウェーデンやドイツの映画に数多く出演します。
後にハリウッドでリメイクされることになる『女の顔』(1938)で主役のアンナ・ホルム役を務めるなど、合計12本のスウェーデン映画に出演しています。1938年には、ドイツ映画『4人の仲間』にも出演しました。
映画『別離』がイングリッドの人生を変えた
1939年、イングリッド・バーグマンは映画『別離』に出演するため、アメリカに渡りました。英語での演技に困難を感じていたことや、夫と娘をスウェーデンに残してきたこともあり、ハリウッド映画への出演はこれきりだと考えていました。
しかし、映画の大ヒットを受けてバーグマンはアメリカで一躍スターの座に登りつめました。その後、一度スウェーデンでの映画撮影のため帰国しましたが、1940年にはアメリカに移住しています。
幅広い役柄への挑戦
バーグマンは、障害のある恋に落ちる女性や、夫から心理的虐待を受ける妻、謎を解き明かそうと挑む女医、修道女、フランスの聖女ジャンヌ・ダルクなど様々な役柄を演じています。
ラブストーリーからミステリー、サスペンス、歴史物まで幅広いジャンルの映画で活躍しました。
映画『カサブランカ』が代表作
1943年にアカデミー賞作品賞、監督賞、脚色賞の3部門を受賞した名作『カサブランカ』。「君の瞳に乾杯」などの名ゼリフで知られる本作は、イングリッド・バーグマンの代表作となりました。
第二次世界大戦下、中立地帯モロッコには渡米を希望する人々が集まっていました。その地でナイトクラブを経営するリック(ハンフリー・ボガート)のもとに、反ナチス運動の指導者ヴィクターが現れます。しかし、彼の妻は以前リックがパリで恋に落ちたイルザでした。
バーグマンはイルザを演じ、結婚していながら再会した昔の恋人に再び惹かれていく心の揺らぎを見事に表現しています。
映画は興行的にも大成功し、バーグマンの人気を不動のものにしました。
ロベルト・ロッセリーニとの情事
アメリカでイタリア人映画監督ロベルト・ロッセリーニの映画を観たバーグマンは感銘をうけ、ロッセリーニ宛てにぜひ映画に出演させてほしいと手紙を書きました。
1949年に撮影されたロッセリーニの映画『ストロンボリ/神の土地』に出演したバーグマンは、撮影中からロッセリーニに惹かれ、不倫関係になっていきます。1950年2月、バーグマンはロッセリーニとの間に息子レナート・ロベルト・ラナルド・ジュスト・ジュゼッペ・ロッセリーニを出産しました。
ふたりの関係はアメリカで大きなスキャンダルとなり、トークショーに呼ばれなくなるなど、仕事に影響が出るようになります。バーグマンは夫と娘を置いてイタリアに移住し、離婚成立後の1950年5月にロッセリーニと結婚しました。1952年には双子の娘、イザベラとイングリッドを出産しています。
1949年から1955年にかけて、ロッセリーニはバーグマンを主役とした映画を5本制作しました。
ハリウッドの大勝利復帰
1956年、バーグマンは映画『追想』でアメリカ映画に復帰しています。この作品で彼女は2度目のアカデミー賞主演女優賞を受賞しました。バーグマンは授賞式に出席せず、長年の友人であるケーリー・グラントが代理でトロフィーを受け取りました。
この作品は、ロシア帝国のアナスタシア皇女がまだ生きているという噂をもとにしたものです。
1958年のアカデミー賞受賞式で、バーグマンは不倫スキャンダル以降初めて公の場に姿を現しました。作品賞のプレゼンターとしてステージに上がったバーグマンは、観衆にスタンディングオベーションでむかえられました。
後半生の出演作
アガサ・クリスティの代表作の映画化【1974】
イギリスのミステリー作家アガサ・クリスティの代表作『オリエント急行殺人事件』を映画化した作品に出演しました。
中東からオリエント急行に乗って、ヨーロッパへと戻る探偵エルキュール・ポアロ。積雪のため立ち往生した列車内で、アメリカ人のラチェットが殺されます。乗客たちはお互いのアリバイを証言し合い、容疑者すら現れないなか、ポアロがその奇抜なトリックを解き明かします。
監督のシドニー・ルメットは当初、バーグマンに重要な登場人物であるドラゴミロフ公爵夫人役を打診していましたが、バーグマンは端役のスウェーデン人宣教師のグレタ・オルソンを演じることを希望します。
この役でバーグマンはアカデミー賞助演女優賞を受賞しました。
スウェーデン映画最後の出演作【1978】
イングマール・ベルイマン監督の『秋のソナタ』は、バーグマンのスウェーデン映画最後の出演作となりました。
バーグマンが演じたのは、国際的に活躍するピアニスト、シャーロットです。彼女は過去に見捨てた娘に会うため、スウェーデンを目指してヨーロッパを旅します。
バーグマンが7度目のアカデミー賞主演女優賞にノミネートした作品です。
実在したイスラエルの女性首相を演じる【1982】
1982年、バーグマンはテレビシリーズ『ゴルダと呼ばれた女』に出演しました。実在イスラエルの女性首相の伝記映画。
バーグマンは当初、世界的な著名人を演じることに抵抗を感じていたそうですが、プロデューサーに説き伏せられ、出演を決意したとのことです。
最後の出演作となったこの作品の撮影中、バーグマンはがんを患っており、体調はどんどん悪化していきましたが、弱音を吐くこともせず仕事に取り組んでいたといいます。
バーグマンは、この作品が完成した4ヶ月後に死去。2度目のエミー賞主演女優賞を受賞し、娘のピアが代わりにトロフィーを受け取りました。
ハリウッドの伝説的女優、イングリッド・バーグマン。多くの名作に出演していますので、その魅力を確認してみてはいかがでしょうか。