2017年10月31日更新

日本が誇る最強映画監督58人【邦画業界を支える鬼才たち】

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黒澤明

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日本が誇る最強映画監督を徹底紹介!巨匠監督から期待の若手まで

日本映画は戦前と戦後の二度に渡る黄金時代を経て、国際的にも非常に高い評価を得る多くの名作を生みながら、多大な娯楽と豊かな文化の一翼を担ってきました。 世界各国の映画が上映され、また映画以外の様々な娯楽が増えた今日ですらそれは変わりません。2016年には邦画興行収入歴代2位となる『君の名は。』や同じくメガヒットとなった『シン・ゴジラ』が飛び出すなど、再び活況を呈しています。 ここではそんな日本映画が誇る監督にスポットを当て、レジェンドとなった名匠から各年代に活躍した代表的監督や鬼才、さらに今後の活躍が期待される新進気鋭の若手まで総勢58人を一挙にご紹介します。これを読めば日本の映画監督たちの全体像や意外な交友・師弟関係なども判明するはずです!

世界的にレジェンドな映画監督

黒澤明/代表作『羅生門』

「世界のクロサワ」と呼ばれ、日本映画のみならず世界の映画界に多大な貢献と影響を及ぼした黒澤明は、言うまでもなく巨匠の名にふさわしい存在です。1943年に『姿三四郎』で監督デビューしたのち、1998年に88歳で亡くなるまで30本の作品を世に送り出しました。 スピルバーグ、ルーカス、コッポラ、イーストウッドら今日のアメリカ映画を代表する名匠たちが師と仰ぎ、『スターウォーズ』など様々な作品に大きな影響を与えていることは周知の事実です。 ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞に輝いた1950年の『羅生門』はじめ、複数の作品が国内外の名だたる映画祭で賞を受賞しているほか、1990年には日本人として初となる米アカデミー名誉賞を受賞しました。1993年の『まあだだよ』が遺作となり、1998年には映画監督として初の国民栄誉賞を没後授与されています。

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大島渚/『愛のコリーダ』

大島渚は京大法学部卒業後に松竹に入社します。野村芳太郎らの助監督を務めて経験を積み、1959年に『愛と希望の街』で監督デビューしました。その斬新な作家性から吉田喜重らとともに「松竹ヌーベルバーグ」の旗手と呼ばれた時期もありましたが、独立後はさらに鬼才にふさわしい作品を発表していきます。 なんと言っても、社会に鮮烈な衝撃を与えたのが阿部定事件をモチーフにした1976年の『愛のコリーダ』です。赤裸々な性描写はとりわけヨーロッパで高い評価を得るに至り、続く1978年の『愛の亡霊』ではカンヌ国際映画祭監督賞を受賞しました。 1983年の『戦場のメリークリスマス』ではビートたけしを起用し、後に花開く映画人としてのキャリアに大きな影響を与えたといいます。後年は映画監督のみならずテレビのバラエティーや情報番組にたびたび出演し、特異な個性を披露していました。監督作は1999年の『御法度』が遺作となり、2013年に肺炎で死去しています。

北野武/『HANA-BI』

ビートたけしの名でお笑い芸人としてトップを極めつつ、俳優としても大島渚監督に大抜擢された『戦場のメリークリスマス』で一躍注目を集めます。1989年には『その男、凶暴につき』で満を持して映画監督デビューも果たしました。 その後は『あの夏、いちばん静かな海。』や『ソナチネ』など順調に秀作を発表し続け、1997年には『HANA-BI』でヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞するに至ります。「キタノブルー」と呼ばれる独特の色調とバイオレンスに溢れる作家性が高く評価され、今や世界にその名が知られています。 コンスタントに新作を発表し続け、2017年10月には北野作品唯一のシリーズものである『アウトレイジ 最終章』の公開が控えています。現役で活躍する世界に知られた巨匠と言えば、北野武がやはり筆頭でしょう。

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溝口健二/『雨月物語』

一般に黒澤明が男性映画の巨匠と呼ばれるのに対し、女性映画の巨匠と称されるのが溝口健二です。1898年生まれで早くもサイレント時代から活動していましたが、戦前の1936年には『祇園の姉妹』を発表し、これまでなかったリアリズムの手法が高い評価を受けます。 戦後は『好色一代女』『雨月物語』『山椒大夫』でヴェネツィア国際映画祭3年連続受賞という快挙を達成し、一躍世界にその名をとどろかせることになりました。ワンシーンをワンカットで撮影するという長回しの完璧主義者として知られ、女優の田中絹代とのコンビは有名です。 遺作となったのは1956年の名作『赤線地帯』で、同年、白血病により58歳で世を去りました。今も溝口に影響を受けたと語る映画人は多く、フランスのヌーベルバーグを代表するゴダールはそのうちの一人です。

深作欣二/『仁義なき戦い』シリーズ

1930年に生まれた深作欣二は、日大芸術学部を卒業して東映に入社し、1961年の『風来坊探偵・赤い谷の惨劇』で監督デビューしました。同作は千葉真一の初主演映画であり、これ以後も千葉とコンビを組んで多数のヒット作を生み出すことになります。 深作の名を一躍有名にしたのが、1973年から始まる『仁義なき戦い』のシリーズ5部作です。広島を主な舞台に勃発したヤクザ抗争を描いて空前の大ヒットを記録し、アクションとヤクザ映画の名匠として広く知られるところとなりました。 その後は1982年の『蒲田行進曲』で各映画賞を席巻し数々の話題作を手掛けたほか、テレビでも『必殺シリーズ』などでその手腕を発揮します。2003年、シリーズ3作目の『バトル・ロワイアルII 鎮魂歌』の完成を待たずに急逝し、同作が遺作となりました。その斬新な映像世界は、今をときめくタランティーノやジョン・ウーらに信奉されています。

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岡本喜八/『肉弾』

岡本喜八は大学卒業後の1943年に東宝に入社します。助監督になるものの、召集により陸軍工兵学校に入隊してそのまま終戦を迎えたという体験が、その後の作風に大きな影響を与えることになります。 戦後、東宝に復帰して成瀬巳喜男やマキノ雅弘らのもとで経験を積み、1958年に『結婚のすべて』で監督デビューしました。戦争と自身の経験を題材にした『独立愚連隊』など秀作を発表し、特に1968年の『肉弾』は邦画史に残る傑作と評価されています。 1991年には『大誘拐 RAINBOW KIDS』で日本アカデミー賞最優秀監督賞を受賞しましたが、脳梗塞など患い、表舞台に立つことは次第に少なくなります。2005年に81歳で他界し、遺作は2002年公開の『助太刀屋助六』となりました。海外にもファンは多く、2007年にはベルリン映画祭で岡本の特集が上映されたほどの人気を誇ります。 また2016年に公開された『シン・ゴジラ』ではキーパーソンとして特別出演。顔写真のみの登場ですが、しっかりエンドロールにも名前が入っています。

今村昌平/『うなぎ』

1983年の『楢山節考』と1997年の『うなぎ』でカンヌ国際映画祭の最高賞であるパルムドールを2度も受賞しているのが今村昌平です。1951年に松竹に入社後は川島雄三に師事し、小津安二郎の助監督などもつとめていました。 1954年には川島と共に日活に移ります。川島が去ったあともそのまま在籍し、1958年に『盗まれた欲情』で監督デビューしました。その後独立するまで『にっぽん昆虫記』や『赤い殺意』といった傑作を日活で残しています。 1975年には現在の日本映画大学の前身である横浜放送映画専門学院を開校し、三池崇史や本広克行、李相日らその後の映画界を支える多数の人材を生み出す礎を築いたのも今村です。映画界に多大な貢献をし、2006年に79歳で他界しました。監督作品数は20と寡作ながら傑作の多さは驚くべきものがあります。

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成瀬巳喜男/『浮雲』

1905年東京に生まれた成瀬巳喜男は、松竹蒲田撮影所の小道具係としてキャリアをスタートさせました。助監督を経て1930年にサイレント映画『チャンバラ夫婦』で監督デビューします。東宝の前身であるPCL映画製作所に移ってからは次々と秀作を手掛け、次第にその突出した才能に注目が集まるようになりました。黒澤明が成瀬の助監督をつとめたこともあります。 1955年に発表した『浮雲』は戦後に生きる男女のやるせない関係を描き、日本映画史上に残る不朽の名作として知られています。同作の助監督をまだ若い岡本喜八が務めていたことも有名です。 女優を輝かせる演出では成瀬の右に出るものはいないとも言われ、とりわけ高峰秀子とは多数の作品でコンビを組み多くの秀作を送り出しました。1969年に他界しましたがその名声は死後さらに高まり、特にヨーロッパでは小津・溝口・黒澤と同列に並ぶ巨匠に数えられています。

川島雄三/『幕末太陽傳』

1918年青森県生まれの川島雄三は、大学卒業後に松竹大船撮影所に入社しました。小津安二郎や木下恵介の助監督を経て、1944年に『還って来た男』で監督デビューします。数々のコメディ映画を手掛けたのち1954年に日活に移籍しました。 日活では、川島の代表作となる傑作『洲崎パラダイス赤信号』と『幕末太陽傳』を監督します。大映においても若尾文子と組んだ『女は二度生まれる』などの名作を残し、50年代後半から60年代初頭にかけてがまさに川島が監督として最も脂が乗り円熟した時期でした。 ところが、1963年に45歳の若さで急逝します。以前から筋萎縮性側索硬化症による障害を抱えていましたが、直接の死因は肺性心でした。センスあふれる独特の人間喜劇は川島の独壇場であり、早逝を惜しむ声は今もなお聞かれます。

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石井輝男/『網走番外地』シリーズ

黒澤や小津ら世界に知られたレジェンドとは違い、鬼才とも言える個性で特異な地位を築いたのが石井輝男です。1942年に撮影助手として東宝に入社したのがキャリアのスタートでした。新東宝に移って成瀬巳喜男らの助監督を務めながら、自身も1957年に『リングの王者 栄光の世界』で監督デビューします。 1961年に東映に移籍して以後、個性的な才能を開花。高倉健主演による『網走番外地』シリーズなどアクション映画、さらに東映ポルノ作品として『徳川女系図』など異色のエログロ作品を多数発表し人気を博しました。 それら作品は娯楽作として国民的ヒットを生みながら、批評家からは無視されるという乖離の中、あくまでも大衆路線を貫きました。2005年に肺癌により81歳で他界しましたが、今日、石井が70年代に遺した異色作を再評価する気運が高まり、特に若者の間で新しいファンを生んでいます。

増村保造/『曽根崎心中』

東京大学法学部出身で、三島由紀夫が学生時代の友人だったというインテリとして有名な増村保造。1947年に助監督として大映に入社した後も、東大の哲学科に再入学したり、イタリアに留学してヴィスコンティやフェリーニのもとで学んだりという異色の経歴を持っています。 帰国後は溝口健二などの助監督をつとめたあと、1957年に『くちづけ』でついに監督デビューを果たしました。若尾文子と組んで『妻は告白する』や『卍』など多数の傑作を残したほか、勝新太郎や市川雷蔵のヒットシリーズも手掛けています。 70年代に入るとテレビに進出。山口百恵の「赤いシリーズ」や『スチュワーデス物語』など、大映ドラマの一時代を築いたのも増村です。テレビでの活躍に合わせて映画監督作は次第に少なくなっていったまま1986年に亡くなりましたが、ヨーロッパで培った成熟した作風は、日本映画に確たる足あとを残しました。

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小津安二郎/『東京物語』

黒澤明と並び称される巨匠と言えば、小津安二郎の名をあげる人も多いでしょう。その通り「小津調」と呼ばれる独特のカメラワークや構図、ストーリー展開、さらに原節子と組んだ一連の作品群は世界中の映画ファンから愛され続けています。代表作とも言える1953年の『東京物語』は、英国映画協会によって世界の名作映画第1位に選ばれたこともあります。 小津は教師の職を経て、1923年に松竹蒲田撮影所に撮影助手として入社しました。1927年に『懺悔の刃』で監督デビューを果たしますが、なんと時代劇でした。その後は複数の作品を手掛ける中で、戦後の1949年に初めて原節子と組んだ『晩春』で「小津調」を確立したと言われています。 芸術性と大衆性の両方を合わせ持つ全54作品を残して、小津は1963年に60歳で他界します。しかし世界に小津を崇拝する映画監督は多く、例えばヴィム・ヴェンダースは『東京画』と題する小津にまつわるドキュメンタリーを製作するなどその傾倒ぶりはあまりに有名です。

70年代の日本映画を支えた名監督

加藤泰/『緋牡丹博徒』シリーズ

時代劇や任侠ものの名監督と言えば加藤泰です。1937年に東宝撮影所に入社しましたが、戦時中は満州で記録映画などを作っていました。終戦後に大映京都撮影所に入社し、そのころ黒澤明の『羅生門』の予告編を手掛けたことは有名です。 1956年に東映京都撮影所に移籍後は、時代劇から任侠路線へと向かう作品を多数手掛けるようになります。藤純子の『緋牡丹博徒』シリーズや安藤昇主演のヤクザもののほか、70年代には松竹でも『宮本武蔵』や『人生劇場』といった大ヒット作を連発しました。異色どころでは、1977年の『江戸川乱歩の陰獣』がカルト映画の傑作として知られています。 70年代には『水戸黄門』『大岡越前』といったテレビの人気時代劇の脚本を手掛けるようになり、次第にテレビが活動の中心になっていきました。1985年に他界しましたが、独特のスタイルを貫いた作品には今も根強いファンが多くいます。

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鈴木則文/『トラック野郎』シリーズ

1956年に東映京都撮影所に入社し、助監督として加藤泰や内田吐夢のもとで長く経験を積んだのが鈴木則文です。1965年に監督デビューし、3年後には藤純子主演の記念すべきシリーズ第1作『緋牡丹博徒』の脚本を手掛けました。 1974年には東映ポルノの傑作と誉れ高い多岐川裕美主演の『聖獣学園』を監督します。その後は、千葉真一や志穂美悦子のアクション映画の脚本に携わる一方、1975年に自ら監督と脚本を手掛けた菅原文太主演の『トラック野郎・御意見無用』を発表します。作品は大ヒットを記録して長らく続く国民的人気シリーズとなったことは周知の通りです。 80年代には菊池桃子のデビュー作『パンツの穴』や、安部譲二原作の『塀の中のプレイ・ボール』など異色作も手掛けましたが、それ以降はときおりテレビの時代劇に関わる程度で映画の表舞台からは退き、2014年に他界しました。

山田洋次/『男はつらいよ』シリーズ

今も現役で精力的に活動を続けている山田洋次は1931年の生まれです。新聞社勤めを経て松竹に入社します。野村芳太郎の助監督や脚本に携わりながら、1961年に『二階の他人』で監督デビューしました。 しばらくは大島渚ら才気あふれる「松竹ヌーベルバーグ」の面々に押されて隠れた存在でしたが、1969年にテレビドラマをもとにした『男はつらいよ』の第1作目を発表し、主演した渥美清とともに一躍喜劇監督としてその名を知られるところとなりました。70年代から1995年まで全48作を数える国民的ヒットシリーズになったことは説明するまでもないでしょう。 80歳を越えてからも、小津安二郎の『東京物語』をリメイクした『東京家族』や反戦映画『母と暮せば』、さらに『男はつらいよ』の喜劇性を彷彿とさせる『家族はつらいよ』など意欲的に新作を発表しています。

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市川崑/『おとうと』

市川崑は、1933年に東宝京都撮影所の前身であるJ.O.スタヂオの漫画部に入社し、アニメーターとして活動をスタートさせたという異色の経歴の持ち主です。その後、助監督を経て1948年に『花ひらく』で監督デビューしました。 東宝・日活・大映を渡り歩く中で数々の名作を残します。1956年の『ブルマの竪琴』、1959年の『野火』と『鍵』など、カンヌやヴェネツィアなど世界の名だたる映画祭で賞を受賞し国際的にも高い評価を得ました。賛否両論を巻き起こしたドキュメンタリー映画『東京オリンピック』の総監督を務めたのも市川です。 さらに70年代には『犬神家の一族』など横溝正史原作の「金田一耕助シリーズ」で一世を風靡する大ヒット作を次々と量産します。2008年に92歳で他界するまで、自身作品のリメイクなど精力的に新作を発表し続けました。

野村芳太郎/『砂の器』

市川崑と並び、70年代から80年代前半の娯楽映画を支えていたのが野村芳太郎です。父は映画監督の野村芳亭であり、その跡を継ぐように1941年に松竹大船撮影所に入社します。黒澤明の助監督を経て1952年に『鳩』で監督デビューを果たしました。 1958年の『張込み』以来、社会派としてその名を知られるようになります。松本清張原作の作品を多く手掛け、1974年に監督した『砂の器』はモスクワ国際映画祭において審査員特別賞に輝きました。そのまま国内でも大ヒットを記録した結果、文字通り野村の代表作となりました。 その勢いは衰えることなく、『事件』『鬼畜』『わるいやつら』など立て続けにヒット作を連発します。80年代後半以降は一線から退きましたが、山田洋次や小林政広などは野村のもとで学んだ門下生です。2005年に他界しました。

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長谷川和彦/『太陽を盗んだ男』

長谷川和彦は1946年生まれの広島県出身です。東京大学在学中に映画監督を志すようになり、今村昌平の今村プロに入社しました。『神々の深き欲望』などの製作に携わったあと、日活で契約助監督となります。藤田敏八や神代辰巳らのもと日活ロマンポルノの脚本など手掛け、その才能は業界で広く知られるところとなりました。 1975年にフリーとなり、翌年に満を持して監督した『青春の殺人者』でデビューします。作品はキネマ旬報の年間第1位に選ばれるなど主だった映画賞を席巻し、デビュー作とは思えない異例の高評価を獲得しました。1979年に発表した2作目『太陽を盗んだ男』も前作に劣らぬ高評価を得、ニューシネマの代表的監督とみなされたのもこの頃です。 1982年には相米慎二ら若手監督9人で「ディレクターズ・カンパニー」を設立し、長谷川は代表を務めるなど日本映画界に寄与し続けました。しかし自身の新作映画は前2作以後、2017年現在発表されていません。たった2作で名監督と言われ、今も新作を待ち続ける多くのファンを抱える稀有な存在です。

80年代の邦画を支えた名映画監督

石井岳龍/『狂い咲きサンダーロード』

2010年に改名して石井岳龍となりましたが、以前の名・石井聰亙と言えばうなずく人も多いでしょう。1957年福岡県に生まれた石井は、日大芸術学部在学中から自主映画の製作を開始し、ぴあフィルムフェスティバルに入選するなどその才能は早くから注目されていました。 1980年に『狂い咲きサンダーロード』、1982年に『爆裂都市 BURST CITY』と相次いで秀作を発表し、「インディーズ映画の旗手」と呼ばれるようになります。長谷川和彦らの「ディレクターズ・カンパニー」に参加してからはますます斬新なセンスに磨きをかけ、1984年の『逆噴射家族』はイタリアの映画祭でグランプリにも輝きました。 以後は、自らも音楽活動も行いながらミュージック・ビデオや短編、新ジャンルの実験映画などに果敢に取り組みます。中には『ユメノ銀河』など海外で高く評価されたものもあります。神戸芸術工科大学の教授として若者の指導にあたる傍ら、現役の監督として常に新たな挑戦を続けています。

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伊丹十三/『マルサの女』

映画監督の伊丹万作を父に持つ伊丹十三は、数入る映画監督の中でもとりわけその多才ぶりで突出しています。俳優、商業デザイナー、エッセイスト、タレント、イラストレーター、CMディレクターなどマルチな顔を持ち、しかもどれも一流の業績を残しているのが驚きです。 そんな中、映画監督としてのデビューは遅く、51歳になった1984年の『お葬式』でした。にもかかわらず様々な映画賞を独占するなど高い評価を受けて映画も大ヒットします。その後は妻である宮本信子と組んで『マルサの女』や『ミンボーの女』など、社会の闇を独特のコミカルなタッチで切り取る問題作を次々と発表していきました。 1997年12月20日、事務所のあるマンションの下に横たわった伊丹の遺体が発見されます。不可解な死は様々な憶測を呼び、中には次回作にまつわる他殺説から自殺説までささやかれましたが真相は明らかになっていません。遺作は同年公開の『マルタイの女』です。

相米慎二/『台風クラブ』

1948年に青森県で生まれた相米慎二は長谷川和彦に師事し、日活ロマンポルノの助監督としてキャリアをスタートさせました。1980年には薬師丸ひろ子主演の映画『翔んだカップル』で監督デビューを果たします。翌年に発表した『セーラー服と機関銃』は大ヒットを記録し、相米の名が広く注目されるきっかけになりました。 1982年には長谷川とともに「ディレクターズ・カンパニー」に所属し、意欲的に作品を発表していきます。1985年の『台風クラブ』で東京国際映画祭グランプリ、1993年の『お引越し』で芸術選奨文部大臣賞などどの作品も突出した評価を受け続ける一方、日活ロマンポルノでも『ラブホテル』という問題作を残しました。 ますますの活躍が期待されていた2001年、相米は肺ガンにより急死します。まだ53歳の若さでした。同年に公開された小泉今日子主演作『風花』が遺作となりました。

大林宣彦/『時をかける少女』

大林宣彦は1938年に広島県尾道市に生まれました。幼い頃から映画に親しむ中、学生時代には早くも自主製作映画を手掛け始め、やがて国際的にも高い評価を得るに至ります。一方、人気CMディレクターとして話題のCMを多数担当していました。 1977年に『HOUSE ハウス』で商業映画デビューを果たします。故郷の尾道市を舞台にした1982年の『転校生』はスマッシュヒットを記録し、続く『時をかける少女』『さびしんぼう』とあわせて「尾道3部作」と呼ばれ広く愛されています。 ベルリン国際映画祭の国際批評家連盟賞に輝いた1998年の『SADA』など芸術的秀作と、アイドルを起用した娯楽映画の両方で作品を作り続けました。監督のみならず脚本や編集を全て自ら担当するなど、かつて「自主製作映画のパイオニア」と呼ばれた才能を今もいかんなく発揮しています。

90年代に活躍した日本の映画監督

石井隆/『天使のはらわた』

石井隆は、早稲田大学在学中から映画ライターとして活動するかたわら、卒業後は劇画漫画家として才能を発揮します。出木英紀の名で発表した『天使のはらわた』は1978年に日活ロマンポルノで映画化されて人気シリーズとなりました。石井はシリーズ2作目で脚本、5作目でついに監督デビューを果たします。同時に、相米慎二監督の『ラブホテル』など、ロマンポルノの傑作の脚本を複数手掛けました。 90年代には、大竹しのぶ主演の『死んでもいい』や竹中直人主演の『ヌードの夜』など、『天使のはらわた』に繋がるノワール作品を立て続けに発表し、監督としても脚光を浴びます。両作品は海外の映画祭においても高い評価を受けました。 また1995年に公開された『GONIN』 も人気シリーズとなります。2015年には原作から担当した第3弾『GONIN サーガ』が公開され、石井が復帰を熱望し実現した根津甚八の遺作としても記憶に残る作品となりました。

森田芳光/『家族ゲーム』

1950年生まれの森田芳光は、子役として活動していたこともある異色の経歴の持ち主です。高校生の頃に映画製作に目覚めて日大芸術学部に進み、自主映画を製作するようになります。1981年に『の・ようなもの』でついに監督デビューを果たしました。 1983年に松田優作主演で監督した『家族ゲーム』が大ヒットします。興行的成功ばかりか、キネマ旬報の第1位にランキングされるなど批評家筋にも受け、一躍気鋭の監督として注目されることになりました。以後は文芸大作『それから』、とんねるず主演の『そろばんずく』、渡辺淳一原作の『失楽園』など多岐に渡る様々なジャンルの作品を手掛けます。 コンスタントに話題作を提供し続けていた森田ですが、2011年に急性肝不全により61歳の若さで急死しました。死後の翌年に公開された『僕達急行 A列車で行こう』が遺作です。

塚本晋也/『鉄男』

監督はもちろん、脚本・撮影・美術などから主演までこなすという日本映画界きっての鬼才が塚本晋也です。日大芸術学部卒業後、CF制作会社を経て製作した『電柱小僧の冒険』がぴあフィルムフェスティバルでグランプリを受賞し、注目を集めます。 1989年の『鉄男』は、ローマ国際ファンタスティック映画祭においてグランプリを受賞し、一躍その才能が世界的に知られるようになりました。90年代は『鉄男II BODY HAMMER』や『双生児-GEMINI-』など特異な世界を描く異色作を発表し続けました。 2002年の『六月の蛇』、2012年の『KOTOKO』がともにヴェネツィア国際映画祭で賞を受賞するなど、特にイタリアでは抜群の人気を誇ります。2015年にはリメイク映画『野火』を発表しましたが、もちろん主演も塚本自身です。

周防正行/『Shall we ダンス?』

立教大学からイメージフォーラム映像研究所に進み、その間、高橋伴明や若松孝二らの助監督を務めながら経験を積んできた周防正行は、1984年にピンク映画『変態家族 兄貴の嫁さん』で監督デビューしました。 その後は商業映画に移り、1992年に発表した『シコふんじゃった。』が日本アカデミー賞最優秀作品賞など主要な賞を独占し、人気監督に躍り出ます。続く1996年の『Shall We ダンス?』は高評価とともに興行的にも大ヒットを記録し、名監督の地位を不動のものにしました。同作は、後にリチャード・ギア主演でリメイクもされています。 しばらく新作のない状態が続いていましたが、2006年に社会派の作品『それでもボクはやってない』を発表し見事にカムバックします。2013年の『終の信託』は『Shall we ダンス?』以来16年ぶりとなる妻の草刈民代が主演し話題になりました。寡作ながら、常に秀作を手掛けています。

2000年代から活躍している名監督

三池崇史/『着信アリ』

三池崇史は、今村昌平の創設した横浜放送映画専門学院出身です。先輩の紹介でテレビの仕事を手伝うようになり、やがて1991年にビデオ作品で監督デビューしました。初の劇場映画は1995年の『新宿黒社会 チャイナ・マフィア戦争』です。 Vシネマや劇場映画を問わず、またアクションからホラーやコメディまで様々なジャンルの作品を手掛ける中で、次第に確たる地位を築いていきます。とりわけ斬新なバイオレンス・アクション描写を得意としており、複数の作品が国際映画祭で賞を受賞するなど海外でもその名は広く知られています。 毎年精力的に複数作品を監督しており、2017年もすでに『無限の住人』が公開され、8月には話題のアニメ実写版『ジョジョの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない 第一章』が待機しています。

三谷幸喜/『ザ・マジックアワー』

日大芸術学部演劇科に在籍中だった1983年に劇団「東京サンシャインボーイズ」を旗揚げし成功させた三谷幸喜は、やがてテレビで人気放送作家としても頭角を現します。手掛けた作品の中には『やっぱり猫が好き』などヒット番組もありました。 1993年に『振り返れば奴がいる』でドラマ脚本家としてデビューし、以後は『警部補・古畑任三郎』など多くの大ヒット作を手掛けます。映画監督デビューは、1997年の『ラヂオの時間』。2000年代以降は、『THE 有頂天ホテル』や『ザ・マジックアワー』『ステキな金縛り』など次々と三谷ワールド全開のコメディ映画を世に送り出しヒットさせています。 アメリカのビリー・ワイルダーやニール・サイモンを敬愛しているだけあって、日本人離れした軽妙な会話とユーモアで描く喜劇は、他の真似を許さないオリジナリティを誇っています。

園子温/『愛のむきだし』

園子温は1961年愛知県に生まれ、高校生のときに詩人としてデビューしたという経歴の持ち主です。法政大学在学中に映画製作に目覚め、1985年に『俺は園子温だ!』を発表し注目されました。翌年の『男の花道』もぴあフィルムフェスティバルでグランプリを受賞し、一躍インディペンデント系の先鋒となります。 その後に監督した作品は、国内よりむしろ海外で高評価を得る中、2008年に発表した4時間超の大作映画『愛のむきだし』がヴェネツィア国際映画祭で国際批評家連盟賞を受賞し、大きな衝撃を与えます。2010年の『冷たい熱帯魚』でその地位を確たるものにしました。 強い作家性と一切の容赦ない描写は、園子温が唯一無二の監督であることを証明しており、2010年代に入っても『ヒミズ』『希望の国』『新宿スワン』などさらに果敢に問題作・話題作を発表し続けています。

黒沢清/『トウキョウソナタ』

高校の頃から自主映画を製作していた黒沢清は、立教大学在学中の1981年にぴあフィルムフェスティバルに入選します。長谷川和彦の『太陽を盗んだ男』や相米慎二の『セーラー服と機関銃』に助監督などスタッフとして参加し、1983年にピンク映画『神田川淫乱戦争』で監督デビューしました。 1997年の『CURE』が国際的にも高評価を得たのを皮切りに秀作を発表し続け、2008年にはついに『トウキョウソナタ』でカンヌ国際映画祭の審査員賞に輝きました。 決して作品数は多くないものの、その後も2015年の『岸辺の旅』がやはりカンヌの「ある視点」部門監督賞を受賞するなどその才能は衰えていません。学生時代には蓮實重彦に師事するなど、映画批評家・作家としての顔も持っています。

山下敦弘/『リンダ リンダ リンダ』

1976年生まれの山下敦弘は早くから自主映画に関わり、大阪芸術大学映像学科の卒業制作『どんてん生活』がゆうばり国際ファンタスティック映画祭においてオフシアター部門グランプリを受賞するという幸運なスタートを切りました。 『ばかのハコ船』や『リアリズムの宿』など独特のユーモアをたたえた作品を発表する中、2005年の『リンダ リンダ リンダ』がヒットし、人気監督の地位を築きました。2007年の『天然コケッコー』が報知映画賞の監督賞を受賞するなど、キネマ旬報の年間トップ10の常連監督でもあります。 テレビドラマの演出も手掛け、2017年にはテレビ番組から派生したモキュメンタリー異色作『映画 山田孝之3D』が公開されます。

井筒和幸/『パッチギ!』

井筒和幸は、自主映画製作を経て1975年にピンク映画『行く行くマイトガイ 性春の悶々』で監督デビューします。1981年に一般映画『ガキ帝国』を監督したのを契機にピンク映画界から去り、『みゆき』や『二代目はクリスチャン』など娯楽作品を多く手掛けるようになりました。 1996年の『岸和田少年愚連隊』がブルーリボン最優秀作品賞を受賞し注目されます。在日韓国人を描いた2004年の『パッチギ!』が大ヒットを記録し、一躍人気監督の一人となりました。 その後は映画監督よりタレントとしてテレビのバラエティ番組などに出演することが多く、2012年の『黄金を抱いて翔べ』以来、新作がありません。映画評などにおける歯に衣着せぬ発言は炎上することもしばしばですが、独特の主張と個性を持つ監督として新しいオリジナル作品が待望されています。

橋口亮輔/『ぐるりのこと。』

非常に寡作ながらも常に問題作を発表し、どれもが非常に高い評価を受けている橋口亮輔も自主映画出身です。大阪芸術大学在学中に製作した複数の作品が連続してぴあフィルムフェスティバルに入選し、ずば抜けた才能はその頃から注目されていました。 1993年には正式な監督デビュー作としてLGBTを題材にした『二十才の微熱』を発表します。1995年の『渚のシンドバッド』がロッテルダム国際映画祭でグランプリを受賞したことに続き、3作目となる2001年の『ハッシュ!』はカンヌ国際映画祭で高い評価を受けました。 ゲイであることを公言しており、うつ病の克服などを経て2008年に発表した4作目の『ぐるりのこと。』で再び数々の賞を席巻します。2015年の『恋人たち』もキネマ旬報の年間第1位に輝くなど、常に新作が熱狂的に待望されている監督の1人です。

犬童一心/『ジョゼと虎と魚たち』

高校生のときに製作した作品が早くもぴあフィルムフェスティバルに入選した犬童一心は、以後しばらく人気CMディレクターとして活躍していました。1994年に『二人が喋ってる。』で長編監督デビューを果たし、日本映画監督協会新人賞を受賞します。 2000年代に入ると『ジョゼと虎と魚たち』『メゾン・ド・ヒミコ』など意欲的にヒット作を手掛けます。また漫画家・大島弓子のファンを自認し、『グーグーだって猫である』のテレビドラマ版・映画版ともに犬童が監督を担当しました。 2012年に話題を呼んだ『のぼうの城』では樋口真嗣と共同監督を担い、ともに日本アカデミー賞優秀監督賞を受賞しています。

豊田利晃/『青い春』

豊田利晃は、1991年に阪本順治監督の『王手』で脚本家としてデビューします。小学生の頃からプロを目指し本格的に取り組んだ将棋の経験をもとに執筆したものでした。1998年に『ポルノスター』で脚本家兼監督としてデビューを果たしました。 『青い春』や『ナイン・ソウルズ』など順調に秀作を発表していた矢先、薬物事件を起こししばらく表舞台から姿を消すことになります。しかし、2009年には『蘇りの血』で見事に再起し、変わらぬ才能を披露しました。 2014年には人気シリーズ3作目『クローズEXPLODE』を監督し、2017年11月公開の劇場版『火花』では脚本を担当しています。

荻上直子/『かもめ食堂』

1972年生まれの荻上直子は、出身地の千葉の大学を卒業後に渡米し、名門の南カリフォルニア大学大学院映画学科に学びました。帰国後製作した作品がぴあフィルムフェスティバルに入賞します。2003年に監督デビューを果たした『バーバー吉野』は、ベルリン国際映画祭の児童映画部門で特別賞を受賞しました。 フィンランドのヘルシンキで撮影した2006年の『かもめ食堂』が異例の大ヒットを記録し、一躍人気監督に躍り出ます。続く翌年の『めがね』も同じく、興行的にも批評的にも大成功しました。 女性らしい独特の空気感が奏でる人間模様を淡々と描く萩上の作品は、その後の『トイレット』『レンタネコ』とも高評価を得ます。2017年にはLGBTをテーマにした『彼らが本気で編むときは、』を発表し、ベルリン国際映画祭でテディ審査員特別賞と観客賞をダブルで受賞しました。

岩井俊二/『花とアリス』

ミュージックビデオの仕事を経て1993年に演出したテレビドラマ『if もしも~打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』が話題になり、ドラマ作品にもかかわらず日本映画監督協会新人賞を受賞します。岩井俊二の名が映画界に知られるきっかけになりました。 1995年に監督した『Love Letter』は韓国などアジア数か国でヒットを記録し、その後は『スワロウテイル』や『リリィ・シュシュのすべて』など「岩井ワールド」とも呼ばれる作家性の強い異色作を次々と発表しました。2004年に公開された『花とアリス』は出演した蒼井優の代表作にもなりました。 映画監督としてのみならず、CM・MVディレクター、脚本家、音楽家、小説家、プロデューサーなどマルチな顔を持ち、2016年の『リップヴァンウィンクルの花嫁』でももちろん原作から監督、脚本、編集まで一人で手掛けています。

行定勲/『世界の中心で、愛をさけぶ』

行定勲は東放学園映画専門学校で学んだあと、制作会社で岩井俊二のテレビドラマや映画の助監督を務めながら経験を積みました。 1997年に初監督した『OPEN HOUSE』は、地方映画祭ながらいきなりグランプリを受賞し一躍注目を集めます。劇場映画デビュー作となった2000年の『ひまわり』は釜山国際映画祭批評家連盟賞を受賞しました。 2001年の『GO』が国内のあらゆる映画祭を席巻したほか、2004年の『世界の中心で、愛をさけぶ』は社会現象と呼べるほどの大ヒット作となるなど、ヒットメーカーの名を欲しいままにします。日中合作の大作映画『真夜中の五分前』から、加藤シゲアキのデビュー小説を原作にした青春映画『ピンクとグレー』まで様々なジャンルをこなす器用さも特徴です。

本広克行/『踊る大捜査線』シリーズ

本広克行は今村昌平の横浜放送映画専門学院を卒業後、複数の制作会社などを転々としながらディレクター、ドラマ演出家、監督へとキャリアを積んでいきました。映画監督としてのデビューは、1996年フジテレビ製作の『7月7日、晴れ」』です。 本広の名を一躍有名にした作品が織田裕二主演の『踊る大捜査線』です。高視聴率を記録したドラマに続いて劇場版の監督も本広が手掛け、1998年から2012年まで4部作でシリーズ化したどの作品も大ヒットしました。 一時は演劇界での活動がメインになったこともありましたが、2017年秋には『亜人』、2018年には『曇天に笑う』という話題の作品が控えており、ともに本広がメガホンをとっています。

堤幸彦/『トリック』シリーズ

本広克行と同じくテレビ業界から映画界に進出し、とりわけ2000年代に際立った活躍をした映画監督の一人が堤幸彦です。劇場映画デビューとなったのは、森田芳光が総指揮をつとめた1988年のオムニバス映画『バカヤロー! 私、怒ってます』の中の「英語がなんだ」でした。 監督としての堤を一躍ヒットメーカーにしたのは、テレビドラマから劇場版が製作された『金田一少年の事件簿』や『SPEC』『トリック』など人気シリーズです。独特の感性とユーモアで描かれる斬新な映像世界は多くの熱狂的なファンを生みました。 2005年には『明日の記憶』というシリアスものも手掛けて高い評価を得る一方、2008年から翌年にかけて3部作で公開された『20世紀少年』では従来の堤ワールド全開でマルチな才能を発揮しています。

2010年代から活躍している名監督

大森立嗣/『まほろ駅前多田便利軒』

大森立嗣は、父が舞踊家兼俳優の麿赤児、弟が俳優の大森南朋という芸能一家の出身です。大森自身も大学在学中に映画製作をスタートするかたわら、すでに俳優として活動していました。阪本順治や井筒和幸の助監督を経て、2005年に花村萬月原作の『ゲルマニウムの夜』で監督デビューを果たします。 2011年には三浦しをん原作の『まほろ駅前多田便利軒』、2013年には吉田修一原作の『さよなら渓谷』のメガホンをとるなど、純文学性の強い作品を得意としています。後者は、モスクワ国際映画祭で審査員特別賞を受賞しました。 俳優としては熊切和嘉監督の『海炭市叙景』や梁英姫監督の『かぞくのくに』など秀作にときおり出演します。2016年には人気コミックを原作に池松壮亮と菅田将暉を配した『セトウツミ』を監督し話題になりました。そして再び三浦しをん原作に取り組んだ『光』が2017年秋に公開です。

呉美保/『そこのみにて光輝く』

呉美保は大阪芸術大学芸術学部映像学科に学び、同期には山下敦弘がいます。卒業後は大林宣彦事務所に入社してスクリプターを務めながら経験を積みました。合わせて、自ら手掛けた短編『め』や『ハルモニ』などで国内外数々の賞を受賞します。 2005年には初の長編『酒井家のしあわせ』で監督デビューを果たしました。大竹しのぶと宮崎あおいという大御所を迎えた2作目の『オカンの嫁入り』ともども、すでにこの頃から新人らしからぬ手腕を発揮します。 2014年に監督した『そこのみにて光輝く』はモントリオール世界映画祭で最優秀監督賞に輝いたばかりか、国内でも主だった監督賞を独占しました。同作はキネマ旬報でも年間第1位に選ばれるなど、わずか3作にして実力派監督の地位を不動のものにしています。

是枝裕和/『そして父になる』

1987年に早稲田大学第一文学部卒業をした是枝裕和は、大手制作会社のテレビマンユニオンに入社し、ドキュメンタリー番組の演出などを担当していました。1995年に『幻の光』で監督デビューを果たすと、いきなりヴェネツィア国際映画祭で撮影賞を受賞し脚光を浴びます。 発表する作品が常に国内外で高く評価される中、2004年の『誰も知らない』はカンヌ国際映画祭で柳楽優弥を日本人初の最優秀男優賞に導きました。さらに2013年の『そして父になる』が同・映画祭の審査員賞に輝くなど、名実ともに名匠の地位を確たるものにしています。 『海街diary』『海よりもまだ深く』と毎年コンスタントに秀作を発表し続け、2017年は再び福山雅治と組んだ『三度目の殺人』が9月に公開されます。またプロデューサーとしても精力的に活動し、西川美和らの作品を手掛けています。

李相日/『怒り』

李相日は今村昌平が築いた学校の後身である日本映画学校(現在は大学)で学び、卒業制作『青〜chong〜』がぴあフィルムフェスティバルで史上初の4部門独占という快挙を成し遂げます。助監督を経て、2002年に『BORDER LINE』で監督デビューしました。 長編4作目となる2006年の『フラガール』は興行的にヒットしたばかりか、キネマ旬報第1位や日本アカデミー賞最優秀作品賞などあらゆる賞を総なめにします。吉田修一の原作を映画化した2010年の『悪人』と2016年の『怒り』の2作は、深遠なテーマを見事に映像化して李相日の代表作となりました。 2017年4月に公開されたオムニバス映画『ブルーハーツが聴こえる』では、豊川悦司主演「1001のバイオリン」を担当するなど、今最も脂の乗った監督の1人です。

大友啓史/『るろうに剣心』

フリーになる2011年までNHK職員だったという異色のキャリアを歩んでいるのが大友啓史です。NHKで手掛けた作品には大河ドラマ『秀吉』や『龍馬伝』、朝ドラ『ちゅらさん』などがあります。また企業ドラマ『ハゲタカ』は評判をよび、2009年に製作された劇場版が大友の監督デビュー作となりました。 フリーになって初めて手掛けた『るろうに剣心』はシリーズ化する大ヒットを記録し、その後も『プラチナデータ』『ミュージアム』と順調に作品を発表し続けています。 2017年には大友がメガホンをとった『3月のライオン』が公開されました。人気絶頂の神木隆之介を主演に迎え、アニメ化もされた伝説的コミックを前後編の2部作として見事に実写映画化することに成功しています。

宮藤官九郎/『少年メリケンサック』

「クドカン」と呼ばれて抜群の人気を誇る宮藤官九郎は、1970年宮城県生まれです。1991年に松尾スズキが主宰する劇団「大人計画」に入団し、作・演出からテレビの構成作家としても活動するようになります。テレビドラマ『池袋ウエストゲートパーク』や映画『GO』で人気脚本家の地位を確立しました。 監督としてのデビューは2005年の『真夜中の弥次さん喜多さん』です。その後は『少年メリケンサック』や『中学生円山』などで脚本と監督を兼任し、「クドカンワールド」を全開させています。 脚本家としては朝ドラ『あまちゃん』の国民的ヒットに加え、2019年には大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』が控えています。俳優やミュージシャンの顔も持ち、マルチな才能をいかんなく発揮しつつ、映画監督としてもさらなる活躍が期待される逸材です。

福田雄一/『HK 変態仮面』

三谷幸喜や宮藤官九郎と同じく、劇作家・構成作家のバックグラウンドを持つ監督が福田雄一です。1990年に劇団「ブラボーカンパニー」を旗揚げし、構成作家としては『笑っていいとも!』や『SMAP×SMAP』など人気番組を多数手掛けていました。 映画は数作の脚本を担当したのち、2009年に『大洗にも星はふるなり』で監督デビューを果たします。その後も『コドモ警察』や『HK 変態仮面』など監督・脚本の両方を手掛けた話題作を放ち、ヒットに導きました。 独特のコメディセンスあふれる奇抜な作品で鬼才ぶりを発揮し、現在もテレビ・映画の垣根を越えて目覚ましい活躍をしています。熱狂的なファンを生んだテレビの『勇者ヨシヒコ』シリーズや、映画では2017年7月に公開される人気漫画待望の実写版『銀魂』の監督・脚本を福田がつとめています。

佐藤信介/『図書館戦争』

佐藤信介は武蔵野美術大学在学中に製作した『寮内厳粛』が、ぴあフィルムフェスティバルでグランプリを受賞し注目されます。その後は脚本家として市川準や行定勲の作品に参加したあと、2001年に『LOVE SONG』で劇場映画の監督デビューを果たしました。 『ホッタラケの島 遥と魔法の鏡』といった長編アニメの監督もこなすかたわら、近未来のSFアクションを得意とする佐藤は2部作となった『GANTZ』、3部作となった『図書館戦争』など大作シリーズも見事に完結させました。 その手腕が認められ、『アイアムアヒーロー』や『デスノート Light up the NEW world』などの監督に抜擢されます。2018年に公開が予定されている実写版『いぬやしき』のメガホンをとることも決定しました。

大根仁/『バクマン。』

専門学校在学中に制作したPVが堤幸彦に評価され、まずADとしてキャリアをスタートさせたのが大根仁です。堤の『TRICK』などに携わったあと、演出家として深夜ドラマなどを担当し、徐々に頭角を現します。 映画監督デビューは、自身が演出から脚本まで担当したドラマ『モテキ』の劇場版です。2010年に公開されるや大ヒットを記録し、日本アカデミー賞では話題賞に輝きました。 映画やドラマのみならず、舞台やミュージック・ビデオも多数手掛け、さらにラジオのパーソナリティをつとめるなどユニークな鬼才ぶりを発揮しています。2017年8月に公開されるドラマのアニメ映画版『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』の脚本を担当しているのも大根です。

タナダユキ/『百万円と苦虫女』

タナダユキはイメージフォーラム映像研究所で学びながら、自ら監督・脚本・主演まで務めた作品『モル』がぴあフィルムフェスティバルでグランプリはじめ二冠に輝き、その才能に一躍スポットライトが当たります。 2004年に『月とチェリー』を監督する一方、翌年には杉作J太郎監督による『怪奇!!幽霊スナック殴り込み!』で主演女優をつとめるなど多才ぶりをいかんなく発揮。2008年に監督と脚本を務めた『百万円と苦虫女』で日本映画監督協会新人賞を受賞しました。 しばらくはテレビや執筆活動が中心になりましたが、2012年にメガホンをとった『ふがいない僕は空を見た』が高い評価を受けます。その後は『四十九日のレシピ』『ロマンス』など、女流監督らしい繊細なタッチを持ち味にした秀作を発表しています。

今後の活躍に注目!新進気鋭の映画監督

富田克也/『サウダーヂ』

1972年生まれの富田克也は映画美学校に学び、2003年に『雲の上』で監督デビューしました。続く2007年の『国道20号線』が高く評価され、一躍気鋭の監督として注目を集めます。 2011年に監督した3作目の『サウダーヂ』は、故郷である山梨県甲府市に生きる地方独特の人間模様を描き、ナント三大陸映画祭グランプリなど国内外複数の賞を受賞しました。 2016年に発表した『バンコクナイツ』は、構想10年の末、タイ人娼婦と日本人男性の破天荒な恋と旅を国際色豊かに描いた大作です。富田が得意する地に足をつけて生きる市井の人間たちの姿が圧倒的な感動を呼び、ロカルノ国際映画祭において若手審査員賞に輝きました。同作や『サウダーヂ』の脚本を手掛けた相澤虎之助らともに「映画作家集団空族」を結成しています。

沖田修一/『横道世之介』

1977年生まれの沖田修一は、日大芸術学部映画学科卒業後に手掛けた短編『鍋と友達』が、水戸短編映像祭においてグランプリを受賞します。2009年に発表した初の劇場映画『南極料理人』は権威ある新藤兼人賞金賞を受賞し、その名が映画界に広く知られるところとなりました。 2作目となる2011年の『キツツキと雨』は、役所広司や小栗旬ら新人らしからぬ豪華キャストを揃え、東京国際映画祭において審査員特別賞を受賞します。さらにドバイ国際映画祭でも複数の賞に輝き、世界的にも注目される新進監督として名乗りをあげました。 2013年の『横道世之介』や2016年の『モヒカン故郷に帰る』など、独特のコメディセンスあふれるオリジナリティは非常に高い評価を受けています。

三浦大輔/『何者』

1975年生まれの三浦大輔は、早稲田大学演劇倶楽部の所属メンバーで1996年に演劇ユニット「ポツドール」を旗揚げし、これまで同舞台の作・演出を多数手掛けてきました。2010年には『ボーイズ・オン・ザ・ラン』で映画監督デビューも果たします。 2014年に、演劇界で権威のある岸田國士戯曲賞を受賞した舞台『愛の渦』を自ら映画化し、話題をさらいます。同じく舞台『裏切りの街』も池松壮亮主演でドラマ化され、三浦が監督をつとめました。 若者の今を切り取るフレッシュな才能は高く評価され、朝井リョウが直木賞を受賞した話題作『何者』の監督に抜擢されます。脚本も担当し、有村架純や二階堂ふみ、菅田将暉ら今をときめく多数の若手俳優たちが共演する群像劇を見事に映画化することに成功しています。

安藤桃子/『0.5ミリ』

父が奥田瑛二、母が安藤和津、妹は安藤サクラという完璧な芸能人一家に育った安藤桃子は、留学先のロンドンとニューヨークで映画製作を学びます。恵まれた環境の中、帰国後の2010年に自ら脚本も手掛けた『カケラ』で監督デビューしました。 2011年には小説『0.5ミリ』を出版し、自らの手で映画化を企画します。妹の安藤サクラを主演女優に迎えて2014年に公開された本作は、キネマ旬報の年間第2位に選ばれるなど非常に高い評価を受けました。 ヨコハマ映画祭で監督賞、毎日映画コンクールで脚本賞を受賞したほか、上海国際映画祭で最優秀監督賞と優秀脚本賞を受賞するなど国際的な評価も得ます。芸能一家の二世としてではなく、新作が待望される才能ある新進女流監督の一人に名乗りをあげました。

吉田大八/『桐島、部活やめるってよ』

1963年生まれの吉田大八は、CMディレクターとして数々の作品を手掛け、長らく広告業界の第一線で活躍していました。CMのほか、ミュージック・ビデオや短編などを手掛けつつ、2007年に『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』で劇場映画の監督としてデビューします。同作はいきなりカンヌ国際映画祭の批評家週間で上映され、話題をさらいました。 映画監督として吉田の名声を確たるものにしたのが、2012年の『桐島、部活やめるってよ』と続く2014年の『紙の月』です。両作品とも様々な映画賞を席巻し、吉田はCMディレクターとしてではなく、映画のヒットメーカーとして認知されるに至りました。 2017年5月には、三島由紀夫の小説に挑んだ意欲作『美しい星』が公開されました。

酒井麻衣/『いいにおいのする映画』

酒井麻衣は1991年の生まれで、2017年6月現在でもまだ25歳という極めて早熟な新進監督です。京都造形芸術大学で学び、在学中に製作した『棒つきキャンディー』が山形国際ムービーフェスティバルで審査員特別賞を受賞するなど、早くからその才能を開花させます。 林海象の助監督などを経て、2016年に実在の音楽集団をモチーフにした異色作『いいにおいのする映画』を発表します。同作は、「MOOSIC LAB 2015」においてグランプリはじめ6部門を独占するという快挙を達成しました。 酒井の才能と若さに注目が集まる中、2017年4月には『はらはらなのか。』が公開されました。人気モデルの原菜乃華が映画初主演するファンタジー感あふれる少女ドラマで、酒井麻衣のみずみずしい演出が光っています。

井口昇/『片腕マシンガール』

劇団「大人計画」に所属する俳優としても活躍する井口昇は1969年生まれです。イメージフォーラム映像研究所在籍中に製作した『わびしゃび』が同所のフェスティバルで審査員賞を受賞します。その後はアダルトビデオの監督を経て、一般映画を手掛けるようになりました。 2007年に監督と脚本を手掛けたスプラッター映画『片腕マシンガール』が評判を呼びます。国内ばかりが海外でもカルト的人気を誇り、鬼才・井口の名が広く知られるきっかけになりました。 その後も『電人ザボーガー』や『デッド寿司』などB級映画感あふれる娯楽作品を続々と発表します。2017年3月には異形ヒーローを描く『スレイブメン』が公開されました。井口の斬新な映像世界は、世界中に多くの熱狂的なファンを抱えています。

松居大悟/『私たちのハァハァ』

松居大悟は1985年生まれで、2017年6月現在まだ若干31歳の新鋭です。三浦大輔が早稲田大学の演劇部にルーツを持つのに対し、松井は慶応義塾大学の演劇サークル「創像工房 in front of」の一員としてキャリアをスタートさせました。2006年に新しく「ゴジゲン」を旗揚げし、松井が作・演出を手掛けています。 2010年に発表した自主映画『ちょうどいい幸せ』が沖縄映像祭でグランプリを受賞し、監督として注目されます。その2年後にはのりつけ雅春原作の『アフロ田中』で劇場映画の監督デビューを果たしました。 2015年には『ワンダフルワールドエンド』と『私たちのハァハァ』の2作を連続して手掛け、TAMA映画賞の最優秀新進監督賞を受賞します。翌年には蒼井優と高畑充希という人気女優を迎えた『アズミ・ハルコは行方不明』を発表するなど、今最も勢いのある若手監督の一人です。