2018年12月12日更新

【ネタバレ】ホラー映画『来る』が描いた本当に怖いもの ぼぎわんの正体を徹底解説・考察

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『来る』
(c)ciatr

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ホラー映画『来る』で感じる恐怖と謎を、ネタバレ徹底解説

「来る。」何が、来るのか。それは恐ろしいバケモノ、ぼぎわんだ。ぼぎわんとは何か。それは主人公の田原秀樹の実家地域で言い伝えられた、「悪さばかりする子、言うことを聞かない子を山に攫ってく」妖怪である。主人公の田原秀樹は幼少期、このぼぎわんが「来る」という同級生の女の子チサちゃんがいた。この子は秀樹にも「お前のところにも来る」と、なんとも物騒なことを言う。それは、彼が“嘘つき”だから。 そんな幼少期の回想からはじまる、中島哲也監督作『来る』。テンポの良いストーリー構成と、圧倒される映像、怒涛な展開と恐怖に飲み込まれてしまうような本作は、公開した土日に10万1000人を動員、興収1億3700万円という結果をおさめた。 そんな『来る』の評価と共に、作品の謎について迫る。何故、田原家はぼぎわんに狙われたのか。そして、ぼぎわんの正体とは。

映画のあらすじ・キャストはこちらから【ネタバレなし】

評価がはっきり分かれる?興収ランキングは初週3位スタート

本作は“正月映画”として東宝が売り出した本命作品だった。それは中島哲也が監督し空前の大ヒットを記録した『告白』そして『渇き。』に出演していたキャストの起用、そして川村元気プロデュースという顔ぶれから、伺えることだ。 しかし、公開直後の土日の興収は公開3週目に入った『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』そして5週目の『ボヘミアン・ラプソディ』に負けて3位スタートという結果に。思ったほど伸びていない背景として考えられるのは、「ホラー映画というジャンル」にあるのかもしれない。しかし本作はどちらかというとミステリー映画だ。 さらに、評価としては「中島哲也監督の毛色が強く出すぎている、人間に注目していてお化けに興味がない。ホラー映画を作るのに向いていない」という厳しい声がある。その一方で、「ホラー映画にしては二時間越えでありながらも、飽きさせることのないスピードで展開されていく物語。クライマックスの祈祷シーンは『シン・ゴジラ』を彷彿とさせて、しっかり“最恐エンターテイメント”になれている」と、賞賛の声が上がっているのも確かだ。

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【ネタバレ注意】田原秀樹の罪とは。彼は何故ぼぎわんに命を狙われたのか

ぼぎわんが“来る”人物の共通点

本作でぼぎわんに命を狙われた人間には、ある共通点がある。それは、買った「恨み」と「罪」である。この二点を軸に一人一人が何故ぼぎわんに命を狙われたのかを考えていきたいと思う。 まずは、初っ端から狙われていた妻夫木演じる秀樹だ。彼が狙われた理由は、本記事の冒頭でも記した通り、彼が幼少期から“嘘つき”だったから。嘘つく人間というのは、老若男女関わらず大抵忌み嫌われる。しかし、特に嘘の善悪(例えば人のことを救うような嘘がある)がつかない、嘘=完全悪としか考えられない幼い子供からすれば、嘘つきに対するヘイトはなお一層強いと考えられる。そういった「恨み」を既に受けていた秀樹は、その後ぼぎわんに攫われたとされる同級生のチサちゃんに「次はお前だ」と予告を受けていた。

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“自称イクメン”が田原秀樹の罪

彼は、ぼぎわんから逃げるように生きてきた。だからこそ、トラウマ的なチサちゃんの記憶であったり、怖い妖怪に関する思い出であったりは頭の中から完全削除。しかし、人間というのはそうすぐに変わるものでもないので、彼は大人になっても相変わらず軽薄で嘘つきな男だったのだ。 特に、ネット上で自己を高く評価されることに没頭しすぎて、現実とかけ離れた理想の自分を作り上げてしまった点。ブログでは自称イクメンの男が、家事や育児を一切手伝わなければ「たった一人子供を産んだだけで偉そうに」とキーボードを叩きながらヘラヘラと愚痴るのだ。これが、彼の「罪」であり、彼はこの行為を通してより「恨み」を買うこととなった。 結果、彼なりに家族を守ろうと最善を尽くしたが、ぼぎわんの「嘘」に騙されて絶命してしまう。なんて皮肉な話なのだろう。

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香奈と知紗の罪。呪いを強力にしたのは彼らだった

津田の妬みによって、ぼぎわんに狙われることになった親子

さて、上の秀樹に対する「恨み」をさらにヒートアップさせたのが妻である香奈である。原因は、彼の育児放棄とその傲慢さ、そして何より周りの人間に対して繕った「偽りの姿」だろう。私が香奈だったら、秀樹がいない間にブログの内容を全部消してやる。 それはさておき、彼女と娘の知紗はターゲットであった秀樹が死んだ後もぼぎわんに狙われていた。これは、秀樹の学生時代からの友人であった、イケメン民族学者の津田のせいだった。彼は自身の民族学の知識を悪用し、護摩札を使って、ぼぎわんを田原家に呼び寄せていたのだ。護摩札とは、普通は良い効果をもたらすお守りだが、意図的に中身の文字や作りを変えることで「呪い」の代物に変わるのだそう。 野崎は田原家に置いてあった、この護摩札を不信に思い、調べたところ本物と違っていたことがわかったため、真琴に電話で燃やすように伝えた。

育児ノイローゼに陥った香奈と、孤独を感じた知紗

しかし時すでに遅く、真琴の力でも抑えきれないほど、ぼぎわんの力は強くなっていた。そこに大きく起因しているのが、妻・香奈の持つ夫や自分の母への恨み。そして育児ノイローゼによって香奈から恨まれ、自分の存在を恨んだ知紗なのだった。 日頃嫌っていた母と同じ道を辿ったことが罪だった香奈は、「母親は小さい頃、私がこの世に存在するせいで自分に良くないことが起きた」と語っていた。なんでも子供のせいにする、というわけだ。 残念ながら、これも皮肉なことに、香奈は自分の母親と同じようになってしまい、最終的にぼぎわんの手にかかって絶命してしまう。非常に恐ろしいのが、彼女が唯一見せた安堵の顔は、彼女が絶命した時の表情だった。彼女にとっては最早、生より死が安らぎだったのだ。 そしてそんな母親から受けるヘイトや孤独感を感じる中、ぼぎわんと接触し仲良くなったうえで「自分がこの世にいなくても良い」と感じたことが知紗の「罪」ではないだろうか。

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津田と秀樹の後輩が受けた「噛み傷」とは

先述の津田は、その後秀樹の会社の後輩である高梨と同じような末路を辿って死んでしまう。 この高梨という後輩は、不運なことに秀樹の生前、彼に会いに会社にきたぼぎわんに遭遇してしまったのだ。そして噛み傷を受けてしまう。そこから脱水症状が出て、精神も病み、一年間入院することになるが死んでしまった。 実はこの高梨、かなり秀樹に対して「恨み」を抱いていたことが判明する。この「恨み」が、津田と高梨の死の共通点なのだ。“人を呪えば穴ふたつ”、とでも言うべきだろう。

野崎と真琴だから行えた救済

秀樹を救うために、津田から連絡を受けたオカルトライターの野崎、そしてその恋人であり霊媒師・キャバ嬢を名乗る真琴。この2名が最終的に生き残るのだが(真琴の姉・琴子の安否は不明)、彼らは生き残るべくして生き残ったのだ。 というのも、真琴だけが知紗の本当の気持ちや彼女の痣の正体を見抜き、野崎だけが彼女を自己犠牲を払ってでも救おうとしたからだ。知紗には痣があった。観客の我々を含め、それを見た作中の登場人物はそれを「香奈が暴力を振るってできた」、または「ぼぎわんにつけられた」ものだと思っただろう。しかし、真相は「愛されないのは自分が悪い子だから」という気持ちのもと、自分自身に対して仕置をしていた、つまり知紗が自分につけた痣だったことがわかる。

その知紗の心の闇に、ぼぎわんは巣食った。本当の意味で彼女を救うには、知紗が何よりも渇望していた純粋な愛を向けることだったのではないのだろうか。それに最初から気づいていたが、「自分はバカだから」という理由で誰にもうまく伝えられなかったのかもしれない。そんな知紗の本当の気持ちに真琴が気づけたのは、幼い頃から特殊能力を授かった姉と自分を比べる人生を歩んできたからなのかもしれない。 野崎には、野崎の「恨み」と「罪」があった。それは、昔付き合っていた女に子供を堕ろさせたことだった。そのことから、その女、そして生まれてくるはずだった赤子から恨まれていたに違いない。真相はともあれ、野崎自身がそれを「自分に向けられた恨みと罪」と認識し、負い目を感じながら生きてきた。失うことが怖いから、家族も子供も避けてきた。そんなことで赤子の命を奪った野崎が、今回知紗という子供の命を救う。これは彼にとっての贖罪だったのだ。

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映画ラストのオムライスの意味は?

そして何より痛快だったのが、ラストにぼぎわんから助かった知紗が見ていた夢「オムライスランド」だ。これまたぶっ飛んだ映像を入れがちな中島監督らしいシーンだが、この夢は単に映画全体をエキセントリックに仕上げるための“飾り”ではない。 オムライスとは、知紗が香奈に作ってほしいと強請っていた食べ物だ。恐らく秀樹が生きていれば、彼はすぐさま外食に連れていき、オムライスを食べさせていた。まだ自己表現や語彙を理解する前の子供にとって、自分の好物を親が食べさせてくれるという行為は単純に自分が愛されていることを認識できる行為なのではないだろうか。そう考えると、知紗は紆余曲折を経て真琴の腕の中に収まり、“また愛されることを夢見ている”というように考えられる。 とはいえ、本作でこの娘を巡ってありとあらゆる悲惨な出来事が起きた。大人たちはそれに対して各々が恨みつらみを重ねたり、罪の意識を持ったりするのに、当の子供はそんな事は一切御構い無しに“オムライスが食べたい”だけだった、というオチは痛快である。

原作『ぼぎわんが、来る』との違いは?

野崎の過去

本作は小説『ぼぎわんが、来る』を原作としている。そのため、勿論原作とは異なる設定や展開があり、その中でも特に大きな変更点を紹介したいと思う。 まずは先述の野崎の「罪」とも言える過去。彼は昔の妻に中絶を求めたことで離婚した、というのが映画の設定だが、原作では「結婚はしていたが、自分が無精子症であったため離婚した」と、離婚の原因が異なっている。 

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田原家が襲われた本当の理由、ぼぎわんを呼んだ犯人

映画では、秀樹が狙われていた理由が、原作に登場しない同級生のチサちゃんから「来るよ」と言われたから、というようにぼやけていた。しかし、原作ではこれが明確になっている。 実は秀樹を、いえ田原家をぼぎわんが襲った原因は、秀樹の祖母がぼぎわんを呼び出したからだった。原作では彼女は三人の子を授かっていて、そのうち二人を夫(秀樹の祖父)に虐待されていた。そんな彼を呪い殺そうとして、ぼぎわんを呼び出してしまったのだ。 映画では秀樹の少年期に祖父の元にぼぎわんが、そして秀樹が法事に行った時に祖母が「呼ばれている」と行ってぼぎわんの手にかかってしまったのだった。

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「来る」べくして来たぼきわんの正体とは

「人は都合の悪いことを妖怪のせいにしてきた」

そもそも、ぼぎわんの言い伝えのような民族伝承はありとあらゆるものに存在する。それは人を攫ったり、時には喰ったりしてしまう。しかし、その実態は「間引き」であったり、「姥捨」であったり、人間が行なってきた都合の悪いことなのだと、津田が話す場面がある。秀樹の同級生だった女の子も、「実は両親に殺されたのでは」と法事の席で噂されていたように。 実際、野崎にとって罪であった「子を堕ろす」という行為も、「間引き」だ。この“子殺し”が、映画全体にあるテーマでもある。 本作はネグレクト、親のエゴによってオモチャのようにされる子供といった現代の社会問題というのがホラーというジャンルでより濃く浮き彫りになっている。それを怒涛の映像とストーリー展開、そして“エンターテイメント”要素で見事にまとめきった中島哲也監督は見事だと思う。

原作で描かれた「ぼぎわん」の正体

先述で原作との違いに触れたが、ぼぎわんの正体に関しても原作ではいくつか明確な記述が存在する。 第一に、ぼぎわんは「人間から子供を奪って、自分の子供にする妖怪」というもの。そう、ぼぎわんはちゃんと妖怪だったのだ。これだと、秀樹の娘・知紗を自分の子供にしようと狙っていたという動機がわかる。 第二に「口減らしで村から攫われた子供の成れの果て」という記述がある。これは、映画で野崎が知紗を救おうとするとき、水辺に浮かぶ赤子に怯えていた描写の説明がつくのではないだろうか。あの赤子たちが、ぼぎわんの正体だったということだ。

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ホラー映画『来る』が描いた、本当に怖いもの

人生の大事な場面で紛れ込む「恨み」が一番怖い

本作はタイトルコールが終わった後、婚約した秀樹と香奈が、秀樹側の親戚の法事に向かうところから始まる。この親戚と宴会が、かなり異様なのだ。唯一のよそ者である香奈からすれば、手伝うといえば邪魔扱いする秀樹の母親、親戚の姪っ子にセクハラで抱きつくおじさん、突然首をしめるぐらいの喧嘩を始める男たち……それでも皆、気にせずにワイワイとしている空間そのものが狂気的だ。 そういったコミュニティから疎外感を受け、心的ストレスを与えられていた香奈だったが、彼女に一番それを与えていたのがこの時からすでに秀樹であることがわかる。 時は経ち、彼らは結婚。香奈は妊娠し、秀樹は贅沢なマンションの最上階のレジデンスを購入した。お披露ホームパーティには結婚式にも呼んだ“仲間”がいる。「いつまで主役ぶってんだよ」とか「見せつけてくれるぜ」と、とにかく友達なのか何なのかわからないくらい、秀樹のことが好きじゃないやつが紛れ込んでいるのだ。 しかも、その場には秀樹が購入した部屋の値段がわかると“爆弾”を投下した会社の女がいた。その時の空気感でそれは明白であるが、彼らは不倫関係にいたこともわかる。不倫相手を妊娠中の奥さんのいる自分の生活の場に連れてくるか……と秀樹の神経を疑ってしまうが、それが秀樹という男の性分なのだ。そして、恐らくこの女もまた、少なくともこのとき幸せそうな愛妻家を気取る秀樹に対して恨みを抱いていたのに違いない。 このように、内面では自分を恨んでいる人間が秀樹、いや我々の人生の大事な場面に紛れていることを考えると恐ろしい。そして“これ”が、本作の核であり、ぼぎわんの正体なのだ。ぼぎわんより、この生活に紛れ込んでいる「恨み」が、人間が、一番怖い。 だって、その人の心の闇に、“来る”のだから。