2021年5月27日更新

リヴァー・フェニックスの本当の死因は?薬物と毒親に悩まされた生涯に迫る

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リヴァー・フェニックス
©︎All Star Picture Library / Zeta Image

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リヴァー・フェニックス 早世した天才俳優の本当の死因に迫る

『旅立ちの時』
©︎LORIMAR / All Star Picture Library / Zeta Image
生年月日1970年8月23日
没年月日1993年10月31日(薬物のオーバードーズ)
デビュー年1985年(15歳)
出身地アメリカ・カリフォルニア州ロサンゼルス
家族弟:ホアキン・フェニックス
妹:レイン・フェニックス
妹:サマー・フェニックス
身長178cm
代表作『スタンド・バイ・ミー』
『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』
『マイ・プライベート・アイダホ』

子役時代から並外れた演技力と端正なルックスを持ち、没後30年近く経つ現在でも伝説的な存在として語り継がれている俳優リヴァー・フェニックス。15歳で映画デビューし、23歳で薬物による衝撃的な死を遂げた夭折の天才俳優として映画界に名を残しています。 この記事ではリヴァー・フェニックスの人生と作品を振り返りつつ、彼が与えた影響やその人となりに迫っていきます。

リヴァー・フェニックスの過酷すぎる生い立ち

幼少期

スタンド・バイ・ミー
© Columbia Pictures

リヴァー・フェニックスは、本名リヴァー・ジュード・ボトムという名で、1970年8月23日にアメリカ・オレゴン州マドラスに生まれます。両親は当時の他の多くのヒッピーと同じように麻薬を携えて、コミューンを転々としていました。 しかしあるとき両親は麻薬から抜け出すために、カルト教団「神の子供たち」に入信します。リヴァーはそこで「世界を救え」と教えられ、5歳のときには2歳年下の妹とともに舞台に立って歌を歌っていました。

宗教団体「神の子供たち」で性的虐待を受ける日々

フェニックス一家が1972年から1978年まで在籍した「神の子供たち」は、現在も存続する宗教団体です。 教団はセックスを使って神の愛を表現し、「古い道徳観からの解放」を説きました。内部のセックスの自由を極端な形で推し進め、乱行や児童の性的虐待を日常的に行っていたのです。 教団内ではセックスをしつけだと捉える考え方があったため、幼少期からリヴァーは毎晩のように何人もの女性の相手をしていました。 リヴァー本人は以前「4歳で童貞を失った」、「あいつらは本当に吐き気がする。堕落したやつらだ」とインタビューで語っています。しかし事務所の人間は「冗談だった」と訂正するよう促してきたのだとか。 「神の子供たち」は日本にもわたり、2021年5月現在は「ファミリー・インターナショナル」と名前を変えて活動を続けています。ただし今は以前のような性的虐待は禁止されているようです。

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ハリウッドの世界へ スターの階段を駆け上るリヴァー

理想主義者だった両親が教団を批判したことで、一家の教団内での立場は危うくなっていきます。そして家族が次に理想を普及するため向かった先はハリウッドでした。そこで彼らは人生を“再生する”意味を込めて不死鳥の「フェニックス」と改名します。 ロサンゼルスに来た当初は、妹とともに路上パフォーマンスをして生活費を稼いでいたリヴァー。リヴァーはまずCMタレントとして両親から売り込まれ、次に俳優として起用されるようになります。

初めて普通の少年になれた『エクスプローラーズ』(1985年)

『エクスプローラーズ』リヴァー・フェニックス、イーサン・ホーク、ジェイソン・プレソン
©Paramount/Photofest/Zetat Image

リヴァーの映画デビュー作は、イーサン・ホークと共演した1985年の『エクスプローラーズ』。イーサン・ホークにとってもこれがデビュー作で、3人の少年がその創造力で宇宙船を造り、宇宙探検に向かうというストーリーです。 リヴァーが演じたのは、メガネをかけた天才少年ウォルフガング。彼はこの作品の撮影で生まれて初めて「普通の子供として振舞えた」そうで、その喜びが惜しいあまり、撮影終了後もイーサンと離れがたくて号泣したといいます。

世界的名声を手にした『スタンド・バイ・ミー』(1986年)

『スタンド・バイ・ミー』
©︎COLUMBIA PICTURES / All Star Picture Library / Zeta Image

壮絶な過去を乗り越えた伝説の俳優として脚光を浴び始めたリヴァーですが、彼の名前を全世界に知らしめた作品が、青春映画の不朽の名作『スタンド・バイ・ミー』です。 この作品でリヴァーは、少年たちのリーダー的存在であるクリスを演じ、その完成された演技に観客は否応なく惹き込まれていきました。 出演作が世界的ヒットとなったため、貧しいフェニックス家は初めて車を買えたというエピソードも。一方で本作の撮影中、楽屋でリヴァーがマリファナを吸っていたという証言もあり、その生い立ちの複雑さに心底震えるものがあります。

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人気シリーズに出演『インディ・ジョーンズ 最後の聖戦』(1989年)

『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』リヴァー・フェニックス
©Paramount Pictures / Photofest/Zeta Image

ハリソン・フォード主演の人気シリーズ第3作に当たる『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』。インディと父親のヘンリーが、イエス・キリストの聖杯を求め、冒険を繰り広げるというストーリーです。 大御所ショーン・コネリーの出演に加え、当時すでに人気スターの仲間入りをしていたリヴァー・フェニックスが若き日のインディを演じ、大きな話題を集めました。 本作でリヴァー・フェニックスは12歳の頃のインディを演じ、トレードマークであるフェルトハットとの出会い、蛇嫌いになった理由など、興味深いエピソードを演じてくれました。

『旅立ちの時』(1988年)でアカデミー助演男優賞にノミネート

『旅立ちの時』
© LORIMAR/zetaimage

1988年には『旅立ちの時』で演じたダニー役で、アカデミー助演男優賞にノミネートされます。ダニーの両親は60年代の反戦運動の元活動家で、FBIの指名手配犯であり、身を隠して引っ越しを繰り返しているような人物。 まるでリヴァーの両親のようでもあり、劇中では現実同様にそんな両親を愛していることが描かれています。当時のリヴァーと同じく思春期の葛藤を抱える青年を繊細に演じる姿に、彼の生い立ちをどうしても重ね合わせてしまうストーリーでした。 1986年の『モスキート・コースト』で共演したマーサ・プリンプトンとは、本作で2度目の共演を果たしており、交際にも発展。ちなみにリヴァーは『モスキート・コースト』でも理想主義者の父に振り回される息子役を演じています。

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ハリウッドの搾取からインディペンデント作品へ傾倒

やがてリヴァーは「自分を利用しようとする人間とは仕事はしない」と言ってCMへの出演を全て断るようになります。両親の理想のもとに潔癖で真面目に育ったためか、才能ある者から搾取を繰り返してきた、欲望渦巻くハリウッドとは相容れなかったのかもしれません。 それ以降はエージェントの反対を押し切ってもインディペンデント作品に好んで出演するようになっていきました。そうした中で手ごたえを感じたのが、ガス・ヴァン・サント監督作『マイ・プライベート・アイダホ』です。

『マイ・プライベート・アイダホ』(1991年)

『マイ・プライベート・アイダホ』キアヌ・リーヴス、リバー・フェニックス
©Fine Line/Photofest/zetaimage

『スタンド・バイ・ミー』と並んで代表作と評される『マイ・プライベート・アイダホ』は、キアヌ・リーブスとの共演作とあって、公開当時は大きな関心を集めました。 ポートランドの街角に立ち、男娼をして暮らすマイクとスコット。やがてマイクは密かに想いを寄せるスコットと連れ立ち、幼い頃捨てられた母親を探す旅に出ていきます。 売春、同性愛、ドラッグというセンセーショナルなテーマのためか、エージェントから強い反対を受けながらも、ほぼノーギャラで本作への出演を決意。儚くも純粋な主人公マイクを見事に演じ切り、ヴェネツィア国際映画祭主演男優賞に輝きました。

メジャー作品に出演させたいエージェントとの衝突

リヴァーはマイクを演じて「キャラクターに同化した感触、快感を初めて味わった」と語っており、その後もインディペンデント作品に傾倒していきます。しかし次作の『スニーカーズ』(1992年)はメジャー作品。エージェントはリヴァーをメジャー作品に出演させたかったようです。 しかしリヴァーはそんなエージェントの思惑に対抗するかのように、『愛と呼ばれるもの』(1992年)や『アメリカンレガシー』(1993年)など、次々とインディペンデント作品に出演していきました。

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セックス・カルトを出て禁欲主義に生まれ変わりたかった青年のゆがみ

潔癖な菜食主義を貫いたのは

『エクスプローラーズ』
©︎ PARAMOUNT / All Star Picture Library / Zeta Image

リヴァーは理想高き両親の信条にならい、ヴィーガニズムと呼ばれる完全菜食主義に基づいた生活を送っていました。またその信条を少しでも広めていくために動物愛護や自然保護の活動にも取り組んでいます。 デビュー作である『エクスプローラーズ』に出演した際には、彼のヴィーガニズムを知らなかったスタッフが動物の皮でできた衣装を用意してしまい、その代替の衣装を用意してもらったという出来事もあったといいます。 当時のガールフレンドだった女優のマーサ・プリンプトンとレストランで食事をした際には、彼女が注文した料理がヴィーガンでないことで泣き出してしまったこともあったそう。 また来日時に出演した『笑っていいとも!』では、そば屋のそばつゆに鰹節が使われていることを知って箸を置いたというエピソードも有名です。

自分が“求めたい理想”と“求められる姿”のギャップに苦しんでいた?

『恋のドッグファイト』
©︎WARNER BRO / All Star Picture Library / Zeta Image

幼い頃にカルト教団で心身ともに汚され、「自分はまともな大人になれないのではないか」と怯えていたというリヴァー。 その反動のように厳格なヴィーガンや高い理想のもと潔白に生きていこうとしましたが、ハリウッドはそのようなことを許容してくれるようなきれいな世界ではありませんでした。 リヴァー自身が求めたい理想と周りから求められる姿との間に、大きなギャップがあったことは想像に容易いことです。そしてそのギャップが、嫌悪する薬物をやめたくてもやめられないほどにリヴァーを追い詰めていたのかもしれません。

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1993年10月31日、薬物のオーバードーズで死去

『マイ・プライベート・アイダホ』
©︎NEW LINE CINEMA / All Star Picture Library / Zeta Image

1993年10月31日、ナイトクラブ「ザ・ヴァイパー・ルーム」の入口近くで倒れているのが見つかり、リヴァー・フェニックスは23歳という若さでこの世を去りました。 死因はヘロインとコカインの過剰摂取による心不全。リヴァーが最期を迎えた場所、それは親友でもあるジョニー・デップが共同経営するナイトクラブだったのです。 俳優兼ミュージシャンだったジョニー・デップは、当時所属していたバンド「P」のギタリストとしてステージで演奏中だったといいます。 オーバードーズしたリヴァーは朦朧とした状態で店の入り口付近に倒れ込み、そのまま帰らぬ人となりました。

反麻薬活動家だったリヴァー

死因が薬物のオーバードーズによる心不全だったことは、リヴァーが反麻薬活動を行っていたことを知るファンにとって驚きの事実でした。早すぎるリヴァーの死を悲しむ声と同時に、不信感をあらわにする声も。 しかし幼少期からヒッピー・コミューンで薬物が身近にあったリヴァーが、当時の闇深きハリウッドにいながら自力で中毒を克服することはほぼ不可能だったでしょう。 “薬物から抜け出したくても抜け出せなくなった自分のようにならないでほしい”という思いで反麻薬活動をしていたのかもしれません。リヴァーの衝撃的な死は、麻薬中毒の恐ろしさをより広く知らしめたともいえます。

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伝説は遺る!リヴァー・フェニックス死後の影響

遺作となった『ダーク・ブラッド』(2012年)

『ダーク・ブラッド』リヴァー・フェニックス、ジュディ・デイヴィス、ジョナサン・プライス
©Lionsgate/Photofest/Zeta Image

最後の主演映画である『ダーク・ブラッド』は、撮影途中でリヴァーが亡くなったことにより1度はお蔵入りとなりました。 しかし監督であるジョルジュ・シュルイツァーが大病を患い余命宣告を受けたことで制作を再開。監督キャリア最後の作品として、映像が不足している部分はナレーションで補い2012年に完成しました。 そしてリヴァー没後20周年の2013年に全米公開、日本でも「リヴァー・フェニックス幻の遺作」として2014年に公開されています。 俳優夫婦ハリーとバフィーは旅の途中、車の故障で砂漠の中に立ち往生し、ある青年(ボーイ)の助けを得ます。しかし修理中にそこで過ごす間、ボーイはバフィーに執着するようになり、次第に3人の関係は緊迫していき……。 リヴァーが演じたのは、核実験場だった砂漠の荒地に独りで住む青年。世界の終わりを待ちわびているネイティブ・アメリカンの末裔です。

次世代スターに与えた社会派俳優としての影響

ジャレッド・レト
Euan Cherry/WENN.com

アート系インディペンデント映画への出演、コマーシャリズムの批判、社会問題ヴィーガニズムへのコミットメントなど、アイドル俳優に甘んじないリヴァーの挑戦的な姿勢は当時のハリウッドでは珍しいものでした。 リヴァーの死後も、そういった姿勢はレオナルド・ディカプリオや、ジャレッド・レトやジェームズ・フランコといった次世代スターに受け継がれ、現在に至るまで大きな影響を残しています。

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レオナルド・ディカプリオとの縁

レオナルド・ディカプリオ
WENN.com

レオナルド・ディカプリオはリヴァーを憧れの俳優と語っていますが、不思議な縁でもつながっていました。 ジェームズ・キャメロン監督は『タイタニック』のジャック役に、リヴァーを第1候補として挙げていたそう。さらにリヴァーが演じるはずだった『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』のダニエル・マロイ役の代役オファーが、レオナルドにも来ていたといいます。 レオナルド・ディカプリオだけでなく、多くの俳優がリヴァーに憧れており、その死を惜しみました。

もしもリヴァー・フェニックスが生きていたら

弟ホアキン・フェニックス

ホアキン・フェニックス
©Adriana M. Barraza/WENN.com

役者一家として知られるフェニックス家の次男、ホアキン・フェニックス。両親の伝道活動先のプエルトリコで生まれた、4つ違いの弟です。 子役として経歴を重ね、2000年にリドリー・スコット監督作『グラディエーター』の皇帝コモドゥス役に抜擢されます。主役に引けをとらない存在感が高い評価を集め、アカデミー助演男優賞をはじめとする数々の映画賞にノミネートされ大きな話題となりました。 その後も2005年の『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道』と2012年の『ザ・マスター』でアカデミー主演男優賞に2度ノミネート。2019年には『ジョーカー』での圧倒的な演技で、アカデミー賞をはじめ国内の主要映画賞で主演男優賞を総なめにしています。 兄リヴァーの影響で俳優の道を志したホアキンは、兄の死を目の前で目撃し、長らく兄について語ることはありませんでした。しかし『ジョーカー』で功労賞を受賞したトロント国際映画祭でリヴァーを偲ぶスピーチを行い、兄弟の固い絆を示しています。 女優のルーニー・マーラと結婚し、生まれた第1子に「リヴァー」と名付けたホアキン。もしリヴァーが生きていれば、ホアキンのように結婚して子どもを授かっていた年ごろだったでしょうか。

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共演を重ねたキアヌ・リーブス

『マイ・プライベート・アイダホ』
©︎NEW LINE CINEMA / All Star Picture Library / Zeta Image

『マイ・プライベート・アイダホ』で共演し、リヴァー・フェニックスと仲が良く、考え方も似ていたというキアヌ・リーブス。 その後「マトリックス」シリーズなどで人気を不動のものとしたキアヌは、アニメ声優としても活躍しています。リヴァーも生きていれば、彼のように自由に活動の幅を広げていたかもしれませんね。

友人のジョニー・デップ

ジョニー・デップ
©︎ Cinzia Camela/WENN.com / Zeta Image

リヴァーの死の間際近くにいて、交友関係もあったというジョニー・デップ。彼もまた家庭環境から薬物にのめり込んでいった俳優の1人でした。 一時は薬物・アルコール中毒から抜け出そうとしましたが、2020年薬物乱用によるDVで元妻から訴えられて2021年5月現在も裁判を続けています。 しかし俳優としては変わらず輝きを失わないジョニー・デップ。もしリヴァーも生きていたら、才能を開花させながらも薬物中毒に悩まされ続けていたのでしょうか。

同年に生まれた他のスターたち

マット・デイモン
WENN.com

1970年生まれのリヴァー・フェニックス。23歳の若さで夭折してしまいましたが、もしも生きていたら……。同じ年のハリウッドスターにはどんな顔ぶれがいるのでしょう? まず最初に挙げられるのが『ジェイソン・ボーン』(2016年)のマット・デイモン。『グッド・ウィル・ハンティング』(1997年)でアカデミー脚本賞受賞という脚本家としての顔も持つ才能豊かな人物です。 他にも「キル・ビル」シリーズのユマ・サーマン、2014年公開の『6才のボクが、大人になるまで。』で2度目のアカデミー助演男優賞にノミネートされたイーサン・ホークなど、錚々たる顔ぶれが揃っています。 リヴァーも生きていたなら、彼らに劣らない大活躍を見せていたことでしょう。

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リヴァーがモデルの漫画も!『BANANA FISH』のアッシュ

BANANA FISH
 (C)吉田秋生・小学館/Project BANANA FISH

吉田秋生の漫画『BANANA FISH』の主人公アッシュ・リンクスが、リヴァーをモデルとしていることは有名な話。漫画は1985年から1994年まで『別冊少女コミック』に連載され人気を博し、その後3度の舞台化を経て、2018年にはアニメ化もされています。 実は漫画の作風は、最初と中盤からでは大きく異なります。その理由は、最初はテニスプレーヤーのステファン・エドバーグをモデルにしていたものの、中盤からはリヴァーをモデルにしたから。 連載当初の少女漫画らしからぬハードな絵柄はすっかり過去のもので、アニメ化された影響もあって美少年アッシュのイメージが強いですね。 アッシュの壮絶な過去をリヴァーの過酷な幼少期と重ねて見るといっそう物語が切なく感じられるかもしれません。 またよく注意して見ると、アッシュと英二の構図がときどき『マイ・プライベート・アイダホ』のリヴァーとキアヌ・リーヴスに重なるのです。そのシンクロ率はすごいものがあります。

今も輝きを放つリヴァー・フェニックスとその作品たち

『旅立ちの時』
©︎ LORIMAR / All Star Picture Library / Zeta Image

『スタンド・バイ・ミー』を不朽の名作にし、『マイ・プライベート・アイダホ』で若手俳優のインディペンデント作品出演を後押しし、後続の俳優たちに多大な影響を与えたリヴァー・フェニックス。生涯で14本の映画に出演した彼は、今も作品の中でその輝きを放ち続けています。 あまりに早すぎる死に衝撃を受けた時も、すでに過去のもの。リヴァーが遺してくれた作品を、現在も観ることができる幸せを噛みしめたいものです。