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あの人の師匠はだれ?人気監督たちの助監督時代を紹介【日本映画編】

2018年9月25日更新

かつて日本では、映画監督になるにはまず助監督になる時代がありました。2018年現在、日本での映画監督への道はさまざま。助監督になるほか、作品や企画をコンペに応募したり、テレビやCMの演出から始めたりなどが一般的です。そこで今回は助監督から監督になった人たちを紹介します。

そもそも助監督の仕事って?

助監督とはその名の通り、監督を助ける仕事。かつて助監督は、各映画会社に社員として雇われ演出部に所属し、各監督の下で勉強していくものでした。2018年現在は、フリーランスの助監督がほとんどです。その仕事は内容によって細分化されていて、基本は、チーフ助監督、セカンド助監督、サード助監督という風に分かれています。 人数は予算によって決まるので撮影現場ごとにまちまち。それぞれの役割はというと、サード助監督は小道具に関すること、セカンド助監督は衣装や俳優に関すること。チーフ助監督は撮影スケジュール管理および全パートの調整役です。助監督はキャリアを積むにつれサードからチーフへ段々と上がっていくシステムになっています。 監督がいかに演出に集中できるか助監督の面々にかかっているのです。

巨匠・黒澤明を公私ともに支え続けた/小泉堯史

小泉堯史監督は、1944年茨城県生まれの73歳。東京写真短期大学(現・東京工芸大学)、早稲田大学文学部演劇専攻卒業。 黒澤明監督に師事し助監督を務めただけでなく、私的な助手としても28年間支え続けました。黒澤監督の死後、遺作のシナリオを映画化した『雨あがる』で監督デビュー。 同作でヴェネツィア国際映画祭の獅子賞、日本アカデミー賞では作品賞ほか8部門で受賞しました。小泉監督は黒澤監督から、映画でいちばん大事なことはシナリオとキャスティングだと教えてもらったそうです。 その教えと黒澤監督の直近で経験を積んだことは、小泉監督にとって何よりも代えがたいものなのではないでしょうか。

新生・世界のクロサワも助監督経験あり/黒沢清

黒沢清監督は、1955年兵庫県生まれの63歳。立教大学在学中から8ミリ映画を撮り始めました。 そんな中出会った長谷川和彦監督に見いだされ、映画『太陽を盗んだ男』に制作進行として参加。その後、助監督として長谷川監督作に参加する予定でしたが結局、相米慎二監督作『セーラー服を機関銃』で助監督をすることに。 映画『神田川淫乱戦争』で監督デビュー。映画『CURE』が内外問わず高い評価を受け、その後の作品はカンヌ映画祭ほか海外で高く評価されています。 黒沢監督にとって、自分の才能を認めてくれる人が周りにいたということが大きなことだったに違いありません。時代はめぐり今度は、映画『寝ても覚めても』の濱口竜介監督など黒沢監督の教え子たちが活躍しています。

偶然の出会いが重なり監督の道へ/三池崇史

三池崇史監督は、1960年大阪府生まれの53歳。横浜放送映画専門学院(元日本映画学校)に入るもほとんど学校には通っていませんでしたが、卒業生からの手伝い要員として撮影現場に参加。 以後、助監督として、今村昌平監督や恩地日出夫監督らに師事しながらさまざまな現場を経験します。オリジナルビデオ『突風!ミニパト隊』で監督デビュー。 あるインタビューで三池監督はこう語っています。出演者やスタッフが撮影を楽しめるような場と瞬間をつくるのが、自分の役割だと。 助監督時代から経験した多くの現場での苦労が、どんな状況でも撮影を楽しむといった三池監督のこだわりにつながっているのかもしれませんね。

岩井俊二のカメラマン・篠田昇も受け継いだ/行定勲

行定勲監督は、1968 年熊本県生まれの50歳。岩井俊二監督のテレビドラマから助監督として参加し、映画『Love Letter』や映画『スワロウテイル』などにも参加。 行定監督について岩井監督は、一番優秀で大切な右腕だったと語ります。中でもキャスティングが抜群だったと。 行定監督自身も意識して、わざと岩井監督が求めているところと違うところを提案していたそうです。本当にいい意味での師弟関係だったのですね。 映画『OPEN HOUSE』にて監督デビューした行定監督。その際、撮影監督は岩井組の要ともいえる篠田昇が担当しました。 そんな篠田昇の遺作は、行定監督の『世界の中心で愛を叫ぶ』。その後の行定作品は、篠田昇の助手を務めていた福本淳が引き継ぎ、弟子同志で作り上げた作品で多くの人々に感動を与えています。 また、行定監督のもう一人の師匠に、映画「濱マイク」シリーズの林海象監督がいます。行定監督は、映画『我が人生最悪の時』、映画『遥かなる時代の階段を』で助監督を務め、同シリーズがテレビドラマ化された際には、第4話「サクラサク」の監督として参加。 行定監督は語ります。助監督時代よりも今の方がむしろ修業の時なんです、僕にとってはと。 1本でも多くの映画を撮りたい、歴史に残る作品を残したい。映画への情熱は助監督時代も監督になっても変わることないのが、映画監督なのかもしれませんね。

役者からの信頼も厚い遅咲きの苦労人/成島出

成島出監督は、1961年山梨県生まれの57歳。学生時代から自主映画を撮り始め、ぴあフィルムフェスティバルで入選したのがきっかけで、長谷川和彦監督の下で脚本の勉強をすることに。 27歳の時に助監督として相米慎二監督や平山秀幸監督に師事します。ぞれぞれの監督の手法が身につくのを避け、各監督につくのは1作品と決めていたそうです。 42歳の時、実在のスリと刑事をモデルにした映画『油断大敵』で監督デビューします。同作には助監督時代のつながりで、役所広司や柄本明が出演を快諾。 以後、映画『八日目の蝉』で日本アカデミー賞作品賞をはじめとする8部門を受賞、その年の各賞を総なめに。長い下積み時代の間に積極的に勉強した甲斐あって、その実力が認められた結果なのでしょう。

違う作風だからこその師弟関係/西川美和

西川美和監督は、1974年広島県生まれの44歳。早稲田大学第一文学部卒業。 就職活動中に面接官だった是枝裕和監督に出会います。そこで才能を見出され、是枝監督作『ワンダフルライフ』に助監督として参加することに。 2018年現在も同じ映像制作集団に是枝監督と共に籍を置き、師弟関係が続いています。弟子とはいえ、西川監督の映画へのアプローチは独自のもので、是枝監督のそれとは違います。 西川監督は自身の映画作品を自らが筆をとり、小説という形でも発表。映画『永い言い訳』の小説は直木賞候補にもなっていて、監督だけでなく作家としても本格的に活動しているのです。 監督作『ゆれる』がカンヌ国際映画祭監督週間正式出品、その後の作品も内外の各賞を受賞し、是枝監督に負けず劣らず活躍しています。

恩師・瀬々敬久からの教えを胸に/菊地健雄

菊地健雄監督は、1978年栃木県生まれの40歳。明治大学経済学部を卒業後、アルバイトをしながら映画美学校に通い、瀬々敬久監督と出会います。 そこで、瀬々監督作『サンクチュアリ』の現場に誘われ、未経験ながらセカンド助監督に大抜擢。その後はサード助監督から勉強し直し、石井裕也監督、黒沢清監督など多くの監督から現場に呼ばれることに。 助監督歴10数年にして、映画『ディアーディアー』にて監督デビュー。同作は、モントリオール世界映画祭に正式出品され高く評価されました。 多くの監督に師事した菊地監督ですが、中でも瀬々監督との関係は特別のようです。映画監督である前に、1人の社会人としてどうあるべきか教えてもらったといいます。 それを助監督時代に叩き込まれた菊地監督だからこそ、今なおコンスタントに作り続けられる監督へと成長したのでしょう。

さまざまなタイプの助監督

助監督を経験した監督の中でもさまざまなタイプの人がいて、助監督をすることになったきっかけもそれぞれ違います。中には、助監督としてその仕事を専門にしていて、監督よりも年俸の高い人もいるようです。 今回紹介したのは、監督になるために助監督という道を選んだ人たち。志を持ち続け夢を果たしたのでした。 監督として第一線で走る続けることは大変なことです。それでも作り続けられている彼らは、助監督時代のさまざまな困難や経験があったからこそなのではないかと思います。