2018年11月30日更新

アニメ映画『聲の形』を徹底考察!「歩み寄る」「伝える」ことの真意とは?

『週刊少年マガジン』連載の人気コミックをアニメ映画化した『聲の形』。自分を受け入れ、他者と繋がることの難しさとコミュニケーションの在り方を描いた本作から見える、本当の歩み方と伝え方について考察していきます。

累計300万部の人気コミックスを映画化『聲の形』

『週刊少年マガジン』に連載され、発行部数累計300万部を記録した傑作コミックを、京都アニメーションがアニメ映画化した『聲の形』。編集部内でも議論を巻き起こした衝撃的な漫画の映画化は大きな話題を呼び、また公開後も各分野の著名人から絶賛のコメントが相次ぐなど、多くの人々を魅了しました。 障害というテーマを取り扱い、コミュニケーションの在り方とその難しさを描いた本作が表現してみせた、他者への本当の歩み寄り方と、思いの伝え方について考察していきます。物語のネタバレ要素も含みますので、作品未鑑賞の人はご注意を。

『聲の形』という作品ができるまで

原作は『週刊少年マガジン』に連載されていた同名コミック。しかしその物語設定と繊細かつ鋭利な作風のため、当時の編集部は対応を決めかねており、第80回新人漫画賞で入選を果たした作品であるにもかかわらず、一時は掲載見送りの判断を下されてしまいます。 耳の聞こえない登場人物に象徴される、本作の大きなテーマでもある、どうしようもできない障害を抱えながら生きるというストーリーは、読者に前向きな感情を与えない可能性があるため、掲載すべきではないと考えられてしまったのです。 しかしその4年後、編集部内の議論の結果、読み切り作品という形で掲載が決定し、読者からの反響の大きさも相まって続編の連載がスタート。その後も順調に高評価を獲得し、瞬く間に人気コミックとして大きな話題を集めたのです。 そしてその反響と、物語の内容に大きな感銘を受けた京都アニメーションの強い思いが形となり、映画化に至りました。

大今良時による原作と、山田尚子による映画の"決定的な違い"

原作は「キャラクター」を緻密に描き、映画は原作の「メッセージ」に焦点を絞った

多くの登場人物がおり、ひとりひとりの感情や出来事が複雑に絡み合い、展開していく本作。 映画化するにあたって、限られた時間内でいかに物語をまとめ上げるかが重要なポイントとなっていきました。 その点をクリアするために、映画版では主人公の将也と硝子、将也のクラスメートの植野と硝子の妹の結弦という4人の登場人物に焦点を当てながら物語は進行していきます。 その結果、原作版よりも他の人物たちの描写は少ないながらも、原作の要点を見事に集めた映画として完成しました。

『聲の形』が描く物語のあらすじ

本作の主人公は、退屈を何よりも嫌う好奇心旺盛なガキ大将の将也。ある日彼のクラスに、耳の聞こえない少女・硝子が転校してきたことで物語は始まります。 最初は穏やかだった将也の硝子への興味は、やがて彼女へのいじめに発展していき、ついに将也はある事件を起こしてしまいます。 その事件をきっかけにいじめっ子のレッテルを貼られ、逆にいじめられるようになってしまった将也は、そんな過去の経験から心を閉ざし、孤独な学校生活を過ごしていました。 高校生になったある日、硝子との再会を機に、将也は過去の自分の罪を償い、自分、そして他者と向き合うことを決意。新しい友人やかつてのクラスメートたちとの交流を経て、彼は自分の世界を受け入れ、心を開いていこうとしますが……。

西宮結弦(ゆずる)と植野直花。ふたりの存在の意味とは?

ふたりは、中心となる西宮硝子と石田将也の代弁者的存在

過去のトラウマをきっかけに他者の声を遮断し、自分の感情表現に消極的になってしまった将也と硝子。そんなふたりの代弁者のごとく、それぞれを庇って代わりに怒りを露わにするのが、結弦(ゆずる)と植野の役割であると考えられます。 互いの小学校時代を破滅に追い込んでしまったと思い込み、苦悩を内側に溜めこんでいく将也と硝子でしたが、そんなふたりに対し植野と結弦は、「将也(硝子)のせいで硝子(将也)の人生はめちゃくちゃになった」と互いへの思いをストレートに声に出し、それぞれにぶつけます。

人間関係における「ナチュラルさ」を体現している

他者との関わりを断ち、自分の中であらゆる考えや思考を巡らせ、人間関係を自己完結したのち、自分自身を攻撃することに走る将也と硝子。対して植野と結弦は、外に思いを発することで他者とのコミュニケーションを図ろうとします。 つまり植野と結弦は、将也と硝子が拒絶してきた他者との対話を担おうとする存在であるのです。 しかし、感情のまま激しく怒鳴りつけたり、存在を徹底的に排除しようとしたりと、ふたりの行為もまた極端な性質があり、バランスが取れず危うい言動に及ぶこともしばしば。それゆえに完璧なコミュニケーションには至らず、結果として事態が悪化してしまうこともありました。 その反面、時に発生してしまう危うさや状況の悪化などのすべてを含めたものが人間関係であり、それがナチュラルな状態であることを植野と結弦は体現しているのです。

小学校時代のクラスメートたちと担任の竹内は、人間の身勝手さの象徴

川井の行動が表すのは「無意識の自己防衛」

将也と硝子の小学校時代のクラスメートと担任教師は、人間の脆さや残酷さ、身勝手さなどの醜く愚かな面を具象化した存在として描かれています。 たとえばクラスメートのひとりである川井は、硝子の悪口を裏で囁き、遠隔的にいじめに加担していました。しかしいじめがクラスの議題に取り上げられると、自分はいじめとは無関係であり、むしろ硝子を哀れに思っていた、と泣きじゃくります。 これは彼女がその場をごまかすための演技として行ったのではなく、自分の立場を守りたいという思いが無意識的に働いてしまった末の行動であることを表しており、このことから、自分を一番善良で可哀想な人物であると自分の中で思い込んでいることがわかります。つまり川井は、将也にいじめの全責任を負わせることを、罪悪感なく成功させたのです。

担任の竹内は責任を恐れ、「目立つところを叩く」ことで無理矢理に丸く収める

そして担任教師は、硝子へのいじめに気が付きながらも将也を叱ったり、いじめの改善に繋がる行動は一切行いません。 しかし硝子の母からの申し出がありいじめが大事になった途端に、将也のこれまでの行動をクラス全員と校長の前でつるし上げ、自分に火の粉が降りかからない方法で問題解決を図ろうとしました。 これは放任主義を履き違えた、教師としての責任を放棄した問題行動であり、しかしながら実際の教育現場でも課題となっていることでもあると筆者は考えます。児童間のいじめが発覚したとき、教師はそれをどのように対処すべきなのかという問題の答えは、長年に渡って議論され続けているのです。

硝子との再会、将也の贖罪のはじまり

母親が立て替えてくれた硝子の補聴器の弁償代を返済し、それを機に人生を終わらせようと思っていた将也でしたが、寸前で自殺を踏みとどまります。そして、硝子に会って過去の自分の罪を償おうと決意します。 この硝子との再会は将也の贖罪のはじまりであったと同時に、他者に対して心を開き、また自分を受け入れようと決心した瞬間であったと考えられます。 本作において、将也と硝子は共通項が多く、そのことからふたりがイコール関係で結ばれていることがわかります。つまり、将也が硝子へ償いをするというのは、硝子が将也への心残りを解消することへの一歩であり、互いと向き合うというのは自分を見つめ直し許していくという行為に繋がっていくのです。

新たな出会いと再会が、将也を過去と向き合わせる

小学校時代のトラウマから、友人を作ることを止め他者との交流を断ってきた将也ですが、高校生になって永束という初めての友だちができ、その後頭も良くクラスでも目立つ存在の真柴とも仲良くなることで、自分の新たな一面に気づいていきます。友という存在を通して自分の聲を知り、それを広げていくのです。 また、かつての旧友たちとの再会は、小学校時代の将也の回顧と反省に繋がっていきます。忘れ去りたい過去を想起させる存在と再び顔を合わすことによって、将也は逃げ続けてきた問題の本質と向き合い始めるのです。 それは、硝子といういわば鏡のような存在との対話のみでは成し遂げられなかったことであり、過去という変えようのない厄介な存在と対峙することで将也は現在および未来を克服しようとしたのです。

植野はなぜ怒ったのか?

植野は長年に渡って硝子に執着し続け、将也の小学校時代を破滅させ、その後の将也自身の生き方に影響を及ぼしたのは彼女であると怒り続けていました。 また、植野に敵意を向けられた硝子はそれに同調するように「私も私が嫌いです」と植野に告げます。その行為が植野の怒りにさらに油を注ぐこととなるのですが、まず硝子は誰ともコミュニケーションを取ろうとしておらず、そのため、植野の言葉も全く聞き耳を持っていません。それゆえに一方的な自己嫌悪ばかりを連ね、その態度に植野は怒りを爆発させたのです。 また、植野は将也の感情の一部を代弁する存在であり、その怒りの表現を担う人物として将也の代わりに硝子へ怒りをぶつけたのです。

硝子はなぜ"突然"死のうとしたのか?

新たに友人としての関係を築きつつあった将也たちでしたが、川井と植野の言い争いがきっかけとなり、その関係に亀裂が入ってしまうことに……。将也は硝子をなんとか元気づけようとして、西宮家のみんなと花火大会へ出かけます。しかしその途中、突然硝子は家に戻って、飛び降り自殺を図ろうとするのです。 彼女の自殺は将也の決死の行動によってなんとか阻止されますが、逆に将也が意識不明の重体に陥ることとなります。硝子はなぜ突然、飛び降り自殺をしようとしたのでしょうか? 原作者の大今良時は、公式ファンブックにおいてその理由を明かしています。 「硝子は自分のせいで壊したものを、ずっとカウントしています。自分のせいで親が離婚した。自分のせいで妹がいじめられた。自分のせいでクラスの雰囲気が悪くなった。自分のせいで佐原さんも学校に来なくなった。ぼんやりと"死にたい"と考えながら、そのカウントを積み重ねていたんです」 せっかく将也たちと仲良くなりつつあったのに、それが壊れそうになったことを、硝子は自分のせいだと感じていたのでした。彼女が自分のことを嫌いなのは、そういった気持ちがあったからなのでしょう。

映画のその後、将也たちはどうなるのか?原作の最終話の描写

「生きるのを手伝ってほしい」 将也が伝えた言葉とともに、将也と硝子は前を向いて生きていくことを決意。そんなふたりを永束たちが暖かくもう一度受け入れた明るさの中で、映画は幕を閉じていきました。 彼らはその後、どうなっていったのでしょうか?原作マンガの最終話で、数年後の将也たちの姿が確認できます。

友人たちはそれぞれの道をいき、成人式で再会する

高校卒業後、将也は実家を継ぐために理容師を志し、硝子は夢だった美容師の道へ。植野や佐原は服飾の道を突っ走り、永束は映画を学ぶことを選び、真柴や川井は大学に進んでいきました。 彼らは成人式の日に再会しますが、最後に、将也と硝子は小学校の同窓会会場へと向かいます。お互いにいろんな思いが錯綜し、入るのをためらう中で、将也は硝子の手をとってこう語りかけるのです。 「この扉の向こうにあるのはきっと辛い過去だ。でももう一つある。可能性だ。それはいつだって開くことができる。生きている限り」

ゴールも答えもない人生を、手探りで生きていく

それぞれの心に問題と葛藤を抱えた登場人物たちは、少しずつそれらを克服し進歩を見せながらも、結局は乗り越えられない巨大な壁に苛まれています。それは小学校時代から高校時代になっても変わらないことであり、そんなどうしようもできない何かを持ち続けたまま、彼らはさらに年齢を重ね大人になっていくのです。 私たちは誰もが、何かしらの問題を抱えて生きています。しかしそれでも私たち人間は、少なからず他者と共存した状態で日常生活を営んでいかなければなりません。 本作の登場人物たちも、そんなふうに、手探りのまま人生を歩んでくのでしょう。そこに正解はなく、明確なゴールもありません。それぞれの葛藤にどう折り合いをつけ、克服していくか。結局それは当人の胸の内にのみ秘められたものであり、彼らの手の中にゆだねられているのです。 将也が最後に選んだのは、"可能性"でした。

「歩み寄る」とは互いに同じ目線で行動してみること

硝子が転校してきた当初、クラス全体で硝子のために手話を覚えようとするものの、植野や担任教師の意見を受けて計画が頓挫するシーンがあります。 耳の聞こえない硝子のためにクラス全体が手話を取り入れるというのは、小学生にとっては少なからず負担が増えてしまう行為であり、また硝子ひとりにクラス全体が合わせるというのは、硝子の精神的負担にも繋がりかねません。 障害を持った者とそうでない者が同じ感覚で日常を過ごし、物事をこなしていくということは、何か工夫を施さない限りは不可能なことです。しかし、どちらかに完全に合わせることは歩み寄るという範疇を超えたものであり、その時点で対等な関係とは呼べなくなってしまいます。 歩み寄るというのはどちらも「~してあげている」という状態を脱したまま同じ物事を共有することであり、互いが同じ目線で思考と行動を実施することであると言えます。

「伝える」とは感情を現実にすること

私たち人間には言葉がありますが、何らかの障害のためにそれを使ってコミュニケーションができない場面も多数あります。また不安や怯え、遠慮、またあるときは知識不足やすれ違いなど、あらゆる感情のせいで本心が伝わらずもどかしい思いに直面することもあります。 登場人物の多くが思春期の多感な年齢の少年少女たちということもあり、さまざまな感情の高ぶりが描かれている本作。特に喜びより、怒りに焦点が当てられており、そのため誰かが怒っているシーンが多く見受けられます。 怒りは人を寄せ付けず、最も他者との意思疎通が難しい感情という説が存在します。しかしその反面、怒りに込められたエネルギーは強大なものであり、怒りの爆発は閉ざされていた感情の発露であるとも言われています。 つまり、誰かに怒りをぶつけるというのは自分の心を開いた状態だからこそできることであり、他者への興味に繋がる第一歩であるとも考えられるのです。 そのため、怒りなどの一見他者を拒絶したようにも感じられる表現方法であったとしても、心を許している状態であり、それもひとつの意思伝達の在り方であるといえるでしょう。

アニメ映画『聲の形』は、人間の普遍的な苦しさやもどかしさを見事に描き切った傑作

伝えたい気持ちをうまく表現することができず、悩み苦しんだ経験はきっと誰にでもあることでしょう。本作は、そんな克服したくてもできない過去の出来事や自分自身の問題など、それぞれが抱えるもどかしさを描いているのです。 障害を持つ少女とその周りの人々の人間模様を鮮やかな色彩と繊細な映像描写、美しくも独特で鮮烈な音響表現をもって映画化した『聲の形』。私たちの中に宿り漂い続ける、普遍的な苦しみと問題を描き出した、思いを伝えることの重要さとコミュニケーションの在り方を提起する作品です。