2021年7月9日更新

映画『バケモノの子』のあらすじ&意味を徹底解説!白鯨とは?九太のその後は?【ネタバレ】

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映画『バケモノの子』のあらすじを解説!随所に込められた意味とは?

2015年に公開された細田守監督によるアニメーション映画『バケモノの子』。本作は日本アカデミー賞最優秀アニメーション作品賞を受賞するなど、高い評価を獲得し、人気を誇っています。しかし鑑賞後の感想の中には、「面白かったけど謎が残る」といった意見も。 バケモノの熊徹と人間の少年・九太の交流と成長を描いた本作は、実は世界的名著などを引用した奥の深い作品であることでも知られています。 今回はそんな『バケモノの子』について、監督が込めた意味や、モチーフになった作品との関連性を解説していきましょう。また、九太たちのその後についても考察していきます。 この記事を読めば、きっと本作の随所に隠されたメッセージが深く理解できるはずです!

【ネタバレ】まずは『バケモノの子』のあらすじをおさらい

ひとりぼっちの少年・蓮(宮﨑あおい)はある夜、渋谷でバケモノの熊徹(役所広司)に出会います。1人でも生きていけるように、強くなりたい一心で熊徹の後を追った蓮がたどり着いたのは、バケモノばかりが暮らす街「渋天街」でした。 熊徹の弟子となり、九太という名前を与えられた蓮は、渋天街で修行の毎日を過ごします。最初はいがみ合っていた九太と熊徹でしたが、月日が経つにつれ、2人の間には父子のような絆が芽生えていきました。 そして、逞しい青年に成長したある日、九太(染谷将太)は偶然にも人間の世界に戻ってしまいます。 そこで彼が出会ったのは高校生の少女・楓(広瀬すず)。勉強熱心で感性の鋭い楓と触れ合ううち、九太は自分が本当にいるべき場所はどこなのかという迷いを抱くように。彼は家を留守にしがちなり、熊徹とも顔を合わせればケンカになってしまいます。 そんななか、かねてから予定されていた通り、バケモノ界を束ねる次の宗師を決める試合が行われる日がやってきます。熊徹は人格者で人望も厚い、猪王山(山路和弘)と対決することになるのでした。

次の宗師を決める試合で苦戦を強いられる熊徹でしたが、九太の応援により力を取り戻します。 そして勝利を収めたかと思われたとき、事件が起きました。猪王山の息子である一郎彦(宮野真守)が、念動力を使って父の刀を飛ばし、熊徹に突き刺したのです。実は人間だった一郎彦は、自身の闇に取り込まれ、正気を失っていました。 人間界に逃げた彼を追って渋谷にやってきた九太は、楓とともに一郎彦を探します。街中で暴れまわる一郎彦をなんとか落ち着かせようとする九太でしたが、一郎彦は完全に闇に飲み込まれ、クジラの姿になって街を破壊していきます。 渋天街では、瀕死の重傷を負った熊徹が目を覚まし、新たな宗師として神に転生する力を使おうとしていました。 そのころ人間界では、九太が自身の闇に一郎彦を取り込み、自分もろとも葬ろうとしていました。そんな彼の前に現れたのは、大太刀のつくも神となった熊徹。彼は九太の心の剣となり、ともに一郎彦を鎮めることに成功します。 その後すべての記憶を失ったまま、一郎彦は自室で目を覚まします。前宗師は熊徹がいなくなってしまったために宗師の役目をつづけることになりました。 九太は再会した実の父親と暮らすことを決め、人間界に戻ったのでした。

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【解説1】細田守監督が『バケモノの子』をつくったねらいとは?

『バケモノの子』

細田監督が本作に込めた思いは、『バケモノの子』公式サイトのコメントで語られています。簡単にまとめると、「現代社会の変容にともなう家族観の変化に敏感に反応して、新しい家族のあり方と親子関係を模索した」というものです。 さらに『バケモノの子』着想のきっかけは、「当時自分自身が親になってみて新しい発見があったことと、子どもは実の親だけでなく周りのたくさんの人々に育てられているという思いを持っていたから」とのこと。 誰もが子どもにとっての師になり得るし、その影響を受けて子どもが成長していく過程は実の親でなくても感動的に感じられるものでしょう。 子どもたちには「心踊るおとぎ話」を、若者たちには「自分は何者であるか」という問いを、大人たちには熊徹と九太の「唯一無二の絆」への感動を意図して制作したことを明らかにしています。 子どもから大人まで幅広い世代に向けて、それぞれ別の意図を持って作られた作品だとわかりますね。

物語の展開にも意味がある!すべてのキャラが蓮の成長を導くキーマンに

本作には、前半の渋天街での修行時代までは良かったものの、人間界に戻り渋谷と渋天街を行ったり来たりする後半は詰め込みすぎている!という意見もあります。 たしかに楓との出会いや実父との再会を描く人間界シーンと、熊徹とライバルの猪王山との対決を描くバケモノ界シーン、そして猪王山の長男・一郎彦の心の闇が暴走して引き起こす両世界での大事件など、盛りだくさんです。 しかしどれも、この作品にはなくてはならない要素といえます。人間界での知恵を授け、学歴社会を生き抜くための戦友ともいえるヒロインの楓、育ての父・熊徹と対比される実父、蓮と同じくバケモノの子として育った一郎彦、全員が蓮の成長を導く大切なキーマンなのです。 そのため彼らそれぞれとの交流を描くことは、必要不可欠だったのでしょう。

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怒涛の展開を盛り込んだからこそ、分かりやすさも大切に

キーマンが多すぎる!という批判もあるかもしれませんが、それをカバーするためか「分かりやすさ」を追求して仕掛けられた「記号としてのキャラクター」も頻出しているのも本作の特徴です。 冒頭のシーンで蓮を引き取ろうとする母方の親戚たちは、顔が見えません。いかにも抑圧的な人間たちで、蓮が孤独感を倍増させて家を飛び出すほどの険悪さを表すキャラクターとして描かれています。 また図書館で注意した不良たちに楓が絡まれるシーンでは、主人公がヒロインを助けるというヒーローもののようなありがちな展開も仕込まれています。もちろんこの不良たちは、楓と対比されるいかにも分かりやすく悪いキャラクターです。 また批判のなかには、状況や心情を過剰に台詞で説明しすぎているというものも。作品として「大切なことをちゃんとセリフで言う」というテーマがあったからのようですが、観客の想像力を奪う過剰演出という見方が多いようです。 しかし前述したように、監督は子どもから大人まで「あらゆる世代が楽しめる清々しい映画」を目指していました。そこに沿うために「分かりやすさ」を求めることは必然だったといえます。

【解説2】図書館と渋谷という「場所」にも意味があった?

『バケモノの子』

さらに細田監督は公式サイトのインタビューで、舞台を渋谷にした理由についても語っています。 それまでは田舎を舞台にした作品が多かった細田監督ですが、実は「慣れ親しんだ街の中にこそ、ワクワクするものが潜んでいるのではないか」とのこと。 そこでたくさんの人が集い、常に変化している魅力的な場所として、渋谷を選んだそうです。蓮が人間界とバケモノ界を行き来しすぎて異世界が近すぎる?という気もしますが、雑多な都市空間の路地裏に異世界の入口があるなんて、確かにワクワクします。 そして本作最大の謎ポイントとして挙げられるのは、8年ぶりに渋谷に戻った蓮が、なぜ図書館に行ったのかということ。 その謎の答えは、小説版で明らかにされています。街中のおびただしい文字に吐き気がした蓮は、自分の見知った文字が読める図書館へ行って子どものころの感覚を取り戻そうとしたのだと。 そして手に取ったのが、家にあった「白クジラ」の本だったようです。よく見るとこの児童書「白クジラ」にはメルビイル(メルヴィル)原作と書いてあります。なぜ同じ児童書ではなく漢字も読めないのに文学全集の「白鯨」を手に取ったのでしょうか。 これは、蓮の知識欲の表れだったのではないかと推測できます。知識を得るために図書館を選ぶのは自然で、楓と出会った後の蓮が勉強に励む姿は彼の止めどない知識欲を表していますね。

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【解説3】九太が図書館で手にした小説『白鯨』って?

白鯨

映画『バケモノの子』の物語には、『白鯨』という小説が重要なファクターとして何度も登場します。蓮が子どものころ読んでいた『白クジラ』、図書館で手に取った『白鯨』、楓に託した『白鯨』、そして一郎彦が拾った『白鯨』……。 『白鯨』はさまざまな人種で構成された船乗りたちの冒険を途方もないスケールで描き出し、世界的に名著として知られる長編小説です。 主人公である船乗りのイシュメールは、捕鯨船ピークォード号に乗り込みました。そこで片脚を失った船長エイハブと出会います。 彼は自分の片脚を奪った巨大なマッコウクジラ「モビー・ディック」への復讐にとらわれていました。そして、その復讐心から多くの人々を狂気に巻き込んでいきます。 著者のハーマン・メルヴィルは1819年、アメリカのニューヨークに生まれた作家です。銀行事務員、小学校の代用教員、捕鯨船乗組員などさまざまな職業を経て、1851年に『白鯨』を完成させました。 難解な作風で悲観性溢れた小説だったため存命中はほとんど評価されず、ようやく日の目を見始めたのは没後しばらく経ってからのことでした。

『白鯨』が象徴するものとは?

日本版の題名でもある「白鯨」とは、エイハブ船長の片脚を奪った巨大なマッコウクジラ「モビー・ディック」のことです。 エイハブ船長とクジラの対立は、一見すると善と悪の対比に思えます。彼は自分の片脚を奪った憎き相手を「悪魔の化身」と見なし、報復を正義と考えていました。 しかし『バケモノの子』では、さらに作品の本質に迫った解釈をしています。作中で楓は、『白鯨』におけるクジラについて「白鯨は自分を映す鏡で、心の闇の象徴」なのだと語っています。 死闘の末、白鯨もろとも海底に沈んでしまうエイハブ船長は、自らの闇に引きずり込まれてしまったということになのでしょう。 この解釈を前提とすると、『バケモノの子』に『白鯨』が出てきた理由がよくわかります。 映画内では「人間の心に巣食う闇」が終始語られています。バケモノにはなくて人間だけが持っている心の闇の象徴として、『白鯨』が下敷きとなって物語ができあがっているのです。 実際に物語の終盤では、一郎彦の心の闇が巨大なクジラとなって九太たちに襲いかかります。これは楓の台詞、ひいては細田守監督の『白鯨』に対する解釈を表現したものなのです。

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なぜ九太は闇落ちせず「白鯨」に取り込まれなかったのか?

同じ人間でありながらバケモノに育てられた九太と一郎彦ですが、2人のたどった運命は対象的なものでした。 作中で九太は、一郎彦について「自分もそうなっていたかもしれない」と語っています。バケモノなのか人間なのか、その間で迷い、どう生きるべきか悩んでいたという点で、2人は同じでした。 しかし九太が闇に取り込まれなかったのは、彼が修行のなかで得てきた価値観の多様性のためではないでしょうか。 九太は熊徹たちと各地の宗師を訪ね歩く旅で、さまざまなかたちの「強さ」を知っていきました。また彼には熊徹だけでなく多々良や百秋坊という「父親」もおり、楓という「師匠」もいたのです。 一方で、一郎彦は父親である猪王山にあこがれ、彼のようになりたいと強く願っていました。 しかし自分が人間であることは薄々感づいており、絶対にその願いが叶うことはないという絶望を抱いていたのではないでしょうか。また彼には父親以外に目標とする人物がおらず、絶対的な存在として見ていました。 『白鯨』のエイハブ船長が復讐に取り憑かれ、それだけが絶対の正義だと考えていたように、1つの価値観だけが正しいと思い込んでしまった一郎彦は、闇に落ちてしまったのではないでしょうか。

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【解説4】中島敦の小説『悟浄出世』もベースになっている?

『バケモノの子』のベースとなった作品は実はそれだけではありません。エンドクレジットに表記されていたのは『山月記』で有名な中島敦の『悟浄出世』。この作品もまた、映画の肉付けとして参考にされています。 夭折の作家・中島敦が『西遊記』を題材として書いた『悟浄出世』は、普段は主人公になることのない沙悟浄の視点から紡いだ物語。流沙河に住む妖怪のなかでもとりわけ弱気な沙悟浄は、「自分は何者なのか」を徹底的に問いつづけ、さまざまな妖怪の賢者に教えを請いに行きます。 彼が三蔵法師一行に出会うまでが描かれた本作は、『西遊記』を沙悟浄の視点で描いた『悟浄嘆異』と並び、自我問題を掘り下げた作品です。

ストーリーを語るのは多々良と百秋坊

『バケモノの子』

映画は2人の人物による語りで始まります。その2人とは、熊徹の悪友・多々良と僧侶の百秋坊。 冒頭のシーンからもわかるように、『バケモノの子』は多々良と百秋坊の視点で語られているのです。この点は、『西遊記』ではあまり注目を浴びることのない沙悟浄を主役にした『悟浄出世』と重なります。 この2人の視点で語られているからこそ、九太と熊徹の成長過程がよりはっきりと伺えるようになっていました。 もちろん多々良がサル、百秋坊がブタという姿からも『西遊記』とのつながりが感じられますね。

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『悟浄出世』へのアンサー?「強さとは何か」を探す旅が描かれている

映画の中盤では、九太と熊徹、多々良、百秋坊が「強さとは何か」を求め、各地の宗師を訪ねる旅へと出ます。このシーンはまさに、『悟浄出世』で「自分とは何者か」という問いの答えを求めて、沙悟浄が各地の妖怪の賢人を訪ね歩く姿と重なっています。 また『悟浄出世』に登場する妖怪の賢人と、本作に登場する各地の宗師はともに4人。この点からも『バケモノの子』が『悟浄出世』を意識して作られたことがわかります。 本作で九太は、1人で生きていくために「強さ」を求めて、熊徹の弟子になりました。 しかし宗師たちを訪ねる旅で、「強さ」とは腕力だけではないと知っていきます。そして熊徹との絆や楓との出会い、実の父との再会などによって自分の居場所を見出し、「本当の自分」を見つけたのです。 「強さ」とは人とのつながりであり、居場所のあるところにこそ「本当の自分」がいるということなのではないでしょうか。 『悟浄出世』で中島敦が問いかけた自我問題に、細田守監督は『バケモノの子』でひとつの答えを出したといえます。

【解説5】クロサワ映画やジャッキー主演カンフー映画へのリスペクト

本作では人間界で生まれ育った蓮がバケモノ界で「九太」となり、熊徹のもとで修行に明け暮れます。しかし熊徹は、粗野で精神的にも幼い“子どものような”バケモノ。熊徹の悪友・多々良や、僧侶の百秋坊の支えなしには、九太を育てるのは困難でした。 実は九太を育てた熊徹、多々良、百秋坊にはモデルがいるとのこと。活劇の名作として参考にした黒澤明監督『七人の侍』の主演・三船敏郎が熊徹のモデルだそうですが、確かにそっくりです! 多々良と百秋坊の名は、同じく出演者の多々良純と千秋実からだとか。

また『バケモノの子』は、1978年に公開されたジャッキー・チェン主演の映画『スネーキーモンキー 蛇拳』からも、大きな影響を受けているようです。 特に九太が熊徹の足の動きを真似て修行に励むシーンは、「スネーキーモンキー」に同様のシーンがあります。さらに師匠がダメ人間だったり、師匠と弟子がともに競い合ってごはんを食べるシーンがあったりと、多くのオマージュが見られました。 細田守監督は、『バケモノの子』を一言で表すと「修行もの」であると答えており、近年では少なくなったカンフー映画などの修行により主人公が強くなる作品にオマージュを捧げているのです。

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【考察】九太や一郎彦はそれぞれの道に……その後はどうなった?

本作のラストシーンで、九太は「蓮」として人間界で生きることを選び、実の父親と暮らしはじめます。また、楓に勧められていたように大学へも進学するのでしょう。バケモノの世界だけでなく、人間界にも自分の居場所を見つけた彼は、熊徹の大太刀を胸に、強く生きていくでしょう。 もちろんその「強さ」とは、腕力だけの問題ではありません。 一方で、一度は闇に飲み込まれた一郎彦は、騒動の記憶を失ったまま目を覚ましました。彼の父である猪王山は、宗師から「真実を隠しつづけたことで、一郎彦は闇に飲まれた」と諭されていたため、今回のことは本人にはっきりと告げるのではないでしょうか。 一郎彦は九太と違って赤ん坊のころからバケモノの世界で育っているので、そこが彼の居場所なのでしょう。彼の両親や弟である次郎丸は心から一郎彦のことを大切に思っているため、バケモノの世界でこれからも生きていくことができると思われます。

映画『バケモノの子』のあらすじは解説を読めば読むほど奥深かった

『バケモノの子』
©2015 THE BOY AND THE BEAST FILM PARTNERS

バケモノと人間の少年の交流と2人の成長を描いた『バケモノの子』は、多くの人の感動を誘い、高い人気を獲得しています。 『悟浄出世』をモチーフに主人公たちの成長を描き、『白鯨』になぞらえて人間の心の闇に向き合った本作は、知れば知るほど奥の深い作品です。 しかしカンフー映画にオマージュを捧げながら、深刻になりすぎることなくエンターテインメントとしてしっかりと楽しめる作品になっているところが魅力となっています。 人とのつながりや「強さ」について掘り下げられった本作を、ぜひもう1度楽しんでみてください。