2018年4月26日更新

ウルトラマンを作った男、成田亨の壮絶な人生に迫る【太陽の塔制作にも参加】

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みんなが知ってるキャラクターの生みの親

不朽のヒーローウルトラマン。お金が大好きな怪獣カネゴン。見た目も役柄も異なるこの2つのキャラクターには、円谷プロダクション製作の特撮作品に登場するという点以外にもある共通点があります。それは成田亨というデザイナーによって生み出されたということです。 1960年代に「怪獣ブーム」を引き起こすきっかけとなった『ウルトラQ』から怪獣のデザインに加わり、多くのヒーローやメカニックをデザインした成田亨。本記事では、優れたキャラクターの作り手であり、特撮作品以外でも優れたアーティストとして名前を残した彼について紹介します。

美術を志したきっかけが生まれた幼少期

成田亨は1929年に兵庫県神戸市で生まれ、その翌年に青森県青森市に移りました。青森で数年を過ごした後、兵庫県武庫郡大庄村(現在の兵庫県尼崎市南西部に該当)に転居。しかし、空襲で被災したため青森に戻ります。 最初に青森で暮らしていた時、当時まだ1歳にも満たなかった成田亨は、囲炉裏の火をつかもうとして左手を負傷。その火傷は数度の手術でも完治せず、転校先の兵庫県の学校でいじめの原因となってしまいました。 いじめられていた少年期を救ったのが、負傷していない右手だけで描ける絵画だったのです。この経験が成田亨を美術の道へと進めました。

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その後の道を決定づけた美術学校時代

旧制中学卒業後、働いて学費を貯めた成田亨は、20歳で武蔵野美術学校(現在の武蔵野美術大学)に入学しました。当初は洋画科に在籍していたものの、途中で彫刻科に移り、彫刻家への道を歩き始めます。 また、美術学校を卒業し、同校の彫刻研究科(現在でいう大学院)に進学した1954年には、アルバイトとして『ゴジラ』に参加。同作品では特撮シーンで使われる建物のミニチュア作成を担当しました。翌年の続編『ゴジラの逆襲』にも加わり、特撮作品に携わっていくようになります。

たくさんのキャラクターを生んだ円谷プロ時代

各映画会社の特撮作品で美術スタッフを務めながら、彫刻家としても活動していた成田亨は、1965年に円谷特技プロダクション(現円谷プロダクション)の契約社員になります。当時放映中だった『ウルトラQ』の美術監督に就任し、カネゴンなどのデザインを担当しました。 成田亨は同年に放映を開始した『ウルトラマン』にも参加。番組の顔であるウルトラマンをはじめ、ゼットンやジャミラなど数々の怪獣や、主人公ハヤタの所属する科学特捜隊基地などのデザインまで担当することになります。 1967年の『ウルトラセブン』、その翌年の『マイティジャック』でも美術監督を務め、様々なデザインを手がけましたが、両作品の製作途中で円谷プロを退社。美術監督からも降りてしまいました。

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円谷プロ退職後も幅広く活躍

円谷プロ退職後はフリーの特撮美術監督兼彫刻家として活動。それ以外にも新宿伊勢丹のショーウィンドウなどの商業デザインも手がけるなど、幅広く活躍しました。 1970年の大阪万博では、太陽の塔の内部「生命の樹」の制作に参加。岡本太郎の原案を元にした成田亨のデザインは、塔の老朽化のため長らく封印されていましたが、2016年に修復作業が始まりました。2018年には一般公開が48年ぶりに再開され、現在でも見ることができます。 デザインや彫刻で活躍する一方、成田亨はウルトラマンや怪獣の著作権をめぐって円谷プロと争うようになります。残念ながらこの問題は法廷や話し合いでも解決せず、両者の間にわだかまりを残したまま、2002年に成田亨は72歳でこの世を去りました。

どうやってウルトラマンは生まれたのか?

当初『ウルトラマン』の主人公は怪獣となる予定だったそうです。しかし、途中で怪獣から宇宙人へとコンセプトが変更され、脚本家の金城哲夫は成田亨にかっこいい宇宙人をデザインするよう依頼しました。 最初に誕生したのは角とヒゲを生やした宇宙人でしたが、試行錯誤を重ねるうちにそのデザインは大きく変化。そうして生まれたデザインが、今日知られているウルトラマンの姿です。 コスモス、つまり秩序の象徴と彼の中で位置付けられたヒーローを作るに当たっては、人の顔から余計なものを削ぎ落とす作業が行われました。アルカイック・スマイルをたたえた古代ギリシャの彫像のように、シンプルでありでなければならないと成田亨は考えていたのです。

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怪獣デザインの揺るぎないポリシー

企画段階の『ウルトラマン』において敵の怪獣たちは、おどろおどろしい外見をしたいかにも悪者といった見た目になる予定でした。しかし、妖怪のように恐ろしいだけの見た目が子供番組に適さないと考えた成田亨は、怪獣をデザインするにあたって三原則を定めます。 それは、手や足が何本にもなるお化けのような怪獣は作らない、動物をただ大きくしたものにしない、体が壊れたようなデザインにしないという旨のものでした。また、怪獣や宇宙人たちは彼らの星では正義の存在であるため、かっこよさがなければならないと成田亨は考えていました。 ウルトラマンとは対照的に、カオス(混沌)の象徴としてデザインされながらも、魅力的な存在になったのは、成田亨が自身のポリシーに従ったからなのではないでしょうか。

成田亨が参加した代表的な作品を紹介!

『ウルトラQ』(1966年)

第2クールから美術監督として『ウルトラQ』に加わった成田亨。ヒーローが登場せず、巨大な動植物や不思議な電車などをテーマにしたエピソードが多い同作にも数々の怪獣が登場しました。 成田亨がデザインしたのは、バルンガやラゴンなど様々な姿をした12体。その中には、ラゴンのように後のシリーズ作品に頻繁に登場するものや、カネゴンのように50年以上経っても新しいグッズが発売されるキャラクターもいます。 ちなみに、第19話『2020年の挑戦』に登場するケムール星人について成田亨は、自分の芸術に対する理念と合致しているとの理由から、自ら会心の出来と後に語りました。

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『ウルトラマン』(1966~1967年)

成田亨が『ウルトラマン』で手がけたレッドキングやゼットン、ゴモラなどのキャラクターは、後続シリーズにも時おり登場し、長い間グッズが展開され続けています。 また、同作ではキャラクター以外にも科学特捜隊のマシンであるサブビートルや、科学特捜隊バッジ等小道具のデザインも担当。しかし、メインマシンであるジェットビートルの制作が撮影に間に合わず、他の映画で使った模型を借りてこなければなりませんでした。 そういった経緯から作品全体のデザインに統一性がなかったことを成田亨は悔やんでいたそうです。

『ウルトラセブン』(1967年)

続く『ウルトラセブン』でも、成田亨は主人公ウルトラセブンのデザインを担当しました。同作の第29話を最後に美術監督を降りますが、降板までに37体もの怪獣や宇宙人を生み出します。 成田亨がこの作品のためにデザインしたエレキングやメトロン星人なども長年シリーズ作への登場やグッズ展開で愛されています。また、同作からちょうど50年後の2017年に放映された『ウルトラマンジード』で大活躍する宇宙人たちも成田亨の手で生まれました。 今作では主人公モロボシ・ダンが所属するウルトラ警備隊の司令室の内装から、ウルトラホークといったマシン、隊員服や小道具に至るまで成田亨が徹底してデザインに関わり、統一感のある世界観を描くことに成功しました。

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『マイティジャック』(1968年)

『マイティジャック』はフジテレビ系列で放映された特撮ドラマで、国産特撮ドラマとしては初めて1時間枠で制作されました。本作はウルトラマンシリーズと同じく円谷プロ制作でしたが、子供向け番組ではなく、大人向けのスパイアクションドラマに仕上がっています。 本作の特徴の1つが巨大戦艦や戦闘機などのメカニックによるアクションシーンでした。メインマシンであるマイティ号をはじめ、敵組織の装備を含め本作に登場する全てのメカのでデザインを成田亨が担当しました。

『突撃!ヒューマン』(1972年)

『突撃!ヒューマン』は日本テレビ系列で放映された特撮ドラマです。当時人気を博していた『仮面ライダー』に対抗するために作られた本作は、普段は人に紛れて暮らしている宇宙人が子供たちのピンチに駆けつけ、超人・ヒューマンに変身して戦うという作品でした。 成田亨は自分が担当した変身後のヒューマンのデザインに大いに満足し、自らの集大成であると語っていました。ステンレス叩き出しよる金属成型で作られたヒューマンのマスク部分の出来栄えについても会心の出来と語っており、第1話の放送を見た際には思わずかっこいいと喜んだそうです。

『新幹線大爆破』(1975年)

1994年の映画『スピード』の原案と言われていることでも有名な映画『新幹線大爆破』。高倉健、千葉真一、宇津井健を筆頭に、豪華キャストが勢揃いした本作の特撮シーンを成田亨が手がけています。 成功なミニチュア新幹線を用いた特撮シーンで成田亨は限られた予算内で撮るために、背景はミニチュアではなくモノクロ写真にするなど工夫していたそうです。その代わり、シュノーケルカメラという当時では珍しく高価な小型カメラを使用し、臨場感あふれるシーンを撮影しました。 シュノーケルカメラを使った映画撮影は史上初の試みでした。同作が製作されたのは、ジョージ・ルーカスが『スター・ウォーズ/エピソード4 新たなる希望』の撮影で同種のカメラを使用するわずか2年前のことです。

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『円盤戦争バンキッド』(1976年)

『円盤戦争バンキッド』は東宝製作の特撮ドラマです。日本テレビ系列で放映された本作は、奥田瑛二(当時は奥田英二名義)の初主演作でもあります。少年少女の5人組が地球を攻撃してくる宇宙人から地球を守るというストーリでした。 成田亨は本作のストーリー自体には魅力を感じていなかったものの、自らがデザインした敵のブキミー星人のデザインは気に入っていました。その理由としては、奇怪で複雑なデザインを嫌っていた成田亨のポリシーに合致する、抽象的なデザインを作ることができたためと自分で語っています。

長い年月を経ても色あせないデザイン

成田亨は自分のデザインについて信念やポリシーを持っていました。そのこだわりは万人に受け入れられるものではなく、時には他のスタッフの考えと衝突することもあり、彼が悔しい思いをすることもありました。しかし、彼がこだわり抜いたデザインは50年以上の月日を超えて愛され続けています。 そんな彼の作品は、上記の作品の中で楽しめる他、画集や著作にまとめられています。また、出身地である青森県の青森県立美術館には成田亨コレクションが集められていますので、足を運んでみるのもいかがでしょうか?