2017年7月6日更新

ブルース・リーのあなたが知らない10のこと!

©Dennis Van Tine/ABACAUSA.COM/Newscom/Zeta Image

カンフーの代名詞ともいえるブルース・リー。32歳にして亡くなりましたが、彼の映画は多くの人を魅了しました。代表作『燃えよドラゴン』を観て、心が熱くならない少年はいません。そんなブルース・リーのあまり知られていないことについてご紹介します。

1.サンフランシスコ生まれである

ブルース・リーは香港生まれではありません。サンフランシスコのチャイナタウンで生まれました。

父親は中国系で、母親は中国人と白人のハーフでした。興味深いことに、ブルースは辰年、辰の日、辰の時に生まれました。これは運命でしょうか。

リーは3歳までアメリカで育ち、1941年、両親は彼を連れて香港に移住します。

リーは10代後半までクーロン地区に住みました。ライバルのギャングとの戦いに敗れた後、17歳のとき、彼は詠春拳に興味を持ちました。

そして映画の主人公にもなった有名なイップ・マンのもとで訓練を積みました。

18歳の時、たった100ドルを持ってアメリカに戻ります。そしてワシントン大学に入学し、演劇科の学生となります。この決断が後に彼を俳優の道へと導いたのです。

2.ド近眼である

ブルース・リーの正確な動きを見て、彼がド近眼であると思う人はまずいないでしょう。しかし、実際にそうなのです。そのために正確にものを見ることに苦労しました。

リーが詠春拳を選んだ一つの理由は、詠春拳が実際のコンタクトを重視するからでした。

ド近眼ゆえ、彼は最も早くコンタクトレンズを試した一人となりました。しかし残念ながら、彼には合いませんでした。そのために、あの大きな、コーラのビンのような眼鏡をかけることとなったのです。

彼は『ドラゴン怒りの鉄拳』においてもその眼鏡をかけています。それはなぜか。彼はときどき自身の持って生まれたものや祖先を思い出すためにそれをかけるのを好みました。

またド近眼であったため、ベトナム戦争で徴兵されずに済みました。

3.チャチャの1958年香港チャンピオンである

マーシャルアーツを始める前、リーはダンスを習いました。意外にもリーには他に並ぶものがないほど、ダンスの才能があったのです

最初は女性にモテるために始めましたが、すぐに自分の才能に気づきました。またダンスに必要な技術は、マーシャルアーツにも有用でした。

1958年には香港のチャチャ・ダンス大会にエントリーし、チャンピオンになりました。

アメリカへ渡る船上では、乗客にダンスを教え、お金を稼いでいました。

4.ジョージ・レーゼンビー、スティーブ・マックイーン、ロマン・ポランスキーを教えた

ブルース・リーは、アメリカでマーシャルアーツをかっこいいものとしました。

リーは仲間たちと修練を積むとともに、映画の役の準備として他の人にもマーシャルアーツを教えました。

有名な生徒の一人は、ジェームズ・ボンドを演じたジョージ・レーゼンビー。彼は、未完成に終わった『死亡遊戯』にキャスティングされ、10万ドルのギャラをオファーされました。

彼はリーがアレルギー反応で亡くなった日、ランチをすることになっていた人物でした。

またリーは『大脱走』のスティーブ・マックイーンも教えました。彼は生徒であっただけではなく、親友でもありました。

最も変わっている生徒は、ロマン・ポランスキー監督でした。彼はマーシャルアーツをやる人間には全く見えません。スティーブ・マックイーンのようにリーの友人となり、フリーでレッスンを受けました。

他の有名人の生徒としては、ジェームズ・コバーン、マイク・ストーン、ジョー・ルイス、カリーム・アブドゥル=ジャバー、チャック・ノリスがいます。

5.チャック・ノリスと4時間、ホテルの廊下でスパーリングしたことがある

ブルース・リーとチャック・ノリスはあるホテルに泊まっていました。彼らはエレベーターに乗りました。そして突然、パンチを繰り出し始めます。

最初は遊びでした。しかし次第に真剣なものになっていきます。エレベーターのドアが開くと、廊下に出て、戦います。

戦いは夜通し続けられました。チャック・ノリスは4時までスパーリングが続いたと書いています。

6.モハメド・アリと戦いたかった

極めて熟達した武闘家は、他の武闘家を尊敬するものです。

ブルース・リーはいつかモハメド・アリと戦いたいと思っていました。それは彼が嫌いだからとか、自分を強くみせたいと思ったからではなく、アリが本当に特別な力を有するとみていたからです。

リーはアリの動きを研究していましたが、アリに勝つ自信はありませんでした。

残念ながら、両者の戦いは見られませんでした。しかし、どちらが勝つかという問題は世界中の少年たちの議論のまとになっています。

7.有名になってから、どこへでも357マグナムを持ち歩くようになった

誰も勝てない男としてリーが有名になると、数えきれないだけの人々が自分の力を証明しようと戦いを申し出るようになります。

中には強制するものもありました。リーは身の安全に不安を覚え、狂人が突然、ショットガンをもって飛び出してくることにおびえるようになりました。

結局、リーは用心のため、357マグナムリボルバーをいつでも持ち歩くようになります。世界で最も有名な武闘家が銃を持つ必要を感じていたというのは滑稽ですが、彼の心中は理解できるでしょう。

確かにリーはキックやパンチに優れていましたが、武器を持った者を相手にするのはまた別のはなしです。

8.『ミッション・インポッシブル』のテーマ曲でトレーニングしていた

トレーニングする際、よく聞く曲というのがあるものです。モチベーションを高めてくれる曲ほどインスパイアされるものはありません。

リーのトレーニングのための曲は、『ミッション・インポッシブル』のテーマ曲でした。

その曲は、多くの映画音楽で有名なラロ・シフリンの作曲によるものでした。リーは彼に会ったとき、トレーニングで『ミッション・インポッシブル』の曲を使っていて大好きな曲であることを話し、打ち解けました。

ラロ・シフリンは、『燃えよドラゴン』の音楽を手掛けることとなります。

9.『燃えよドラゴン』でジャッキー・チェンをノックアウトしそうになった

この事件に関しては、ジャッキー・チェン自身がテレビ番組で次のように語っています。

私のベスト・ストーリーは、若い頃、『燃えよドラゴン』の撮影に参加し、ブルース・リーと戦ったことです。私はカメラの後ろで、ブルース・リーが見えるのを今か今かと待っていました(ブルース・リーの動きを真似るジャッキー)。私は彼に立ち向っていきました。「アー!」。そのとき、突然、目の前が真っ暗になったのです。それは彼が棒で私の頭を実際に打ったからでした。彼のミスです。私は何もしていません。私は倒れ、少し眩暈がしましたが、大丈夫でした。

私は彼を見ました。彼は何もしません。彼は見て…皆…演技を続け、監督の方を振り返って、「カット」と言いました。それから2本の棒を投げ捨て、「大変だ」と言い、私に駆け寄って抱えあげます。「申し訳ない、申し訳ない」。実際、私は若くてタフだったので、どこも痛くはありませんでした。しかし、突然、自分でもどういうわけかわかりませんが、とても痛いふりをしました(痛がる真似をするジャッキー)。できるだけ長くブルース・リーに抱えてもらいたかったからです。

その日1日中ずっと彼は私を心配してくれました(大丈夫かどうか伺うリーの真似をするジャッキー)。「大丈夫です、大丈夫です」。それは最高の時間でした。彼は私の名前を聞いてくれました。「ジャッキー」。それから「ジャッキー? ジャッキー、ジャッキー」と声をかけてくれました。

10.詩人であり、スケッチが得意であった

ブルース・リーは身体的に優れていただけではなく、アーティスト的な側面も持っていました。パンチやヌンチャク使いで有名なリーは、鋭敏な詩人でもありました。

彼はリラックスして座り、よく詩を書きました。多くは彼の著作『秘伝截拳道への道』で読むことが出来ます。

リーはまた優れた画家、スケッチ・アーティストでした。マーシャルアーツのスタイルを書くことが好きで、だいたい格闘中のキャラクターを描きました。

このことは映画のシーンをインスパイアすることにつながりました。