知ってる?中国出身の天才映画監督7人【初代から第六世代まで】
制約を受けながらも成長してきた中国映画
香港映画、台湾映画は別として、中国大陸で製作される映画は政府により様々な制約を受けてきました。特に政治的な内容の映画は中国国内での放映が禁止されることもありました。しかしそれでも海外では映画祭で上映されるなど高く評価されてきた作品も多くあります。 中国映画の歴史はその時代背景を反映して第一世代から第六世代までに分けられ、極端な社会主義政策のため、映画の製作自体が大きく制約された世代もあります。 それでも映画産業は衰退することはなく、優秀な映画監督を排出し続けてきました。
中国映画の初期、第一世代に活躍した程歩高
1896年に中国に映画がもたらされた後、初めての中国映画といえる作品は1905年に公開された京劇のドキュメンタリー『定軍山』と言われています。当初中国では映画は演劇の一部と捉えられており、演劇関係者が映画製作の伝統を作り出しました。 その後アメリカから映画技術が持ち込まれ、実質的な最初の中国映画の作品は程歩高が監督した『春蚕』です。 1893年生まれの程歩高は第一世代に活躍した映画監督のひとりで『春蚕』の他、左翼運動に参加していた関係から若干左翼的とも言われる『狂流』なども監督し、どちらの作品も当時大好評を得ました。
第二次世界大戦直後の第二世代に活躍した鄭君里(チョン・チュンリー)
1945年以降、中国の映画産業は大きな発展を遂げます。次々と新しい映画が製作され、その多くが蒋介石率いる当時の政府の方針に対する批判や幻滅を描いた作品でした。 その中でも特に重要とされるのが、1947年に公開された古典的名作と言われる『春の河、東へ流る』です。3時間を超える大作で、本作を監督したのが、映画産業が発展を始めた第二世代を代表する鄭君里監督でした。 鄭君里監督は1911年上海に生まれ、監督としてのみならず、俳優としても幾つかの作品に出演しています。 第二世代に活躍した映画監督はその後社会主義の理想を描いた映画作りを行った監督、もしくは香港に移住し香港映画の基礎を築いた監督の二手に分かれますが、鄭君里は中国に留まり、生涯社会主義の理想を描いた作品作りを行い続けました。
停滞時代の第三世代を代表する謝晋(シエ・チン)
中国に混乱と貧困をもたらしたとされる文化大革命は映画産業界にも多大な影響を与えることとなります。 文化的統制が強まったため、コミューン主義を理念とする映画のみの製作が許可され、それらのみが繰り返し上映されるという映画産業は停滞の時代といえる第三世代を迎えることとなりました。 この第三世代に活躍した監督たちは第三代導演と呼ばれ、そのうちのひとりが文化大革命終了後も活躍を続ける謝晋です。 1923年生まれの謝晋は文化大革命以前から映画監督として活動しており、1957年製作の『女子バスケット5号』で注目を集めました。代表作は文化大革命を描いた1987年公開『芙蓉鎮』と言われていますが、中国の映画産業暗黒の時代を支えた中国映画史上もっとも重要な監督のひとりと言えるでしょう。
中国ニューシネマ時代、第四世代の呉貽弓(ウー・イーコン)
文化大革命終焉後、中国映画は急成長の時代に入り、中国ニューシネマと呼ばれるムーヴメントが起き、第四世代と呼ばれました。 第四世代に活躍した映画監督のひとりと称されるのが呉貽弓で、呉永剛との共同監督作品である『巴山夜雨』は第1回中国金鶏百花映画祭賞を受賞しています。その後も『北京の想い出』でもマニラ国際映画祭グランプリを受賞するなど、中国映画界が花開いた時代、第四世代を支えた重要な監督のひとりです。
中国映画最盛期の第五世代を代表する陳凱歌(チェン・カイコー)
1980年代後半に入り、中国都市部の経済が発展していくのに伴い、映画の製作本数は1985年には年間545本となるなど、映画業界は安定の時期を迎えます。 この時代は第五世代と呼ばれ、日本でも馴染みのある『紅いコーリャン』や『さらば、わが愛/覇王別姫』などが次々と製作され、また海外の映画監督にも影響を与える作品が多く排出されていきます。 この第五世代を代表する監督のひとりである『さらば、わが愛/覇王別姫』の監督、陳凱歌。1952年生まれで、カンヌ映画祭のパルムドール賞を受賞するなど、世界的にも有名な監督で、中国映画を世界に認めさせた監督のひとりと言っても過言ではないでしょう。
映画製作を禁じられた第六世代を代表する婁燁(ロウ・イエ)
1990年代に入り、国家による映画配給体制が取り消されたことにより、映画事業は興行収入が頼りとなり、また製作費の削減などにつながることになります。しかし映画産業が衰退するわけではなく、低予算で短期間で製作される傾向が強まりました。 この時代は第六世代と呼ばれ、第五世代に比べ、個人主義的で、現代の都市生活に注目した作品が多くあります。 この第六世代を代表する監督のひとりは『ふたりの人魚』や『パープル・バタフライ』などを監督した婁燁です。 婁燁は1965年上海に生まれ、フェデリコ・フェリーニ監督から大きな影響を受けていると言われ、話題作を手がけるも天安門事件を描いた2006年公開の『天安門、恋人たち』は中国では上映禁止となります。 その上、中国政府から5年間の映画製作禁止を命じられるも2009年にはフランスと香港の出身により、同性愛を描いた『スプリング・フィーバー』を発表し、2012年にはカンヌ映画祭のオープニング作品として上映された『二重生活』を製作するなど、コンスタントに話題作を撮り続けています。
国際的評価の高い王小帥(ワン・シャオシュアイ)
第六世代の監督を語るのに外せない監督のもうひとりが王小帥です。 1966年に上海で生まれ、1993年の長編映画デビュー作『冬春的日子』がいきなり国際映画祭で賞を受賞するなど、国際的な注目を浴びることになりました。 その後2作目を製作後しばらくは映画製作から離れますが、1998年に復帰を果たし、2001年公開の『北京の自転車』でベルリン国際映画祭審査員グランプリを受賞、2005年の『青紅』でカンヌ映画祭審査員賞、2007年の『我らが愛にゆれる時』ではベルリン国際映画祭脚本賞を受賞するなど、次々と国際的映画祭で賞を受賞しています。
制限を受けながらも衰退しなかった中国映画を作り出した監督たち
社会主義の国である中国の映画産業は、特に文化革命時代大きな制約を受けてきました。それでも映画製作を諦めなかった優秀な監督たちのおかげで、衰退することなく成長を遂げてきました。そして今も多くの優秀な監督たちが中国映画を支えるべく、活動を続けています。 中国出身の監督はハリウッド映画の監督ほど注目されていないのも事実ですが、優秀な監督が多いことは上記で紹介した通りです。 ぜひこれからは中国出身の監督にも注目していきましょう。