ウルトラマンの創作秘話がとにかく熱い!英雄を作った男たちを徹底紹介【裏方】
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誰もが知っているあのヒーローを作った人たちを知っていますか?
どこからともなくやってきて、怪獣と戦う巨人といえば、あなたは誰を思い浮かべますか?そう聞かれたら、ほとんどの人が「ウルトラマン」と答えるでしょう。 作品を見たことはなくても、おそらく日本で育った人ならみんなが知っているといっても過言ではない永遠のヒーロー「ウルトラマン」。長年愛され続け、日本を代表するヒーローを作った人たちを皆さんご存知でしょうか。 本記事ではそんな不朽の名作『ウルトラマン』を生み出した男たちについてご紹介します。
「怪獣ブーム」のさなかで生まれたヒーロー
『ウルトラマン』の放映が開始されたのは1966年。その前年に放送を開始した『ウルトラQ』の大ヒットし、「怪獣ブーム」が起こっていた時代です。その流れに続けと、ウルトラシリーズの第2作目として制作されたのが『ウルトラマン』でした。 新聞記者とパイロットの3人組が怪獣騒ぎや怪奇現象を目撃するという前作とは打って変わって、人間がヒーローに変身して敵の怪獣と戦うストーリーとなった本作。今ではお約束とも思えるストーリーですが、どうやって怪獣を効果的に出すかなどを試行錯誤した末に生み出されました。
「特撮の神様」「特撮の父」と呼ばれた監修・円谷英二
円谷特技プロダクション(現・円谷プロダクション)の設立者円谷英二。『ウルトラマン』には企画段階から関わっていただけではなく、スーツアクターの演技指導までに携わっていました。 円谷英二が映画業界に入った1920年頃は、ちょうど日本映画界の展開期でした。日々新しい作品が作られていくなかで円谷英二は、より良い作品を作るために、様々な撮影技術を海外から取り入れたり、自分で考え出したりしていました。 そうして培ってきた特撮技術と、その経験で得た審美眼を生かして『ウルトラマン』の監修を努めます。妥協しない円谷英二の姿勢は、他のスタッフが作り上げた力作を更に高レベルのものに仕上げました。 1970年1月に病気の療養先で永眠。最期まで新たな特撮作品の構想を練っていました。
『ウルトラマン』で実力を発揮した名匠・実相寺昭雄
『ウルトラマン』を手がけた監督のひとりで、「ウルトラシリーズ」を代表する監督でもある実相寺昭雄。『ウルトラマン』では6エピソード担当しています。 当時TBSに勤めていた実相寺昭雄は、円谷英二のドキュメンタリー作品で評価されたことがきっかけで、円谷特技プロに出向しました。彼が手がけたエピソードでは、夢か現実かわからない不思議な世界観が描かれていました。その世界観を映像効果を使って巧みに演出した手法は、当時は奇抜とされていましたが、後に「実相寺マジック」と呼ばれ評価されるようになりました。 『ウルトラセブン』の担当後に映画監督としてデビューした実相寺昭雄は、1970年の映画『無常』でロカルノ国際映画祭グランプリを受賞し注目を集めました。1988年の映画『帝都物語』や、2005年の『姑獲鳥の夏』などでも知られ、2006年に69歳でこの世を去るまで映画を撮り続けました。
ウルトラマンの誕生欠かせないデザイナー・成田亨
成田亨はウルトラマンや多くの怪獣たちの造形を世に送り出したデザイナーです。2002年に71歳で亡くなりましたが、彼のデザインは作品とともにずっと愛され続けています。 『ウルトラQ』の第2クールに美術監督として関わった縁で、続く『ウルトラマン』に参加した成田亨。かっこいいヒーローのデザインを依頼され、美術学校時代の後輩佐々木明と共に試行錯誤を重ねながら、あのウルトラマンのデザインを生み出しました。 また、当初ウルトラマンの敵は妖怪のようにおぞましい姿になる予定でしたが、成田亨はそれに反対し、怪獣のデザインにもかっこよさを取り入れました。そうして生まれた怪獣たちも、ウルトラマンシリーズを代表するキャラクターとして活躍し続けています。
上質なストーリーを送り届けた脚本家・金城哲夫
金城哲夫は『ウルトラマン』では、企画立案及び脚本を担当し、ストーリーの面から作品の質を高めました。また、他の脚本家のエピソードをシリーズ全体に沿うように改訂したり、監督の割り振りを決めるなど、現在でいうシリーズ構成の役割も担っていました。 エンターテイメント性あるストーリーを多く執筆した金城哲夫。しかし、戦時中と戦後の沖縄で幼少期を過ごした金城哲夫のアイデンティティーを感じさせるようなキャラクター描写や台詞も少なくはなく、その骨太なストーリーは今なお強いメッセージ性があります。 残念ながら1976年に37歳という若さで事故死していまいましたが、彼の思いは現在にも作品の中で生き続けています。
ウルトラマンシリーズの礎を築いた円谷一
円谷一は円谷英二の長男で、TBS所属の監督でした。『ウルトラマン』では8つのエピソードでメガホンを取りました。その後「ウルトラシリーズ」が長く続く礎を築いた人物の1人でもあります。 「ウルトラシリーズ」に参加する前からドラマを制作し、一定の評価を得ていた円谷一は、第1話と最終話という重要なエピソードの監督を務めました。また、実相寺昭雄や上原正三など、ウルトラシリーズの発展に欠かせない人材を発掘したり、東京一名義で「ウルトラマンの歌」の作詞を手掛けるなど、『ウルトラマン』の大ヒットに欠かせない存在でした。 円谷英二亡き後に円谷特技プロの社長を継ぎ、1970年代初めに『ウルトラファイト』や『帰ってきたウルトラマン』を生み出し、「第2次怪獣ブーム」の火付け役になりました。しかし、社長就任後まもなく体調を崩し、1973年にわずか41歳で帰らぬ人となってしまいました。
ウルトラマンに欠かせない裏方・高野宏一
『ウルトラマン』全39話中なんと28のエピソードで特技監督を務めたのが高野宏一です。特技監督とは、特撮シーン専門の監督で、『ウルトラマン』の要となる場面の撮影を指揮していました。 円谷英二のように元々その名を轟かせていたわけではなく、またエピソード毎の監督や脚本家のようにその回を特徴づけるものがあるわけではありません。それでも、変身シーンにしろ、怪獣との闘いにしろ、ウルトラマンをウルトラマンたらしめるシーンは、高野宏一の特殊撮影技術なくしては存在しませんでした。 高野宏一が重要な存在であることは、スタッフクレジットの登場順の早さや、ソフト化の際にパッケージに名前が書かれていることからも伺えます。 『ウルトラマン』終了後もウルトラマンシリーズを特撮で支え、2002年の『ウルトラマンコスモス』まで同シリーズに関わり続けました。2008年に73歳で亡くなりました。
怪獣に命を吹き込んだ職人・倉方茂雄
倉方茂雄は、「機電」で『ウルトラマン』に貢献した技術者です。機電と聞いてほとんどの方はどんな役目かピンと来ないのではないでしょうか。それもそのはず、この作品独特の役職なのです。機電とは、着ぐるみやミニチュアに電飾やギミックを施す仕事です。 ウルトラマンのカラータイマーの発光や、怪獣の口の開閉などの仕組みを倉方茂雄が作りました。手作業でカラータイマーの色を変えたり、怪獣の尻尾をラジコンで動かせるようにして、多くのドラマチックなシーンを生み出しました。仕掛けを作るだけではなく、撮影に立ち会ってスーツアクターの意見を取り入れたり、その場で調整したりして、怪獣に命を吹き込みました。 2018年現在では既に引退していますが、2011年ごろまで「機電」として精力的に活動し続けていました。
ウルトラマンの顔はなんとライフマスク?!
成田亨が手がけたウルトラマンの造形。ウルトラマンの顔は人間離れした空気をたたえながらも、時には怒り、時には悲しんでいるようにも見える不思議な表情をしています。 もちろんモーションキャプチャーではないので、人間の表情をリアルタイムに感じ取っているわけではありません。ウルトラマンの顔はいつだって同じです。それにもかかわらず、ウルトラマンの顔にはどこか人間らしさを感じられます。 それには理由があります。成田亨は、スーツアクター古谷敏を基にしていたのです。しかも、端にモデルにしたのではなく、古谷敏の顔を石膏で形どったライフマスクから、撮影に実際に使用されたウルトラマンの顔が作られました。
おなじみのポーズの誕生秘話
ウルトラマンの特徴のひとつ、必殺スペシウム光線の時の腰を落として手を十字にクロスさせるポーズ。スタッフとスーツアクターが一丸となって考え出したポーズも実は、スーツアクター古谷敏ありきのものでした。 背が高く八頭身の見事なプロポーションを持っていた古谷敏は、長い手足が特徴的でした。その長い手を生かせるポーズがあのスペシウム光線のポーズだったのです。また、あのポーズならカラータイマーを隠さないという理由もあったと後に古谷敏は語っています。 ちなみに、中腰でかがんでいるのは、古谷敏が好きなジェームズ・ディーンのポーズを真似たのと、背の高い古谷敏を画面に収めるためでした。
ウルトラマンに倒された怪獣たちの供養
『ウルトラマン』には、作中で科学特捜隊が、今までに倒してきた怪獣たちの供養をするエピソードがあります。そして、怪獣たちの供養は、テレビを飛び出して現実に行われました。 1973年4月22日に東京都世田谷区の遊園地二子玉川園にて「怪獣供養祭」が執り行われました。これは単なるイベントではなく、円谷英二、円谷一親子の相次ぐ他界や、撮影中の事故などが続いたことから、厄払いとして真面目に開催されたものです。
その後のウルトラマンシリーズ
初期の主要メンバーが離れた1970年代に製作された『帰ってきたウルトラマン』から『ウルトラマンレオ』の4作品は、第2次怪獣ブームを起こしました。その上、同時期に始まった「仮面ライダー」シリーズや「スーパー戦隊」シリーズと共に今度は「変身ヒーローブーム」の立役者となりました。しかし、新しいシリーズに対する風当たりも強く、1975年でシリーズは休止してしまいます。 その後、過去のシリーズ作品の再評価を受け、アニメ作品や『ウルトラマン80』が製作されるものの、視聴率が奮わなかったため、放送枠が撤廃されてしまいました。その上、円谷プロの経営悪化が重なり、以降1996年までテレビシリーズの新作が作られることはありませんでした。
今もなお受け継がれる『ウルトラマン』の情熱
映画レベルの作品を毎週テレビで見られることに当時の子どもたちはワクワクしていました。そうやって子どもたちが夢中になれたのは、円谷英二をはじめとする『ウルトラマン』のスタッフたちが奮闘してレベルの高い作品を見せてくれていたからです。 放送が開始してから50年以上が経ち、その間には悲しい出来事も色々とありました。しかし、平成になってからも質を落とさず、常に挑戦を続けてきたウルトラマンシリーズ。 「ニュージェネレーションシリーズ」とも称される2010年代のシリーズでも、子供と一緒に見ている大人も楽しめるほど上質なストーリーを楽しむことができます。そんな作品を今もなお送り出せるのは、一番最初に『ウルトラマン』を作った人たちの情熱が今日にも受け継がれているからなのではないかと思います。