2017年10月6日更新

宮崎駿の10の魅力を紹介 ジブリ映画の製作秘話がスゴイ

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1.宮崎駿をアニメ業界に導いた生い立ち

子供の頃体が弱かった宮崎駿は手塚治虫や杉浦茂の漫画を読みふけり、中でも福島鉄次の『砂漠の魔王』に強く惹きつけられたそうです。『砂漠の魔王』は『アラジンと魔法のランプ』を髣髴とさせる作品で、大胆な構図と立体的な描写はアメコミの影響を受けたものでしょう。 この作風は『風の谷のナウシカ』や『天空の少女ラピュタ』の作画の中にも見られます。 高校3年生の時に見た東映動画『白蛇伝』との出会いによって、アニメーションにも関心を持つようになったんだとか。『白蛇伝』は日本初の長編カラーアニメとなります。アニメ制作の体制が整っていなかった日本で、動画スタジオの設立、アニメーターの養成、アニメ用撮影機材の開発など大規模な改革を経て完成したものです。 本作に携わった者の多くがそのまま日本アニメ界を牽引し、宮崎駿をもアニメ業界に導いたのでした。

2.初めての監督作品は『未来少年コナン』

宮崎駿は『未来少年コナン』において演出家としてクレジットされていますが監督が存在しないため、実質的には初監督作品と言えます。原作『残された人々』の悲壮なイメージを嫌い子供向けの明るく前向きな内容へと大幅な改造を加え、ほぼオリジナル作品として生まれ変わらせました。 毎週放送というハードスケジュールの中、演出、設定、キャラクターデザインを1人で担い、絵コンテ、レイアウトの大半を自身で作ったんだとか。加えて、スタッフの作った脚本、絵コンテ、レイアウト、原画を1人でチェックするとは、最早常人では想像のつかない仕業ですね。 こうした努力にも拘らず視聴率は振るいませんでしたが、原点ともいえる本作に影響を受けたクリエーターは少なくありませんでした。『クレヨンしんちゃん』の監督として知られる本郷みつるや、『機動戦士ガンダム』の生みの親・富野由悠季がそうで、自身も本作でアニメの良さを感じたと話しています。 1990年に発売された7枚組LD-BOXは、1994年に『機動戦士Zガンダム』が発売されるまでセールス記録を保持し、その後DVD版BD版と計4度にわたり販売されました。

3.映画初監督作『ルパン3世 カリオストロの城』は興行収入不振?

『ルパン3世 カリオストロの城』は1979年公開の作品で、監督に指名されるも気乗りしなかった大塚康生が宮崎駿を代打に据え、初映画監督作となったのです。 「体力の限界を知った」とコメントするほど本作に注力したそう。構想を含め半年という驚異的なスケジュールで仕上げたのです。 結果、興行収入は推定6.1億円と前作の10億円を超えらませんでしたが、その後、テレビや上映会で繰り返し放送されたため徐々に人気が高まりました。 2001年に発売されたDVDは約40万枚の出荷を記録しており、1枚3000円と考えても12億円の売上げで、映画公開当時から右肩上がりだった人気が窺えるエピソードの一つとなりました。スティーブン・スピルバーグ監督が本作を「史上最高の冒険活劇の一つ」と評したとも言われています。

4.1985年、ついにスタジオジブリが設立される

スタジオジブリは、映画『風の谷のナウシカ』の興行的成功を元に、徳間書店出資により設立されました。制作拠点探しに右往左往していた宮崎・高畑両名が、やっと落ち着き場所を得たのです。 ジブリとはサハラ砂漠に吹く熱風のことで、日本のアニメーション界に旋風を巻き起こすことを意図し命名したものです。 スタジオジブリ制作の第1作『天空の少女ラピュタ』、第2作『となりのトトロ』と興行収入は振るわなかったものの、その後の爆発的なグッズ売り上げがジブリの経営を助けることになります。 1989年に公開された『魔女の宅急便』は、ヤマト運輸の協賛を得て積極的にプロモーションを行った結果、興行収入43億円というこれまでにない快挙を成し遂げました。 『魔女の宅急便』の成功は、ジブリの今後に向けて大きな転機となります。よい作品を作るためにはレベルの高い人材の確保が必要となりますが、当時のアニメ制作現場は作品毎に人材を集め終われば解散というやり方が主流で、ジブリも同様でした。 宮崎駿は先を見越し、薄給で身分の確立していなかったアニメーターの待遇改善を図り、高品質で安定した人材を保持することを提案。これによって人材の育成・確保が行われると同時に、巨額化した人件費を補うために宣伝活動がより活発化したのです。

『もののけ姫』が大ヒット!当時から引退説が噂されていた

『もののけ姫』はジブリ最大となる制作費21億円を投じた大作で、1997年公開、日本の映画興行成績を15年ぶりに塗り替える快挙を達成しました。5~7万枚であった作画枚数を倍に増やし「ジブリを使いつぶす」覚悟で、体力も気力も使い尽くしたのです。 完成の後の打ち上げの場で「これが最後の作品になる」と発言し大きく報道されましたが、翌年引退宣言を撤回。 作品の映画製作は独特で、まず、監督自らイメージボードを描きます。イメージボードとは作品の核となる印象的なスケッチのことです。宮崎作品の場合、このイメージボードが清書され、ポスターに採用されることが多くあると言えば分かりやすいでしょう。 『天空の城ラピュタ』では、空から降ってきたシータを両手に受け止めようとするシーン、『となりのトトロ』でいうと、バス停で父親を待つさつきの横にトトロが現れるシーン。 このイメージボードで作品の大筋を描き、いきなり絵コンテ(絵で描くシナリオ)に取り掛かるのです。絵コンテはそれだけで漫画として読めるほどに詳細で体力を消耗するものでした。 かねてからの念願であった時代劇『もののけ姫』完成時には願望も込めて「これが最後の作品」と発言しましたが、ジブリの貴重な収入源である宮崎が個人の考えだけで決められる問題ではなかったのでしょう。

6.2013年の映画『風立ちぬ』でついにアニメ監督を引退?

『風立ちぬ』
『風立ちぬ』は実在の人物である堀越二郎をモデルに、堀辰雄の小説『風立ちぬ』や自身の父親の姿を反映させ、宮崎駿が原作・脚本・監督まで担当したオリジナル作品です。 『崖の上のポニョ』の製作終了後、仕事というより趣味に近い感覚で描き始めました。早い段階で映画化の話も出ましたが、「アニメは子供のためのもの」という持論により子供向きではない本作の映像化は考えられなかったのです。 ところがジブリの鈴木俊夫は、大の戦闘機好きのくせに戦争を忌み嫌う宮崎駿の持つ矛盾をつき、そろそろその命題の答えを出すべきだと訴え、それに応じる形で『風立ちぬ』は映像化しました。 主人公の堀越二郎は零戦を代表に太平洋戦争時の戦闘機を設計した人物として有名で、本作以外にも映画『零戦燃ゆ』等、数々の媒体から世に出ています。また小説『風立ちぬ』は、主人公がしだいに結核を悪化させていく婚約者とともに生きようとする話です。 宮崎の父親は、零式艦上戦闘機や月光の風防を製造する会社の経営に携わり、結核で妻を亡くしました。 2013年9月、長編映画製作から引退することが発表され会見が開かれました。アニメーター出身の宮崎は絵から映画を作るので、自らの手で作画するところから全てが始まります。この作業は年々厳しくなるのが現実で、これは抗いようのない問題でした。 ポニョから『風立ちぬ』までに費やした5年が、次回作に挑む場合の目算が7年、7年経てば80才になるのです。加齢による問題とともに己の時代は既に終わっていると感じ、引退を決意しました。

7.宮崎駿は脚本なしでアニメを製作する鬼才

脚本なしでアニメ製作をスタートさせる監督です。こう言ってしまうと非常に粗雑な印象を受けますが、宮崎作品は通常の脚本(細かい場面展開やセリフを文章にしたもの)から、もしくは脚本と絵(イメージスケッチ)から製作を始める方法とは異なり、全て絵から始めるのです。 この基礎段階にアニメーター、デザイナー、シナリオライターと延数十人という人数を割くと言われていますが、彼はこれを全て1人で行うのでした。 宮崎1人の頭から紡ぎ出す作業は集団でアイデアを出し合うのと違って、意見の対立による時間の浪費もありませんが、それだけに1人にかかる負担は大きく、費やす労力も想像を絶するものと言えます。 宮崎作品に関わるスタッフがイエスマンなのではなく、出来上がってくるものが綿密で修正の余地がないのです。宮崎作品では、絵コンテを前に文章化したものを脚本と呼ぶのでした。

8.宮崎駿が影響を受けた作品

1976年に翻訳が出版されてから片時も手放さず、寝る時でさえ枕元に置いたままだとか。作者本人と対談した際には、今までの作品は全て『ゲド戦記』に影響されている部分があると語ったほどです。   本作は宮崎が原作者からの指名を断ったと言われていますが、真実はもう少し複雑で、先に声をかけたのは彼の方でした。古くからのファンである宮崎駿は、原作者と出版社に二度にわたり映像化の打診を行いましたが、宮崎の名前を知らなかった作者側が要求を撥ね付けたのです。 2000年代に入ってその名声を知りル=グウィン側からコンタクトをとった時には時既に遅く、当の本人が映像化の情熱を失っていたという顛末です。宮崎駿監督による『ゲド戦記』は幻に終わったのでした。

サン=テグジュペリの『人間の土地』

あるテレビ番組の企画でサン=テグジュペリゆかりの地を訪問した際、一番影響を受けた作家であると絶賛。航空郵便の飛行機乗りであったサン=テグジュペリが「命より尊いものがある」と断言したことに共感とか。 新潮文庫から出版された『人間の土地』の表紙および解説を宮崎駿が担当しています。

9.スタジオジブリだけじゃない!作詞から漫画まで手がける

作詞を手がけたのは、『天空の少女ラピュタ』を始めとする劇場公開作品の他に『お母さんの写真』というCMソングがあります。『風の谷のナウシカ』『風立ちぬ』については自身で漫画も描きました。 『風の谷のナウシカ』も漫画が作られた経緯は以下のとおりです。 早い段階で才能に着目していた鈴木俊夫は、『風の谷のナウシカ』を映画化する案を自社の企画会議に持ち込みました。会議では原作がないものは採用できないとされ、苦肉の策として『風の谷のナウシカ』の原作漫画執筆を依頼したのでした。 本作は日本漫画家協会賞大賞を受賞し、発行部数は1200万部に上ります。『風立ちぬ』は映画化するつもりもなく、ほとんど趣味の領域で描き始めたものです。この2作の他にも『宮崎駿の雑想ノート』は1995年からラジオドラマ化しました。

10.世に出ていない幻の作品が存在する?

宮崎駿がなんらかの形で関与したものの、事情により産声を上げなかった作品がいくつかあります。

『長くつの下のピッピ』

長くつの下のピッピはアストリッド・リンドグレーン原作の児童文学で、高畑勲が宮崎らを誘いアニメ化に取り組みましたが、原作者から了解が得られず頓挫したのです。 こちらは2014年10月に当時を振り返るインタビューとともに、使われることのなかったイメージボード、シナリオ案、スケッチ集を収め岩波書店から発売されています。本作のためにロケハンした先の風景が『魔女の宅急便』で生かされました。

『NEMO/ニモ』

『NEMO/ニモ』は東京ムービーで当時社長を務めた藤岡豊が、アメリカ進出のために立ち上げた会社テレコムで55億円もの巨額を投じ製作に当たった作品です。日本側のメインスタッフとして選ばれ、日米間を何度も往復することとなりましたが、当初からこの企画に難色を示しておりテレコム社を退社する原因となりました。 宮崎駿か高畑勲を監督に据えようと考えられていた本作は、ジョージ・ルーカスやディズニーの有名アニメーターら著名人との関わりの中で二転三転しながらも、なんとか完成へと漕ぎつけたのです。 本作のアメリカ業界向けのプロモーションとして自社で制作した『ルパン三世 カリオストロの城』を上映。これがハリウッドにおける知名度を上げるきっかけとなったと言われています。

『アンカー』

『天空の城ラピュタ』完成後に、原作・夢枕獏、脚本・宮崎駿、監督・押井守、高畑勲プロデュースという豪華ラインナップで構想されますが、主人公のキャラクターデザインで押井守の間で意見が食い違い、企画段階で消滅したようです。 そのストーリーは、1980年代の東京を舞台にお姫様のような女の子を主役とした作品で、目的の場所にたどり着くまでに行く手を阻む悪者や、女の子を助ける少年が登場する恋愛要素ありの冒険ものだったとか。写真は小説家・夢枕獏です。

『煙突描きのリン』

架空の震災の後の東京で煙突に絵を描くリンの物語です。1年をかけてかなり具体的に検討された企画で、この作品のために書かれた『いつも何度でも』は『千と千尋の神隠し』のテーマソングとして起用され、主人公のリンの名前も登場人物に使われました。写真は『千と千尋の神隠し』に出てくるリンです。

『毛虫のボロ』

宮崎駿が長い間大事にしてきた企画で、虫の視点から世界を描くという新しい試みでした。映画としてボツになった本作は、『水グモもんもん』というタイトルでジブリ美術館の短編アニメとして世に生まれました。 アメンボのお譲さんに恋をした水グモのもんもんは、その見た目から嫌われてしまいますが、魚に食べられようとしたお譲さんを助けたことで、2匹の間に恋が芽生えるというお話です