『ゲド戦記』を原作とともに徹底解説!クモの正体は?父殺しの理由は?【あらすじ・考察】
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『ゲド戦記』はつまらない?映画ではわからないシーンや登場人物を徹底解説・考察!
映画『ゲド戦記』は、宮崎駿の息子・宮崎吾朗(みやざき ごろう)の初監督作品。2006年に公開され、手嶌葵(てしま あおい)による主題歌や物語の賛否などで大いに話題になりました。 しかし本作を観た人から多く挙げられるのが、「難しい」や「わからない」といった感想。 本記事では本作の謎や原作での設定などについて徹底解説。これを読めばきっと『ゲド戦記』へ理解が深まること間違いなしです! ※この記事は、映画『ゲド戦記』や原作のネタバレを含みますのでご注意ください!
映画『ゲド戦記』のあらすじ
『ゲド戦記』は均衡を失いつつある世界が舞台。 その影響でエンラッド国の王子であるアレンも心を病んでしまい、父親を殺してしまいます。正気に戻ったアレンは自国から逃亡。国を捨て逃げている途中で、賢者ハイタカに命を助けられ、世界に異変を起こしている災いの元を探す旅へ出ることに。 2人は旅の途中、ハイタカの友人・テナーの家に泊まります。そこでアレンは顔の半分が赤い女の子・テルーに出会いました。はじめ彼はテルーに嫌われていましたが、徐々に交流を深めていきます。 しかし永遠の命を望む敵・クモにアレンが利用され、またハイタカとテナーも人質に。テルーは彼らを助けるべく動き出します。
アレンはなぜ父親を殺したのか?国王殺害が持つ意味を考察!
映画の主人公、アレンって誰?
アレンは本作の舞台である多島海世界「アースシー」の島国の1つ、エンラッドの王子。悩み多き17歳の若者であり、純粋で生真面目な性格でしたが心の均衡を失って、彼の心の分身だった「光」が「影」となって去ってしまいます。 アレンという名はエンラッド語で「剣」、真(まこと)の名はナナカマドの意味をもつ「レバンネン」。真の名とは命にも等しく、その名さえ知っていればその者自体を支配することができる大切な言葉です。
国王の殺害シーンは、原作には登場せず
そんなアレンは物語冒頭、国王の父親を殺して国を追われる身となります。この出来事をきっかけにアレンは旅に出ることになりますが、実は原作内でこの「父親殺し」の件は描かれていません。 これは映画オリジナルのシーンであり、プロデューサーの鈴木敏夫(すずき としお)が監督の宮崎吾朗に提案する形で取り入れられました。 アレンが国を旅立つ理由を模索していた時、鈴木敏夫プロデューサーに「父親殺しをするんだ」と言われて腑に落ちたと、宮崎吾朗は心理学者・河合隼雄(かわい はやお)との対談で語っています。
父親を殺害するシーンは、何を象徴しているのか?
アレンの父親殺しの理由については劇中では明らかにされていません。当初は狂った国王に殺されそうになり、アレンが国を出るという設定だったとか。しかしそれをあえて「父親殺し」に変えたのは、現代の若者が抱える閉塞感を表現するためだったようです。 アレンは一国の王子という境遇から生まれた閉塞感や正義感でがんじがらめになっていました。彼の気持ちが暴走した矛先が、社会の権威の象徴であった「父親=国王」へと向いてしまったのです。 アレンと国王の関係を宮崎吾朗と宮崎駿の関係のメタファーととらえているファンもいます。ただし、宮崎吾朗本人はアレンを自分自身に置き換えて作ったつもりはないと否定。 「父さえいなければ、生きられると思った。」というキャッチコピーも自分のことではないと語っています。
物語の鍵を握るヒロイン、テルーは「龍」?その正体が持つ意味とは?
本作ヒロインのテルーって誰?
本作のヒロインとして登場するテルー。真の名をテハヌーといい、顔の左側には火傷の跡があります。年齢はアレンと同年代くらい。ハイタカ/ゲドの昔なじみであるテナーと、農業を営みながら暮らしています。 命を大切にしない人間には心を開かず、殺人を犯し自暴自棄になっていたアレンを初めは嫌っていました。その背景には両親に虐待されて捨てられた辛い過去が。大賢人ハイタカには出会ってすぐ打ち解け、「タカ」と呼んで慕っています。
テルーは冒頭のシーンで落ちてきた龍?それとも先祖返りして龍になった?
本作のラストで、テルーが実は龍であったこと判明します。彼女の正体は、作品の冒頭部で描かれている落下してきた龍なのでしょうか?それとも突然「先祖返り」として現れた龍なのでしょうか……? 冒頭に描かれている龍はテルーではありません。冒頭シーンは、本来すみ分けられていた人間世界と龍の世界が混じり合い、世界の均衡が崩れていることを示唆するシーンです。 そのためテルーは親からの遺伝ではなく、覚醒的に先祖の特徴が現れた「先祖返り」であることが推測されます。彼女の他にも物語の途中では龍族の末裔が登場するので、先祖返りである可能性が高そうです。
「人は昔、龍だった」とはどういう意味なのか?
本作には、「人は昔、龍だった」という言葉が登場します。つまり「龍の一部が人間になる道を選んだ」ということ。この事実は原作でも言及されていました。 『ゲド戦記』の世界では、龍が人間の姿になって人間とともに生き、そして人間と混血になっていったという設定があります。しかし龍の血が受け継がれていても皆が龍になれるわけではありません。時に龍の血を色濃く受け継ぐテルーのような存在が「先祖返り」として現れるのです。
テルーの「正体」が持つメッセージとは?
テルーの本来の姿は「龍」であったことが判明しますが、単に物語を盛り上げるために彼女の正体を龍としたのではありません。多くのジブリ作品がそうであるように、本作にも主義主張があるのです。 元は龍であった人間は、人間の社会で生きていくために龍の力を抑えなければなりませんでした。言い換えれば龍の力は人間によって奪われてきたのです。 テルーが持っていたはずの「自然の力」も人間に奪われてきました。しかし先祖返りともいうべき偶然で力を取り戻して人間界に災いを呼び起こします。 これを現実社会に置き換えるならば、散々力を奪って抑え込んできた自然も、いつかは突如力を取り戻して人間に猛威を奮ってくるという警告だと捉えることができるのではないでしょうか。 つまり『ゲド戦記』においてテルーの正体が龍であったことは、自然破壊に対する注意喚起、現代社会に対するアンチテーゼであると考えることができるのです。
ハイタカ/ゲドを徹底解説!傷は生まれつき?テルーを見て驚いたのは何故?
ゴント島出身のハイタカは偉大な魔法使いで、真の名をゲドといいます。ハイタカはゲドの通り名で、『ゲド戦記』とは本来ハイタカ=ゲドを主人公とした物語なのです。 原作はゲドの少年期を1作目、青年期を2作目、壮年期を3作目で描いています。映画になった壮年期のゲドは、世界の均衡を注視し、そのために自分もむやみに魔法を使ってはならないと考えているアースシー最後の大賢人です。
ハイタカの顔の傷はいつ生まれたのか?
ハイタカの顔にある悲痛な傷跡。これはいつ、何によってつけられたものなのでしょうか。そのエピソードは原作1巻「影との戦い」に描かれています。 若かりし頃のハイタカは自身の高い魔法の才能に自惚れていた青年でしたが、その驕(おご)りによって暴走を起こしてしまいました。その際に禁断の魔法を使ってしまい、死者の魂と「影」なるものを呼び出してしまったのです。 その影との戦いによってつけられたのが、彼の顔の傷。今では聡明で穏やかなハイタカにも、このようにやんちゃな時代があったのですね。
ハイタカがテルーを見たときに驚いたのはなぜ?
謎が多い本作の中でも「最大の謎」と語られているのが、アレンに助けられたテルーを見たハイタカがなぜか驚いた表情をしたこと。 実はこれはハイタカがテルーに初めて会った時、テルーの中に龍としての素質があることを見抜いたからであると言われています。 また原作において、テルーはハイタカとテナーの子供です。原作に従うのであれば久しぶりに再会した娘の姿に父親が驚いた、とも解釈できますね。
クモって誰?ハイタカとの関係や性別は?最後にどうなった?
魔法使いのクモは『ゲド戦記』最恐のキャラクター
本作でアレンとハイタカに敵対するクモは、永遠の命を得るために「生死の両界」を分けている禁断の扉を開いた“悪い”魔法使い。外見は女性に見えますが、本当の性別は男性です。 扉を開いて世界の均衡を崩していたクモ。心の均衡を失ったアレンを利用し、ハイタカに復讐する機会をうかがっていたのです。 声優は『もののけ姫』(1997年)のエボシ御前役でも知られる、女優の田中裕子(たなか ゆうこ)が務めています。
クモとハイタカの関係性とは
本作の悪役クモとハイタカには過去に因縁がありました。 かつてクモが黄泉の世界の扉を開き悪さをしていた頃、彼はハイタカに捕まえられています。その際彼は、心を入れ替えると命乞いをして助かりますが、実際は改心せずにハイタカを恨み続けていました。 クモの城でハイタカがクモの改心するという発言について憤るシーンがありますが、それはこの過去の1件のことなのです。
クモはラストにどうなったの?
アレンの心の闇に付け入り、ハイタカに剣を向けさせたクモでしたが、アレンはハイタカとテルーに諭されて正気を取り戻します。彼は自分の「影」を受け入れ、心の闇を晴らすことができたのです。 醜い正体を晒(さら)したクモと対峙したアレンは、クモが自分と同じで死を怖がっている、目を覚ませと諭します。それでも生にしがみつくクモはテルーを魔法で殺そうとしますが、竜となったテルーに焼き払われ、ドロドロになって無残な最期を遂げました。
知られたら支配されてしまう、真(まこと)の名
魔法が存在するこの世界のすべてのものには「真(まこと)の名」という名前があり、その名前を知ることで魔法を使ったり、相手を支配したりすることができます。ですから無暗に「真の名」を知られることがないよう、偽名を使って生活するのが普通です。 ハイタカが真の名を手に入れたのは、原作では1作目「影との戦い」でのこと。ハイタカの真の名がゲドであることは前述の通りですが、この名前を与えてくれたのは出身地ゴント島で出会った魔法使いの師匠オジオンでした。
真の名を公開している人物、テナー
ハイタカの昔馴染みであり、彼のよき理解者であるテナーは、ハイタカの真の名を知る人物。映画ではかつて巫女(みこ)であったことが語られていますが、詳しい描写はありません。原作ではテナーの過去が2作目「こわれた腕環」で描かれています。 テナーは少女の頃、カルカド帝国のアチュアン神殿で巫女アルハとして育てられていました。ハイタカの手助けによって巫女の座から解放され、カルガド語で「喰らわれし者」の意味を持つアルハという名から、元のテナーという名に戻ります。 真の名を公にしており、世界の調和を保つ「エレス・アクベの腕環」をカルガド帝国から取り戻した「腕環のテナー」として知られていました。後にテルーを引き取り、彼女の育ての親となります。
『ゲド戦記』の監督は宮崎駿の息子、宮崎吾朗
宮崎吾朗の初監督作品
映画『ゲド戦記』を監督した宮崎吾朗が、長年ジブリ作品を創り上げてきた宮崎駿の長男であることは有名ですね。実は映画監督としてデビューしたのが、『ゲド戦記』だったのです。 それまでは建築コンサルタントや環境デザイナーとして都市計画に従事していました。1998年に三鷹の森ジブリ美術館の総合デザインを手がけるためにスタジオジブリに入社し、竣工(しゅんこう)後は初代館長も務めています。
才能が認められて『ゲド戦記』の監督に
鈴木敏夫プロデューサーに推されて『ゲド戦記』の監督を務めることになった宮崎吾朗ですが、当初は父の宮崎駿に反対されていました。しかし宮崎吾朗が描いた竜とアレンのイメージボードを見せられた宮崎駿は黙り込んでしまったとか。認めざるを得ない才能を感じたのでしょうか。 さらに宮崎吾朗の絵コンテを見た庵野秀明(あんの ひであき)もその才能を認めています。原作をジブリ作品に落とし込むことに苦労しつつ脚本も担当しており、初監督作ながら『ゲド戦記』を見事にジブリ作品の1作として世に送り出しました。
『ゲド戦記』の謎は全て原作で解説される!?映画との違いを考察!
原作は元々ゲドを主人公とした3部作で、1作目「影との戦い」、2作目「こわれた腕環」、3作目「さいはての島へ」がアメリカの作家アーシュラ・K・ル=グウィンによって発表されました。 さらに時代を経て、4作目「帰還」と5作目「アースシーの風」も刊行。外伝として「ドラゴンフライ アースシーの五つの物語」もシリーズに加わりました。 映画はゲド壮年期の3作目を中心に構成され、4作目の内容も加味されています。ここからは原作と映画の違いにスポットを当てて紹介していきましょう。
テルーの年齢が違う!
テルーの年齢は原作では6歳くらい。映画ではヒロインとして登場するため、アレンの年齢に近い見た目の少女に変更されています。いわゆるジブリ的なヒロインですね。 また原作のテルーは顔半分が火傷でケロイド化しており、目も潰れているような姿です。さらに焼かれた熱によって喉も潰れているため、歌を歌うこともできないでしょう。テルーの設定はかなり大胆に変更されています。
アレンとハイタカの設定が違う!
原作でアレンは父である国王に諸国調査を命じられ、大賢人ハイタカに会いに行って2人で旅に出るという流れ。しかし映画では前述のようにアレンの父親殺しから始まります。 映画と原作の大きな違いは、原作の主人公がハイタカであるところ、映画ではアレンをメインに据えたところ。この変更は宮崎吾朗が現代の若者に向けて本作を製作していたことと関係がありそうです。
もう1つの原案『シュナの旅』
映画『ゲド戦記』は実はもう1つ原案とされている作品があります。それは宮崎駿が1983年に発表したファンタジー絵物語「シュナの旅」です。 谷底にある小国の王子シュナが、国を救うため麦を求めて旅に出る物語で、チベット民話「犬になった王子」を元にしています。この世界観は『もののけ姫』の原点にもなったようです。
ジブリ映画『ゲド戦記』は面白い!考察を深めて見えてくるジブリが伝えたいこと
非常に難解なストーリーであり、さまざまな解釈が展開されている『ゲド戦記』。主人公アレンは、これまでに数多くの重圧や抑圧を感じてきた青年でした。彼が“父親殺し”という行為に走ってしまったのは、彼を取り巻く抑圧に屈したくないという意思の現れだったのでしょうか。 複雑な思いを抱えながら“父親殺し”の罪を背負ってしまったアレンは、さまざまな抑圧の元でもがきながらも、未熟な自分への苛立ちも抱える現代の若者たちを映し出しているのかもしれません。 誰もが心に光と影を抱えているということ、まずはその事実を認めることから始めるべきと思える作品です。