アレンはなぜ父親を殺した?ジブリ映画『ゲド戦記』の謎を徹底解説・考察【あらすじ】

2017年12月26日更新

2006年に劇場公開したスタジオジブリの長編アニメーション『ゲド戦記』。アーシュラ・K・ル=グウィンの原作小説をもとに、宮崎駿の息子・宮崎五朗監督が描き出す独自のストーリーを解説したいと思います。

『ゲド戦記』は難しい?映画ではわからないあのシーンを徹底解説・考察!

スタジオジブリの宮崎駿の息子である宮崎吾朗の初監督映画作品『ゲド戦記』は2006年に公開され、その主題歌や物語の賛否などで大いに話題になりました。 そんな本作を観た人から挙げられるのが、「難しい」「わからない」といった感想。 本記事ではそんな本作の謎や原作での設定などについて徹底解説。これを読めばきっと『ゲド戦記』へ理解が深まること間違いなしです!

映画『ゲド戦記』のあらすじ

世界の均衡を失いつつある世界で、巨大な国の王子であるアレンも、心の均衡を失い、父親を殺してしまいます。国を捨てて逃げている途中で、賢者ハイタカに命を助けられ、世界に異変を起こしている災いの元を探す旅に2人は出ることになります。 旅の途中で止まったハイタカの友達のテナーの家でアレンは、顔の半分が赤いテルーという女の子に出会い、最初は嫌われるも徐々に仲良くなっていきます。 永遠の命を望むハイタカの敵・クモに、アレンが利用され、さらにハイタカとテナーを人質に取られたテルーは、アレンたちを助けるべく動き出します。

アレンはなぜ父親を殺したの?

物語の冒頭部では主人公アレンが国王である父親を殺すシーンが描かれ、この出来事をきっかけにアレンは旅に出ることになります。 この父親殺しの真相については本編の中では明らかにされていませんが、自身の境遇から生まれた閉塞感や正義感などの中でがんじがらめになり、暴走した矛先が彼の生きる社会の象徴であった「父親」へと向いてしまった、と宮崎吾朗がインタビューの中で語っています。 また、一部のファンの間では『ゲド戦記』の主人公と父親の関係は、そのまま宮崎五朗と宮崎駿の関係のメタファーである、といわれています。スタジオジブリという強大な力を持った父親を超えてやるという宮崎吾朗の意気込みも感じられますね。

ハイタカ(ゲド)がテルーを見たときに驚いたのはなぜ?

謎が多い本作の中でも「最大の謎」と語られているのが、アレンに助けられたテルーを見たハイタカ(ゲド)がなぜか驚いた表情をしたこと。 実はこれはハイタカがテルーに初めて会った時、テルーの中に龍としての素質があることを見抜いたからであると言われています。 また原作においてはテルーはハイタカとテナーの子供であるとされているため、原作に従うのであれば久しぶりに再会した娘の姿に父親が驚いた、とも解釈できます。

テルーは冒頭のシーンで落ちてきた龍?それとも先祖返りして龍になった?

本作のラストで実は龍であったことが判明するテルー。彼女の正体は作品の冒頭部で描かれていた落ちてきた龍なのでしょうか?それとも、突然「先祖返り」として現れた龍なのでしょうか? 冒頭に描かれている龍はテルーではありません。冒頭シーンは、本来すみ分けられていた人間世界と龍の世界が混じり合い、世界の均衡が崩れていることを示唆するシーンです。 そのため、テルーは親に遺伝せず、覚醒的に先祖の特徴が現れた「先祖返り」であることが推測されます。彼女の他にも、物語の途中では龍族の末裔が登場するので先祖返り説が濃厚なのではないでしょうか。

ハイタカの顔の傷はいつ生まれたのか?

ハイタカの顔にある悲痛な傷跡。これはいつ、何によってつけられたものなのでしょうか。そのエピソードは原作第1巻「影との戦い」に描かれています。 若かりし頃のハイタカは自身の高い魔法の才能に自惚れていた青年でしたが、その驕りによって暴走を起こしてしまいます。その際に禁断の魔法を使ってしまい、死者の魂と「影」なるものを呼び出してしまったのです。 その影との戦いによってつけられたのが、彼の顔の傷。今では穏やかなハイタカにもこのような時代があったことは意外に感じられるかもしれません。

「人は昔、龍だった」とはどういう意味?

本作には、「人は昔、龍だった」という言葉が登場します。 この言葉は、原作でも言及がある通り「龍の一部が人間になる道を選んだ」ということを意味しています。『ゲド戦記』の世界では、龍が人間の姿になり、人間とともに生きており、人間と混血になるものの、龍の血は受け継がれていて、時に龍の血を色濃く受け継ぐテルーのような存在が「先祖返り」として現れます。

クモとハイタカの関係性とは

本作の悪役クモとハイタカには過去に少し関係がありました。 昔、クモが魔法で黄泉の世界の扉を開き悪さをしていた時に、ハイタカに捕まえられています。その際クモは、心を入れ替えるからと命乞いをしますが、本当は改心せずにハイタカを恨み続けていました。 クモの城で、ハイタカがクモに過去の改心について憤るシーンがありますが、この過去の一件があったからなのです。

知られたら支配されてしまう、まことの名

魔法が存在するこの世界のすべてのものには、「まことの名」という名前があり、その名前を知ることで魔法を使ったり、相手を支配することができます。なので無暗に「まことの名」を知られることがないよう、偽名を使って生活するのが普通です。

以前は巫女だった?テナーの過去とは

ハイタカの昔馴染みであり、彼のよき理解者であるテナー。ハイタカの真の名を知る人物でもあります。 映画にて、かつては巫女であったと語られていますが、詳しい描写はありませんが、テナーの過去を原作にて明らかになっています。 かつてはアルハという名でカルカド帝国アチュアン墓地の巫女を勤めていました。ハイタカの手助けによって巫女の座から解放され、カルガド語で「喰らわれし者」の意味を持つアルハという名から、元のテナーという名に戻ります。 真の名を公にしている数少ない存在の一人であり、世界の調和を保つエレス・アクベの腕環をカルガド帝国から取り戻した「腕環のテナー」として知られる人物です。そして後にテハヌー(テルー)を引き取り、彼女の育ての親となります。

テルーの「正体」が持つメッセージとは?

テルーの本来の姿、それは「龍」であったことが判明します。しかし、単に物語を盛り上げるために彼女の正体を龍としたはずがありません。多くのジブリ作品がそうであるように、本作にも何かしらの主義主張があるはずです。それがテルーの存在に籠められているのではないでしょうか。 元は龍であったテルーですが、先祖たちが人間と暮らしてきたことで、龍の力が徐々に失われていきます。これは人間によって力を奪われたとも捉えることができ、いうなればテルーが持っていたはずの「自然の力」が人間に奪われたのです。しかし、先祖返りともいうべき偶然で力を取り戻して人間界に災いを呼び起こします。 これを現代に置き換えるならば、散々奪ってきた自然の力が、突如人間に対して猛威を奮ってくると言い換えることができるのではないでしょうか。 そのため『ゲド戦記』においてテルーの正体が龍であったことは、自然破壊に対する注意喚起、現代社会に対するアンチテーゼであると考えることができます。

『ゲド戦記』の謎は全て原作で解説される!?ファンは要チェック!

いかがでしたか?鑑賞した人から「理解できない」と言われている箇所は、原作では実は明らかになっているのです。 宮崎吾朗初監督作品でもあり、セリフのみの説明が多く存在していたり、そもそも全く語られていなかったりとわかりにくいところが多くあるかもしれませんが、映画で本作に興味を持った人は、原作小説にも手を伸ばしてはいかがでしょうか?