『ゲド戦記』テルーはなぜ竜になった?真(まこと)の名から正体がわかる

宮崎吾朗監督が初めて長編アニメーションを手がけた作品、『ゲド戦記』。アーシュラ・K・ル=グウィンの小説を原作としながら、映画オリジナルのシーンも交えた本作には、公開当初は「内容が難しい」という声も寄せられていました。 『ゲド戦記』においてとりわけ謎多き存在として描かれているのが、主人公を導くヒロインとして登場する少女テルー。彼女の正体や過去が理解しきれなかったという人も多いのではないでしょうか。 そこでこの記事では、テルーについての気になる謎や、謎を解くことで見えてくるメッセージ性を解説していきます。
『ゲド戦記』テルーの人物像

年齢 | 5~6歳(原作) アレンと同年代?10代後半(映画) |
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外見 | 顔左半分に赤い火傷の痕 |
真の名 | テハヌー |
声優 | 手嶌葵 |
映画『ゲド戦記』に登場するヒロインのテルーは、顔に火傷を負っています。その傷跡は、孤児であった彼女を引き取った新たな両親に、奴隷のごとく働かされ虐待も受けていたから。 義理の両親に殺されかけているところをテナーに救われましたが、悲しくも彼女の顔左半分には火傷の跡が残ってしまいました。テルーはテナーと共に暮らしているものの、彼女と血の繋がった家族であるわけではありません。 テルーは出会った初めのうちは「命を大切にしないやつは嫌いだ」とアレンを嫌っていますが、共に時間を過ごしていくうちに打ち解けていきます。そして生きることの意味をアレンへと伝えていく、非常に重要な存在として描かれていきました。
原作『ゲド戦記』でのテルー
原作のテルーは右半身全体に重度の火傷を負っており、喉も焼きつぶれていて歌うことができません。つまり「テルーの唄」を歌うシーンは映画のオリジナル設定です。 映画ではアレンと同じくらいの年齢で描かれていますが、原作では5〜6歳ほどの少女として描かれています。映画で年齢が変更された理由は、ジブリ作品の定番である少年と少女の出会いの物語に則っているからでしょうか。また原案である『シュナの旅』の設定にも寄せていると考えられます。
テルーの正体は竜だった!その理由

映画『ゲド戦記』で描かれる世界「アースシー」は、魔法が存在する世界。そこには竜も存在します。 映画の冒頭では世界の均衡が乱れていることによって、住む世界を分けていたはずの竜が人々の世界に出現していました。そしてテルーもまた、本当の姿は竜なのです。 テルーが竜であるとわかるのは、物語の終盤で魔法使いのクモと対決するシーン。クモに殺されてしまったと思われたテルーでしたが、倒れ込んでいたテルーは急に立ち上がったかと思うと竜へと変身し、クモを炎に包んで焼き殺します。 アースシーでは古来、竜と人間は住み分けをしてそれぞれの世界で暮らしていました。しかし一部の竜が人間となって生きることを選び、それ以来人間社会に溶け込んできたという背景があります。 テルーの祖先は竜であり、クモによって生死の境に立たされたため「生きる力」が覚醒し、本来の竜の姿に「先祖返り」したのではないでしょうか。
真(まこと)の名はテハヌー
映画『ゲド戦記』で描かれる世界では誰もが通り名を使い、真(まこと)の名を隠しています。それは魔法を使える世界アースシーにおいて、真の名を知っているとその人を操ることができるから。テルーも例外ではなく、彼女の真の名は別にありました。 テルーの真の名は「テハヌー」。このテハヌーこそ竜の一族の名前であり、真の名がテハヌーであるということは、すなわち竜族の子孫であるということを示しているのです。 原作ではテルー/テハヌーは第4巻「帰還」に登場し、テハヌーが竜族の長カレシンの娘であることが明かされています。
なぜハイタカはテルーを見て驚いた?

『ゲド戦記』において最大の謎とも言えるのが、テナーの家ではじめてテルーを見たハイタカが、なぜ驚いているのかということ。ここでは、原作・映画双方からその理由をひもといていきます。
【原作】ハイタカの娘だから
原作小説の続編「アースシーの風」では、テルーがハイタカとテナーの養女となっています。 そのためその設定を知った人たちの中で「養女として迎えたテルーと再会したからでは?」という憶測も立っています。しかしハイタカがテルーを引き取るのは、テナーと夫婦になったあと。 映画時点ではテナーと夫婦関係にすらなっていないため、「養女と再会した」というのは時系列的に矛盾しています。
【映画】竜であることを見抜いたから
映画から考えられるのは、ハイタカがテルーをはじめて見た際に、彼女の正体が竜であることを見抜いていたからという説です。何といってもハイタカは、アースシーにおいてトップクラスの賢者。魔法使いとしても最高峰に君臨している存在です。 そんな彼であれば、テルーを一目見ただけで、彼女の内に眠る本当の正体を見破り、あっと驚く顔を見せるのは不思議ではないかもしれません。テルーがハイタカの娘だから、という説よりも妥当でしょう。
テルーの正体は『ゲド戦記』のメッセージを体現

ジブリ作品において自然と人間との関係性は数多く描かれてきました。それは『ゲド戦記』も例外ではありません。本作で人間に抑圧される「自然」を表しているのは「竜」です。 テルーは一見普通の少女であり、テナーたちと共に暮らすときには竜であるとはわかりません。それはつまり、テルーは人間たちと暮らしていくなかで本来の自分を抑圧されてきたということ。 しかし最後には、これまで抑え込まれてきた力、そして軽んじられた憤りを解き放ち、世界の調和を壊したクモに竜の姿で制裁を下すのです。 自然を軽んじ自然界の調和を壊す、現代人へのメッセージが込められているようなラストでした。
ジブリ映画における“自然との共存”
ジブリ映画において、“自然との共存”は切っても切れないテーマであると言っても過言ではありません。 初の長編アニメーション映画である『風の谷のナウシカ』(1984年)をはじめ、『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994年)や『もののけ姫』(1997年)など、数々の作品で自然と人間との共存がテーマに掲げられています。 ジブリ作品と言えば“自然との共存”のイメージがある人も多いのではないでしょうか。 これらのどの作品においても、自然を身勝手に破壊しようとする人間のエゴイズムと、そんな人間に対し脅威となって立ちはだかる自然が描かれています。 公開から何年経とうと色褪せることのない社会への強いメッセージ性こそ、ジブリ作品が広く長く愛され続ける理由なのでしょう。
竜になったテルーはアレンと結婚した?

物語のラスト、魔法使いクモとの戦いの中で、テルーは本来の姿を取り戻し竜となります。 ファンの中では、「その後アレンと結婚したのでは?」という憶測も立っていたようですが、ラストでアレンはハイタカと再び旅に出ていました。テルーとの関係性は恋愛というより、どちらかというと信頼関係で結ばれた友情の方を強く感じます。
テルーの声優・手嶌葵の魅力

映画『ゲド戦記』でテルーの声優を務めたのは、歌手の手嶌葵。それまで歌手として活躍してきた彼女でしたが、2005年に韓国で行われたとあるイベントがきっかけとなり、鈴木敏夫プロデューサーに手嶌葵のデモCDが届きます。 そのCDを聴いた鈴木プロデューサーは彼女の声をすぐに気に入り、その頃ちょうど製作中であった『ゲド戦記』の主題歌を任せようと決断しました。 また当時テルーの声優がまだ決まっていなかったということもあり、手嶌葵が主題歌のみならず声優も務めることとなったようです。
手嶌葵が歌った主題歌「テルーの唄」

映画『ゲド戦記』の主題歌となった、劇中でテルーが披露する「テルーの唄」。 この曲では、人間が誰しも抱えている孤独感をはじめ、戦うこと止めることのできない人たちの悲哀や、自分を守ってくれる人も支えてくれる人もいない孤独、それでも生きていかなければならないつらさが歌われています。 美しく響くテルーの歌声と、悲しくも力強さを感じる歌詞。作詞を手がけたのは宮崎吾朗監督ですが、その歌詞からはテルーの生き様が見えてくるようです。 親から虐待を受け、顔には火傷を負い、誰からも愛されなくても生きなければならなかった過去。積み重ねられてきた彼女の寂しさと生き抜いてきた強さが見事に表現されています。
『ゲド戦記』テルーの正体からわかる作品のメッセージ

映画『ゲド戦記』におけるテルーは、主人公アレンを支えるヒロインというだけではなく、「自然」の象徴としても描かれています。 孤児となり、引き取り手から虐待を受けながらも何とか生き延びてきたテルー。本来の姿を押し留めながら生きてきたその孤独は計り知れません。 彼女が猛威をふるったとき、それは彼女が自身を解き放つ瞬間であり、「自分たちが何をしてきてしまったのか」人間が気付くタイミングとも言えます。 自然の正しいあり方とは何なのか。人間は自然にどのように寄り添っていくべきなのか。現代人が考えるべき重要な問題を、テルーは投げかけているのかもしれません。