2022年1月11日更新

【ネタバレ】映画『紅の豚』のあらすじ&謎を徹底解説!ポルコはなぜ豚に?ジーナの賭けの結果は?

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紅の豚
©Studio Ghibli/BVHV/Photofest

『となりのトトロ』『もののけ姫』などの数多くの傑作アニメを手掛けてきた巨匠・宮崎駿監督。 宮崎は、書籍『宮崎駿の雑想ノート』で描かれた装甲艦同士の対決などを見てもわかるように、大のミリタリーマニアとして知られる一方で、実際の戦争には断固反対というスタンスをとり続けています。兵器や戦争ごっこは大好きだけれど、戦争は大嫌いという宮崎が手掛けた傑作映画が『紅の豚』です。 今回はそんな『紅の豚』のあらすじをおさらいしつつ、作中の気になる謎を解消していきましょう!

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『紅の豚』の物語を振り返る

紅の豚

『紅の豚』は、真っ赤な飛行挺を操る賞金稼ぎの豚ポルコ・ロッソと、彼を取り巻く人々の物語。 空賊マンマユート団を退治して日銭を稼いでいたポルコに対して、彼らは用心棒としてアメリカ人の飛行艇乗り、ドナルド・カーチスを雇います。それまで無敗だったポルコは、カーチスとの最初の戦いで彼に敗北。ポルコの飛行艇サボイアも大破してしまいました。 修理のためミラノの工房ピッコロ社にサボイアを持ち込んだポルコは、そこで工房の主人の孫フィオと出会います。まだ17歳の彼女が共同で修理にあたると聞いた彼は不安を覚えますが、その熱意に負けて彼女に愛機の設計を任せることにしました。 一方、ファシスト政権に非協力的なポルコは、ミラノでも秘密警察や空軍に狙われていました。かつての戦友フェラーリンは、彼に空軍への復帰を勧めますが、彼は聞く耳を持ちません。 やがてフィオの才能と努力で、サボイアの修理と改良が完了。ポルコは「人質」という名目で彼女を乗せて、秘密警察を振り切りミラノを後にします。

ポルコがアドリア海の隠れ家に戻ると、そこには空賊連合が待ち受けていました。フィオはサボイアを叩き壊そうとする彼らを一喝し、それを阻止します。彼女の毅然とした態度を見ていたカーチスはフィオに一目惚れしてしまいました。 そこで2人は決闘をすることになります。ポルコが勝ったらサボイアの修理代はカーチスが支払い、カーチスが勝ったら彼がフィオと結婚するという条件です。 いよいよ決闘の日。ポルコとカーチスは激しい空中戦を繰り広げるも決着がつかず、勝負は素手での殴り合いにもつれ込みます。そこへポルコの昔なじみのマダム・ジーナがやって来て、イタリア空軍がこちらに向かっていることを知らせました。 相打ちで海に沈んだポルコとカーチスでしたが、ポルコは立ち上がり、勝利を宣言します。しかしフィオが彼にキスをすると、ポルコは再び倒れてしまいました。 空軍から逃げるため、散り散りになっていく空賊たち。ポルコはジーナにフィオを連れて行くよう頼みます。やがて目を覚ましたカーチスは、空軍が間近に迫っていることを知り囮になろうとポルコに提案すると、彼の顔を見て驚きの表情を浮かべるのでした。 それから数年後。フィオは工房を継ぎ、ジーナとも連絡を取り合っていました。アメリカに戻ったカーチスはハリウッドスターになりましたが、ポルコの行方はわかりません。それでもジーナは彼のことを待ちつづけていました。 そんななか、遠くの空にポルコの赤い飛行艇が飛んでいきます。

『紅の豚』の舞台は、第二次世界大戦前夜のイタリア

紅の豚

『紅の豚』の舞台となっているのは、第二次世界大戦前のイタリア。第一次世界大戦では戦勝国となったイタリアですが、この頃はムッソリーニ率いるファシスト党の独裁下にあり、経済も不安定でした。また、ヨーロッパ全体に大恐慌の波が広がりつつあった時期でもあり、物語の随所には、大戦前夜の不穏なムードが漂っています。 アドリア海の美しい景色や、飛行艇を使った戦いがどこか牧歌的に描かれているのに対して、ポルコの元戦友でイタリア空軍の少佐を務めるフェラーリンとの場面などは終始不穏な空気が漂うのも、こうした時代背景を反映したものでしょう。 同じ飛行艇乗りでも、これらは明確に対比されており、戦争の不穏な空気が近づいているからこそ、ポルコたちの自由が強調され、魅力的に感じられるのだと思います。また、こうした描写の中にも、宮崎監督の反戦的な姿勢と、ミリタリーマニアぶりが感じられますね。

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ポルコが豚になってしまった理由

なぜポルコは豚になったのか?

紅の豚

『紅の豚』の最大の特徴は、主人公が豚だという事でしょう。 しかし、劇中では彼が豚になった理由が明確に語られる事はなく、宮崎監督も「豚にした理由」を語る事はあっても、「ポルコがなぜ豚になったのか」を語る事はありません。 これについては、劇中のジーナが発した「魔法」というセリフを受けて、ネット上では「ポルコ自身が自分に魔法をかけて豚になった」「何者かがポルコを豚にした」など、いくつかの推測が飛び交っています。 その上で、ポルコが自身に魔法をかけた動機については、「いいやつは死んだやつらさ」という彼のセリフから伺えるように、「戦友が次々と死んでいってしまった中で、自分一人が生き残ってしまった贖罪」といったものをはじめ、「次々と飛行艇乗りの夫を失ったジーナへの配慮」など、いくつかの理由が語られる事もあります。 最も主流な考察は、ポルコの戦争と殺戮を繰り返し続けている人間という存在への絶望、自らも戦争で殺人行為を行った苦悩によって人間であることをやめたというものです。 しかしいずれの説も推測の域を出ておらず、今後も明らかにされる事もないでしょう。 この部分は想像の余地が残っていることがむしろ魅力とも言えるので、あなたなりの考察をしてみるのも楽しいのではないでしょうか。

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ポルコはいつ人間の姿に戻るのか?

紅の豚

ポルコが劇中で人間の場面に戻った(と推察される)のは2度。フィオに昔の仲間の思い出を語っている時と、カーチスとの決闘の後にフィオにキスをされた時です。 これも「なぜポルコが豚になったのか」という問題同様、「ポルコが人に戻ったのか?」という事は明言されておらず、ファンの間ではしばしば議論が交わされるポイントです。

ポルコの魔法を解くのは愛か

また、先述の通り、マダム・ジーナは豚になったポルコに対して「どうすればあなたの魔法が解けるのかしら」と語っています。そして、ポルコが劇中で人に戻った(ように見える)シチュエーションは、どちらも「戦争の中で、他者と深く繋がっているのを思い出している時」「常に他者と一線を引いた関わり方をするポルコの、他者との距離感が乱れた時」と解釈出来ます。 最終的にポルコが人間に戻ったのかというのは、『紅の豚』の結末における最大の謎です。 通説によると、カーチスとの激戦を制したマルコとの別れ際、飛行艇の上からフィオがすれ違い様にキスをしたことで人間に戻ったそう。ポルコを見たカーチスの台詞から考えても、人間の姿に戻っていたのは確かな様子です。 しかしそれまでのシーンでも一瞬だけ人間の姿になった描写があるため、完全に戻ったかは不明でした。 この疑問については、後に監督がインタビューで答えを明かしており、「またすぐ豚に戻って、十日くらい経つと飯を食いにジーナの前に現れる」とのこと。魔法が解けたわけではないようですが、ポルコは自分の意思で姿を変えられる、とも受け取れる言葉が気になりますね。 ポルコが完全に人に戻る時は、彼が心から誰かを愛し、その上で、その人に向きあおうとする時なのかもしれません。

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宮崎駿監督はなぜ豚を主人公にしたのか?

宮崎駿はポルコを通して何を描こうとしたのか

紅の豚

さて、そんな格好いいポルコですが、タイトルの通り「豚」です。 宮崎駿が主人公を豚にした理由の1つは、説明されているように、「豚は尊敬されないけど、少なくともあんまり憎まれない」からとのこと。宮崎駿監督は過去の作品も度々豚というモチーフを登場させており、どうやら豚に強い愛着がある様子。 監督は豚を主人公に据えて、一体何を伝えたかったのか?そもそも、本作の主人公はどうして豚でなければならなかったのか? ここからは監督が豚を通して何を表現しようとしていたのかに迫りたいと思います。

ポルコが豚である必要性

紅の豚

宮崎監督は、自画像にしばしば豚を用いる事で知られています。(他にも『宮崎駿の雑想ノート』などでもドイツやソ連の軍人を豚に擬人化して登場させています)。 宮崎監督をポルコと重ね合わせ、物語全体を通して見た時、『紅の豚』で主人公が豚である必然性が浮かんでくるようにも思えないでしょうか? 糸井重里の「カッコイイとは、こういうことさ。」というキャッチコピー通り、本作を見終わった多くの人の感想の多くは「ポルコ、カッコイイ!!!」だと思います。 つまり宮崎監督の理想像=ポルコと仮定すると、ポルコという「カッコイイ」キャラクターを描く際に、彼が人間のままだとあまりに格好が良すぎて、恥ずかしくなったから、とは考えられませんか? 世俗を離れた存在としての「豚」など、多様な解釈が出来るポルコというキャラクターですが、案外、監督が「カッコイイ」男を描く上での照れを少しでも軽減する為に豚になった、というものかもしれませんね。

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飛行艇乗りたちは宮崎駿の憧れ?

宮崎駿
©︎Orban Thierry/MCT/Newscom/Zeta Image

本作では、全編を通して飛行艇乗りは肯定的に描かれています。 例えば、フィオを通じて、飛行艇乗りたちについて語られる場面があり、そこでは「船乗りよりも勇敢で、陸の飛行機乗りより誇り高い」と表現されています。 作中の「空賊」というのは現実世界ではほとんど例がない半ばフィクションの存在で、宮崎監督の過去作品だと『天空の城ラピュタ』にも空中海賊という存在が登場。こちらでも、当初は悪役として登場しつつも、途中から主人公たちの味方になるキャラクターとして、かなり好意的に描かれています。 このように、過去作品から一貫して、宮崎監督は「空の賊」を「悪党だが、陽気で、どこか親しみを持てるキャラクター」として描いているのです。 一方、そんな空賊を相手取って賞金稼ぎとして暮らすポルコにも、宮崎監督の理想が見え隠れします。 冒頭の優雅な暮らしぶりや、荒々しく飛行艇を操り戦いながらも「戦争ではないから殺しはしない」という信念をもった行動。そして、素敵な女性たちとのロマンスなど。さらに、宮崎監督は本作の続編を作りたいと発言した事もあり、かなり愛着を持っている事が伺えます。 このように、本作で描かれる飛行艇乗りたちは皆、肯定的に描かれていることから、彼らは皆、宮崎監督の憧れを投影したキャラクターと言えるのではないでしょうか

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ジーナが歌う挿入歌『さくらんぼの実る頃』の意味

紅の豚

本作の主題歌には、マダム・ジーナ役の加藤登紀子によるエンディング・テーマ『時には昔の話を』、挿入歌『さくらんぼの実る頃』の2曲が採用されました。 ジーナが歌う『さくらんぼの実る頃』の原曲は、1866年に発表されたフランス語のシャンソン。さくらんぼの実る季節が短いことに例えて、儚い恋と失恋の悲しみを歌っています。 その一方で、1871年にフランスで樹立した自治政府パリ・コミューンを悼んで歌い継がれた曲でもあるそうです。パリ・コミューンの樹立後、約2ヶ月で新政府ヴェルサイユ軍に鎮圧され、パリ市内では一瞬にして多くの命が失われました。 戦争で3人の夫と死別したジーナの歌には、さくらんぼの実る季節のように儚い命、戦争や争いの悲惨さが込められているのでしょう

ジーナの賭けの行方とその後のポルコ

紅の豚

ジーナは劇中で、ある賭けをしているとカーチスに語ります。 その賭けの内容は、ジーナがホテルアドリアーノの庭にいる時に、ポルコが訪ねてきたら、ジーナはポルコを愛すというものです。過去、3度にわたって飛行艇乗りの夫を失ってきたジーナにとっては、再び誰かを愛するというのは相当な勇気のいる事でしょう。 ポルコはジーナが庭にいる日中にはそこを訪れる事はなく、劇中ではその賭けの顛末は「フィオとジーナの秘密」として、明言されませんでした。

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ジーナの賭けの勝敗

しかし、エンディングをよく見てください。 日中のホテルアドリアーノの庭に、ポルコの飛行艇が停泊しているカットがあるのです。 非常に小さいのですが、一般の来客用の桟橋ではなく裏庭の側に泊められた、ポルコの愛機と思しき赤い飛行艇がしっかりと描かれていました!このことから、昼間に訪れるはずのないポルコがジーナの店に現れ、ジーナは賭けに勝ったと解釈されているようです。 ジーナは賭けに勝ったのです。 この時、ポルコが人の姿かどうかは定かではありません。ですが、彼がジーナを愛すると心に決めたのであれば、彼はいつだって人に戻れるのかもしれませんね。

ジーナとの結婚を空軍時代の飛行艇の機体番号が予言!

宮崎駿監督のインタビューによると、最終的にポルコとジーナが結ばれることは、ポルコがイタリア空軍時代に乗っていた飛行艇の機体番号が示唆しているそうです。 空戦の回想シーンをよく見ると、ポルコの飛行艇の機体番号が「4」になっているのですが、これは4番目の夫を意味しているのだとか。 戦死してしまったポルコの戦友ベルリーニが乗っていた飛行艇の機体番号は「1」で、彼はジーナが結婚した最初の夫でした。 ベルリーニの死後、ジーナは飛行艇乗りと2回再婚するものの、どちらも戦争で亡くなっています。 つまり機体番号がジーナの夫の順番だったという、小技が隠されていたのですね

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『紅の豚』大人も楽しめる!謎と見どころに満ちた良作

スタジオジブリの作品としては、明らかに大人向けに作られている『紅の豚』。見た目は豚でもかっこいいポルコは、ジブリのなかでも人気の高いキャラクターの1人です。 彼のダンディズムや男の友情、男女の関係の機微、そして精巧な飛行艇の描写など、見どころも満載の『紅の豚』は、その謎に満ちた結末でも多くのファンに支持されています。 今回は、そんな『紅の豚』の謎を解説しました。これを踏まえてもう1度作品を観てみると、新たな発見があるかもしれませんね。