2017年7月6日更新

高畑勲、『火垂るの墓』などを監督しスタジオジブリを支えた名監督のキャリアを辿る事実9選

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高畑勲
©AdMedia/Newscom/Zeta Image

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長編映画監督として、世界的な知名度を築き上げた高畑勲

スタジオジブリに所属し、あの宮崎駿と同じように世界にその名を馳せたアニメーション監督・脚本家、高畑勲。『火垂るの墓』('88)では悲惨な第二次世界大戦における、神戸大空襲を美しいアニメーションと愛らしいキャラクターと共に描いた事で、国内は勿論、世界的に非常に高く評価されました。 そんな高畑勲のキャリアを辿っていきたいと思います。

1.高畑勲が映画業界を志すまで

1935年、高畑勲は7人兄弟の末っ子として三重県山田市に生を受けました。中学校校長だった父の仕事に伴って、1943年岡山市に移住。 フランスの詩人で脚本家であるジャック・プレヴェールに傾倒し、プレヴェールの詩集『Paroles』の翻訳の仕事もしています。岡山では倉敷の大原美術館を訪問、岡山県立岡山朝日高等学校卒業後、東京大学文学部仏文学科に進学。 長編漫画映画『やぶにらみの暴君』の影響で、映像世界への道を歩むことを決めました。

2.『パンダ・コパンダ』の監督を担当

『パンダ・コパンダ』は、宮崎駿とともにAプロダクションで制作した中編映画で、脚本を宮崎駿が担当、1972年に公開されました。この作品は、私生活で小さな子供を持つ高畑、宮崎、小田部羊一の3人が、自分たちの子供に見せる映画を作ろうと企画したものでした。 主人公のミミ子のキャラクターが『長くつ下のピッピ』にヒントを得て作られたことは明らかです。 『長くつ下のピッピ』は3人がアニメ化を目指して取り組んだ作品で、スウェーデンまでロケハンに出かけましたが原作者の承諾が得られなかっため実現には至りませんでした。ミミ子の三つ編や性格はピッピそっくりなのです。なお、この作品で登場するパパンダは、トトロの原型と言われています。

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3.『じゃりン子チエ』がキャリアの転機に

『じゃりン子チエ』は400万部以上売上げたはるき悦巳原作の人情コメディ漫画で、一部で絶大な人気を誇っていました。高畑勲は原作を読んだ上で監督の仕事を了承、大阪へのロケハンを決行しました。 現地では木賃宿に泊まり、銭湯に通い、労働者の生活風習を存分に味わうたことができたと話しています。 1981年公開の本作は興業的にも成功を収め、テレビ版の制作が決まりました。この作品を大変気に入っていた高畑勲は、チエの父親・竹本テツをもじった武元哲という別名を使用しています。

4.スタジオジブリを設立

東映動画の同僚(高畑が5つ先輩)として知り合った2人は、よりよい環境を求め一方が一方を誘うという形で職場を転々とします。 『天空の少女ラピュタ』の制作拠点を探していた時、「いっそスタジオを作らないか?」と切り出した高畑勲の言葉をきっかけに、1985年、徳間書店出資のスタジオジブリが設立されました。 それからスタジオジブリに所属してはいますが、「作者は経営の責任を追うべきではないという」という考えのもと、現在に至るまで一度も役職についていません。

5.名作『火垂るの墓』の監督を務める

スタジオジブリ設立後、高畑勲第1作となったのが1988年発表の『火垂るの墓』です。作者・野坂昭如の実体験を元に描いた原作は、戦火の中で必死に生きようとする兄妹を生き生きと描き、直木賞を受賞しました。 『となりのトトロ』と『火垂るの墓』同時上映の決定は、ジブリ内で長編2本を制作することを意味し、人員のやりくりのために現場は混乱を極めました。 その結果、彩色が間に合わないという事態が発生、『火垂るの墓』は一部色のつかない状態で公開することとなったのです。この失態は、アニメ演出家としての道を断とうかと迷うほど苦しめたそうです。そして3年後の1991年の『おもひでぽろぽろ』で復帰を果たしています。

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6.宮崎駿との関係性

『風の谷のナウシカ』制作に当たって、宮崎駿は信頼できる高畑勲をプロデューサーに指名。プロデューサーの経験はなかったため始めは仕事を渋りましたが、「友達が困っているのに助けないのか」という鈴木敏夫の言葉で受けることを決めたそうです。 高畑は返事を渋っていた間にプロデューサー業について調べ上げ、承諾した後は完璧に仕事をこなしました。今では宮崎作品に欠かせない作曲家・久石譲ですが、久石の無名時代に反発するレコード会社を説得し、なんとか起用に漕ぎつけたのは高畑勲でした。 興行的に成功を収めた『風の谷のナウシカ』で得た資金を、今度は高畑の作品に注ぎ込もうと、1987年、2人は『柳川割物語』に着手したのです。ところがこの作品は予想以上に撮影が長引いたため制作費が跳ね上がり、宮崎の資金を使い尽くすだけでなく、自宅を抵当に入れるほどになりました。この借金を補うために『天空の少女ラピュタ』の制作が行われました。 このように、高畑勲と宮崎駿は持ちつ持たれつ、お互い補い合う一蓮托生の関係でした。 宮崎は東映動画時代、組合活動の中で高畑の影響を受け、演出面でもその存在を強く意識しています。鈴木敏夫いわく、宮崎駿が自分の作品を一番見せたい相手は高畑勲であると。時が過ぎ、一緒に作品を作ることがなくなっても、熱い信頼関係で結ばれている2人なのでしょう。

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7.高畑勲が「パクさん」と呼ばれているワケ

高畑勲は東映動画時代によく遅刻して食パンをパクパク食べていたため、宮崎駿や元同僚から「パクさん」と呼ばれるようになりました。 「パクさん」こと高畑勲は制作スピードが遅いことで有名で、宮崎駿から「パクさんはナマケモノの子孫です」と例えられるほどです。『太陽の王子 ホルスの大冒険』では制作の遅れが責任問題となり、プロデューサーが交代させられる事態に陥りました。 『ホーホケキョとなりの山田くん』では「製作は順調に遅れています」と不可思議な予告編が流れました。『かぐや姫の物語』は、企画から5年で30分しか完成していないという危機的状況を見て高畑勲の尻に火をつけようと算段したプロヂューサーが、敢えて『風立ちぬ』との同時公開を発表しました。

8.14年ぶりの監督作品は『かぐや姫の物語』

1999年に公開された『ホーホケキョ となりの山田くん』は、約20億円の制作費を注ぎ込んだにも関わらず、興行収入15億円と目標を大きく下回ることになりました。この失敗を受け、監督作品のないまま10年以上の歳月が流れました。 2008年、新作映画にとりかかっていることが発表され、2013年11月、『竹取物語』を原作に描いた『かぐや姫の物語』が公開されました。本作は『ホーホケキョ となりの山田くん』をお気に召した日本テレビ会長・氏家齋一郎の威光で、50億円という類をみない制作費を使うことができたのです。 結果は興行収入24.7億円と制作費にも遠く及ばない数字で幕を閉じました。しかし数字とは裏腹にアカデミー賞長編アニメ作品賞にノミネートされ、大きな話題となりました。

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9.こんなたくさん手がけていた!高畑勲のその他の作品

『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1968年)

アイヌの伝承をモチーフとした、深沢一夫の『チキサニの太陽』を基として1968年に制作されました。高畑勲にとっては初監督作品で、宮崎駿にとっては初めて携わったアニメ作品です。1億3000万円を投入し制作しましたが、成績は失敗に終わりました。

『パンダコパンダ 雨降りサーカスの巻』(1973年)

『パンダコパンダ』に続く作品で、1973年に公開されました。 ミミ子の部屋にサーカスのトラの子が紛れ込みます。近所に巡業してきた子トラがサーカス団から逃げ出してきたのです。サーカス団に招待されたミミ子たちは、洪水で立ち往生している動物たちを助けることになりました。

『セロ弾きのゴージュ』(1882年)

『セロ弾きのゴージュ』は、作者・宮崎賢治の死後発表されたの作品です。 本作は1882年、高畑勲が5年をかけて完成させた作品で、大藤信郎賞を受賞しました。原作に登場する『第六交響曲』は作曲家が誰のものか分かりませんが、宮沢賢治の遺品の中にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団によるベートーヴェンの交響曲第6番があったため、高畑はベートーヴェンの交響曲第6番ヘ長調作品68『田園』を使用したのです。

『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994年)

本作は1994年に公開された作品で、企画を宮崎駿、原作・監督・脚本を高畑勲が務めています。CG使用はジブリ初の試みで興行収入44.7億円、この年トップセールスに輝きました。 宅地造成によって住む場所を失い、自然破壊と戦おうとするタヌキたちの姿をコミカルに描いています。